外伝3 永遠の貴方

永遠の貴方(前編)

「あのね、水那ちゃん。お父さんから『もう一度一緒に暮らしたい』というお話が来てるんだけど……」

「えっ……」


 それは、17歳の夏のこと。10歳から身を寄せている児童養護施設の院長先生の言葉だった。


「………………」

「ああ、そうよね。驚くわよね」


 黙り込んだ私に、先生はちょっと慌てたような笑顔を作る。


「でもね、お父さん、頑張ったんですって。お仕事もね、建設会社に入られたそうなの。だから水那ちゃんを引き取りたいって……」

「…………」


 父は事業が失敗したあと、昼間からお酒を飲むようになり、だんだんやさぐれていった。

 そして、10歳だった私に――暴力をふるった。

 今でも、私の首の後ろには、父からつけられた煙草の火傷の痕がある。


「あの……で、も……」


 私は思わず左手で自分の首の後ろに触れた。

 ――冷たい水を浴びせられたように、身体が硬直する。


「あのね……水那ちゃん、もうここに来て7年でしょ? こうして施設のお手伝いをしてくれるのは助かるんだけれど……その……」


 先生は少し言いにくそうにしながら俯いた。


「やっぱり、もうそろそろ社会に出ないと……」


 先生の一言で、私は理解した。

 そうか……私はもう、邪魔なんだ。


「……あの」

「今度の日曜日にね、お父さんがいらっしゃるから。そのつもりでいてちょうだいね」


 先生はどうにか絞り出した私の言葉を遮るように早口でそう言うと、足早に去って行った。



 ――颯太ソータくん。あの時みたいに……私を助けて。



 この施設には、私以外には在所2年未満の人達しかいない。

 普通は誰かの養子になって引き取られたり、就職して独立したりするけれど……私は両方ともできなかった。

 人とコミュニケーションを取るのが難しくて、殆ど喋れない。アルバイトすることすら難しかった。


 母の国の言葉、テスラ語。この言葉を発すると、相手を自分の思い通りに動かしてしまう。

 この力は日本語では発動しない。それはわかってる。

 だけど……何か言おうと口を開く度に殴られた昔を思い出して、怯んでしまう。

 誰かと話すようになったら、何かの拍子で咄嗟に相手を操って傷つけてしまうかもしれない。

 そう思ったら、日本語を話すこともすごく怖い。


 施設では、小さい子の世話をしたり料理のお手伝いをしたりと喋らなくてもできることは多くて、安心できた。

 子供たちは、私があまり話せなくても心で感じ取ってくれて、笑顔には笑顔で返してくれるから。

 でも……やっぱり、駄目なんだ。

 私はここでも、必要とはされていないんだ。



 ――颯太くん。私……どこに行けばいいんだろう……。




 日曜日が訪れた。

 7年ぶりに見る父は、何だか覇気がなく、くたくたの背広を着ていた。

 髪の毛はとりあえず整えた、という感じで、全然やり慣れていない気がする。

 近寄ると少しお酒臭くて、あの時から心を入れ替えたようには全然見えなかった。

 それでも、院長先生は「安達組の紹介も取れてるから大丈夫よ」と言って私を励ました。


「今日はお父さんの職場に案内して下さるんですって。とりあえず見て来て、それから考えてみたらどうかしら?」

「……」


 私は黙って頷いた。

 私を外に出したいというのが本音だろうけど、院長先生なりに私の気持ちを尊重してくれているのはわかったから。


「ありがとうございました。それじゃ……」


 父は院長先生に会釈すると、私の腕を掴んで歩き始めた。


「……」


 私は慌てて院長先生に頭を下げた。

 父はヨロヨロする私に構うことなく、ズンズン歩いていく。

 何でこんなに強く引っ張るんだろう。相変わらず怖い。


「あの……離……」

「黙れ!」


 施設が見えなくなった途端、父は右手で私の口を塞いだ。


「また、あのヘンな力を使う気だろ。もう喋らせねぇからな」

「うー!」


 そんな簡単には出せないのに……! それに使ったら、気を失ってしまう。

 それこそ、その後が……。

 でも……じゃあ、どうしたらいいの。



 ――颯太くん。私……怖い。




「……これでよし、と」


 父は私を見て満足げに頷いた。

 車の中。私は後部座席に座らされている。

 私の両手は紐でぐるぐる巻きに縛られていた。

 そして私の口には紐が通され、首の後ろでギュッと縛られている。言葉を喋らせないためだと思う。そして、その上からマスクをつけさせられた。


「……」


 私は思わず父を睨んだ。

 絶対――改心なんてしてない。何をする気なの?


「……その目はやめろ」


 父は私を睨みつけると、不愉快そうに言った。


「ちょっとおとなしくしてもらっただけだ。もうお前を殴ったりはしない」

「……」

「……大事な商品だからな」


 商品……? どういう意味……?


 父はフッと笑うと、車を走らせた。

 私は窓の外の景色を見ながら、深呼吸した。


 落ち着いて。父は私を傷つけない、と言った。

 こんな状態の私を連れまわすことなんて、絶対にできないはず。どこかで必ず、紐は解かれる。

 そのときに、どうにかして逃げれば……。

 でも……逃げるって、どこに?

 お金だって一円も持ってない。警察に駆け込んだって、多分無理。父が娘を誘拐するなんて、信じてもらえない。

 それに……うまく話せる自信もない。

 どうすれば……。


 ――やっぱり、あの力を使うしかないのかしら……。



「――着いたぞ」


 父の声に、ハッと我に返る。そこは、薄汚れたゴチャゴチャした街並みの一角にある、古びたビルの前だった。

 細い路地になっていて、人通りは全くない。


「……よっと」


 私のあては外れて――両手を縛られ猿ぐつわも外されないまま、私は父に担ぎ上げられた。


「お前、ガリガリだな。貧相な身体だが……ま、大丈夫だろ。若いしな。それに、これからは少しはイイモン食わせてもらえるだろうし」

「……?」


 私は慌てて周りを見回した。

 この辺りは繁華街ではない。このビルも、いわゆる風俗店とかではなさそうだ。ただの古いビル。テナントも殆ど入ってないし……。

 じゃあ、どういうつもりでここに?


