【失踪〈3〉】

「ごめん・・・・」


 帰宅した兄に、私は開口一番、頭を下げた。

 玄関先でのいきなりの謝罪の意味を兄は瞬時に悟ったらしく、「あ・・・・うん」と言い、中に入った。


「早かったね」

「今日? そうだね、仕事が一段落したから定時」

「そっか・・・・」


 いつもは深夜帰宅が多い兄が夜の9時台に帰宅するのは珍しく、就寝までに時間があるだけに、まず何から話そうかと私は戸惑った。


「話しちゃったんでしょ? 母さんに」


 手洗いとうがいを済ませリビングに入ってくるなり、兄は淡々と言った。


「え・・・・うん・・・・ごめん」

「まあ・・・・仕方ないね、前触れもなくいきなり話した僕もちょっと考えが足りなかったし。三咲を責める気はないよ」

「ちょっとあの・・・・黙っていられなくて」

「わかるよ。で・・・・あれ? そういえば母さんは?」


 母がいないことにふいに気づいた兄がキッチンの方に目をやりながら言った。


「出掛けてる」

「どこに?」

「わからない」

「わからない? でももうじき10時になるよ? 遅くない?」

「そう・・・・だね」


 普段、専業主婦の母が日常の買い物以外で1人で外出をすること自体はなくはない。

 昔からの女友達とスイーツバイキングに行くこともある。

 けれどそれはたいてい昼間のことで、深夜に差し掛かる時間まで帰らないことは今まで1度もなかった。


「LINEは? してみた? 電話は?」

「LINEはさっきしたけど既読になってない。電話はまだ」

「じゃ僕がしてみるよ」


 そう言うと兄はスマホを取り出した。

 するとちょうどそのタイミングで私のスマホに母からLINEが届いた。


「あ、来た! お母さんから」

「ほんと?! 何て?」


 慌てて開けてみるとそこには──


〈あとはよろしく〉


 ひと言、それだけだった。


「え、何これ、どういうこと?」

「ちょっと電話してみて!」

「う、うん」


 異様な何かを感じたように兄が私に指示をした。


「だめだ、出ない」

「じゃ、僕が掛ける」


 結局、どちらの電話にも母は出なかった。

 LINEも送ってみたがどれも既読にはならない。

 兄と私は顔を見合せ、互いに感じている胸騒ぎを無言で確認し合った。


「あとはよろしく・・・・どういうことだろう。やっぱり私がお兄ちゃんのことを話したのがショックでそれでお母さん──」

 

 自責の念が最悪の事態を想像させ、思わず私は身を震わせた。

 しかし兄は冷静な様子で首を降り、「いや、それは違うと思う」と、そう言った。


「どうして? だって──」

「何で今なんだ、って言ったんでしょ? 母さんは」

「うん・・・・」

「ってことは僕の件がなければ、母さん自身に何か考えていたことやしようとしていたことがあった、ってことだよね?」

「・・・・」

「もっと違うタイミングにしてくれれば良かったのに、よりによって何でこのタイミングなのよ! ってニュアンスしゃなかった? 言葉のイメージとしてはそう感じるんだけど」


 確かに、母の様子は落胆や悲しさではなく、むしろ怒りに近い苛立ちを表に出していた。

 テーブルを両手で叩いて立ち上がった光景が脳裏によみがえる。


「言われてみればそんな感じはあったけど・・・・でもそれはお父さんがいい話をせっかく持ってくるのに何でこのタイミングなのよ、っていうこともあるかも・・・・」

「ないと思う。それならまずは僕に事実を確かめるなり話し合うなり父さんに話すなりするよ。昔から物事をハッキリさせないと気が済まないところがあるし。三咲から話を聞いただけで、それがショックでいきなりいなくなるなんてことはまずあり得ないと思う」

「じゃ・・・・何で・・・・」

「うーん・・・・そこなんだよね。今というタイミングが母さんにとって良くなかった理由・・・・わからないなぁ・・・・」


〈あとはよろしく〉


 それだけ残して消えた母。

 そのひと言で一気に母が遠い存在になってしまったような気がし、代わりに得体の知れない何かが近づいている暗い感覚に、私の気分は重く沈み込んでいった。




 

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