【母、美都子】
「あ、
「?」
兄の──聞かされた方はどう消化すればいいか分からない──話に受けた衝撃も生々しいまま、ぼんやりとした気分で自宅の門扉に近づく私にふいに年配女性が声を掛けてきた。
10月の満月の夜8時、月明かりの下で見なれない顔が笑っている。
「何でしょう?」
「ああ、ご挨拶の日にお会いしてないものね。私、あの角に越してきた
「あ、そうでしたか。初めまして。
「娘さんね、おいくつ?」
「24です」
「ああそう。息子さんは?」
「え?」
「息子さんいるでしょ? ご挨拶の時にチラッとお見かけしたけど。あれはお兄さんかしら?」
「あ、ああ、はい、兄です」
「お名前は? 何君?」
「・・・・
「おいくつ?」
「26ですが・・・・」
「あらぁ、ふふ」
(何、この人)
初対面にも関わらず私や兄の名前や年齢など聞いてどうするのだろう?──
だいたい「あらぁ、ふふ」とは?
見れば何だか嬉しげな顔つきになっている。
アラフィフだろうか?
夜目にも化粧が濃いのが分かる。
「では、失礼しま──」
「
「えっ?!」
「いい匂いよねぇ。ちょっと下さる?」
「はい??」
門扉の横に立派に茂る木を指差し、隅木幸子は言った。
「玄関に飾りたいと思って。2,3本でいいから」
確かにウチの
だからといって、引っ越してきたばかりでいきなりよその家の木の枝を下さいと言う神経が分からない。
「あら、お帰り~」
私が困惑しているとタイミング良く玄関のドアが開き、母が顔を出した。
「ただいま。あ、えっと今──」
「あら奥さん、こんばんは!」
私の声を遮り、隅木幸子は母に挨拶をした。
「ああ、隅木さん、こんばんは」
「金木犀をね、ちょっと頂きたいの」
「金木犀?」
「そう、枝をね、2,3本」
「あ・・・・どうぞ」
「じゃ、遠慮なく」
言うやいなや、ジャケットのポケットから裁ち鋏を取り出し、隅木幸子は塀の外に出ている枝をジャキッと切った。
かなり大きい枝だ。
そしてさらにもう一本切ると、「はい、お世話様~」とだけ言い、さっさと帰って行った。
「何なの、あの人。ありがとうの一言もないじゃない。お世話様~、だって。何、あの言い方」
中に入り靴を脱ぎながら、私はムカつくままを口にした。
「だってあの人、頭おかしいもの」
リビングのドアを開けた母がサラッと言い放った。
「え? どういうこと?」
思わず聞き返す。
「先週ね、引っ越しの挨拶に来たのよ」
「うん、それは聞いた。あの角の家でしょ?」
「そう。その時の話は三咲にしてなかったんだけどね、家の中を見たいって言ったのよ、いきなり。はあ? でしょ? 引っ越しの挨拶に来ただけの初対面の人間を家の中まで入れるわけがないじゃない。だからキッパリ断ったのよ、無理って。そしたら今度は下駄箱の上のこれ」
そう言って母はクリスタル製の招き猫の置物を指差した。
「高そうな猫ね、お近づきの印に頂いていい? だって」
「ええっ?」
「ね? 頭おかしいでしょ? 高そうだからくれなんて」
「うん、確かにおかしい」
「で、その時お兄ちゃんが・・・・あら、一緒じゃないの?」
お兄ちゃん、という言葉に私は若干ドキリとした。
母の知らない秘密が胸に重い。
「あ、駅ビルの本屋に寄ってから帰るって」
「あらそう。でね、その時お兄ちゃんが2階から下りて来たのよ、お休みの日だったから。そしたらあの人、何て言ったと思う?」
「?」
「あらイケメン! 彼女いるの? 遊んでる? だって」
「えーっ、いきなり?!」
「そう、ほんといきなり馴れ馴れしく。お兄ちゃん会釈だけして奥に引っ込んじゃったわよ」
「だろうね、驚くよね」
「間違いなくおかしいわよ、あの人。三咲も関わっちゃダメよ?」
「うん。でも家族は? どんな人たちなんだろう」
「さあ、そんな話はしてなかったわね、旦那さんはいるみたいだけど。まあとにかく関わらないでおきましょ」
「うん、わかった」
リビングテーブルの上を片付けながら怒り口調で言う母に、私はこっくり頷いた。
と同時に、この母が兄の秘密を知った時、一体どうなるのか、なってしまうのか──考えたくはないが確実にいつかは知ることになるだろう状況を思い、気持ちが落ちてゆくのを感じていた。
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