「赤坂さん、連れてきました」


 一室に入ると、父が私を抱えたまま頭を下げた。頭がくらくらする。


「それが娘か」

「ええ」


 父が私を下ろし、話している相手の方に向かせた。

 スーツ姿の五十ぐらいの凄みのある男と、派手なポロシャツを着た少し若い男の二人組。

 ――ヤクザ、かもしれない……。


「へ……え」


 若い男が私の顔をジロジロ見た。

 中年の男が「どけ」と命じると、若い男はちょっとだけ頭を下げてすんなり後ろに下がった。

 今度はその中年の男が私をじっと見つめる。

 私は負けじと睨み返した。


 きっとこの人は、この三人の中で一番エラい人だ。赤坂さん、と呼ばれたのはこの人。

 この人をどうにかしなければ、私は逃げられない。気持ちで負ける訳にはいかない。


「……なかなか肝の据わった女だな。……ん?」


 男が私のマスクと……その下に巻かれている紐に気づいた。


「こいつぁ、何だ?」

「喋らせるとマズいんで……」

「ああん? 噛みつくってか?」


 男は少し笑いながら、私のマスクを外した。


「ほー……紐が邪魔だが、なかなか上玉だ」

「こいつでどうですかね」


 父がヘラヘラと卑屈な愛想笑いをしている。


「どうって……お前の借金がチャラになる……ってか?」


 赤坂がフンと鼻で笑う。その途端、若い男が父を羽交い絞めにした。


「な、何を……!」

「娘を差し出したくらいでチャラになるかよ。……ま、せいぜい利子になるかどうかだな」

「な……! だ、騙したな!」

「俺は何も言ってないぞ。娘がいたよなぁ?って聞いただけだぞ?」


 父にそう言うと、赤坂は私の方に振り返った。

 その瞳の奥の嫌な輝きに、背筋がぞくりと寒くなる。


「んー……どうすっかな。とりあえずは、味見させてもらうか」

「うー!」


 赤坂が私を抱え上げ、近くのソファに押し倒した。


「う、うーっ!」


 縛られた両手をぶんぶん振り回す。縛りが甘かったのか紐からするりと抜けた。

 自由になった両腕を振り上げて全力で抵抗しようとしたけど、赤坂にあっさり受け止められてしまう。

 結局、彼の片手だけで私の両腕は拘束されてしまった。


「あぐ、ぐ、ぐー!」

「やっぱ猿ぐつわは萎えるな。悲鳴の方がまだマシってもんで……」

「あ、あ、それを取っちゃあ……!

「うるせぇ! 俺に指図すんじゃねぇよ!」


 赤坂は怒鳴りながら私の口に巻かれた紐をほどいた。


「お、なかなか……」


『【――!】』


 思い切りテスラ語で叫ぶ。

 赤坂がビクッとして私の上から飛びのいた。


 逃げなきゃ。逃げなきゃ。

 ……駄目だ、入口は父とあの若い男がいる。窓は……駄目だ、鍵が錆ついてすぐには開きそうにない。それに、ここはかなり上の階みたいだ。


「この……!」


『【! !】』


 我に返ったらしい赤坂が私に飛びかかろうとしていたが――ピタリと止まる。

 父が若い男の腕を振り切り、赤坂に飛びかかった。父を押さえていた若い男は、何が起こっているのかわからないながらも、赤坂に襲いかかる父を引き戻そうと必死になっている。

 この隙に、逃げ……。


「……く……」


 意識が朦朧とする。駄目、ここで気を失っては……絶対に駄目!

 逃げなきゃ。どこかに、早く逃げなきゃ。



 ――行くぞ、水那!



 颯太くんの顔がよぎる。

 あのとき……父から逃げるとき、力強く手を引いてくれた颯太くんの顔が……。 


「あ……!」


 次の瞬間、私の目の前の空間に切れ目が現れた。何かはわからない。

 でも……私の逃げ道は、ここしかない。


「……!」


 私は歯を食いしばると、その不思議な切れ目に飛び込んだ。



 ――颯太くん……また私を、助けてくれたのね。



  ◆ ◆ ◆



「ん……」

「グウゥゥ……」


 目を覚ますと、ドゥンケが傍にちょこんと座っていた。


「グウ、グウゥゥ……」


 もうすでに身体はないけれど……漂う私のもやに、スリスリと身体を寄せる。


「……大丈夫よ。ちょっと……昔を思い出していた……だけなの」


 私はドゥンケをそっと撫でると、ゆっくりと辺りを見回した。

 ここは――通称、ドゥンケの島。

 私達が住む神殿の上にある……深い深い森の中。


「とても落ち着く……辺りの空気が澄んでいるわ」

「グゥ」


 ドゥンケは小さく吠えた。そして崖の上の方をみて「グゥゥゥ……」と促すように啼く。


「……あっちの方? 行きたいの?」

「グゥ」


 私はちょっと微笑むと、そっとドゥンケを抱きしめた。


「そうね。まだ小さいから……飛べないものね。……私が、連れて行ってあげる」

「グゥ!」


 ふわりと宙に浮く。ゆっくりと、地面が遠くなる。


「グウゥ……!」


 ドゥンケはパタパタとしっぽを振ると、嬉しそうに啼いた。

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