雨に濡れた雪葉
第50話 (S字曲線・コトバ)
※明朝体フォントに直して、お読みください。
(S字曲線・コトバ)
九月が終わり、雪葉からもらったジャージが体になじんできた頃。わかりやすく言うと、雪葉が俺と手を繋ぐことにいちいち躊躇しなくなった頃……だった。
「重力加速度が~」
物理第二実験室。講師が教室に行くことを面倒くさがり、稀に実験室で授業をしたりする。今日がそうだった。
俺と雪葉は一番後ろの席で隣同士。実験室の机はつながっていて、それだけに体も近くなるのは必然とも言えた。
前までは実験室に行くのが面倒で仕方なかったが、いまでは実験室の授業がある日はワクワクしてしまう。
雪葉はノートにごちゃごちゃと書き込んで……明らかに授業に関係ない数式を書き込んでいた。
ちなみに雪葉の字はかなり汚い。どれぐらいかって言うと年食った物理講師のアルファベット並みに汚い。
清楚系クールツンデレヒロインにおいてありえないレベルで汚かった。ミミズがウネウネと張ったような文字だ。
ノートはB4サイズの横軸罫線のみ。
ページをまたいでいろんなところに数式や英字や漢字の書き取りやお絵かきの跡がある。しかも、ノートの『下』が統一されていないので、クルクルノートを回して読むことになる。
対し俺は教科書に全て書き込み派だ。課題は一応ノートにやってるが……。
「ね、悠人」
「なんだ?」
「みて、これ」
そんなことを考えているうちに書き終えたのか、こちらにノートを滑らせた。
多少値なりは違うが、雪葉がペン先で差したグラフは横軸(x)mで縦軸(y)heartνのシグモイド関数。俗名、S字曲線。
名の通り、S字型の曲線だ。正確な形は積分の『∫』の方が近い。
目だけで問うと、我が意を得たりとばかりに雪葉は大きく頷いた。そしてペンでそのグラフの下半分の中腹辺りを差す。
そして俺にささやいた。
「いま、ココ」
椅子を寄せてきて、それに合わせてペン先をグラフの中腹に動かす。
雪葉のかすれ声が大きく聞こえた。
「いま、ちょっとあがった……」
体を寄せてきた。腕が触れあう。ペン先は上半分の中腹へ。
雪葉の息づかいを感じる。触れた腕が焼けるように熱い。ドクドクと鳴る自分の心臓の音がうるさい。
「この先、見る?」
その意味がどういうことかは理解した。この曲線は、俺と雪葉の距離を変数とした心拍数を表す方程式だったのだ。
無言で頷くと、雪葉は俺の腕の下から腕を通して手を重ねた。
肩も、腕も、腰も、足も…右半身が雪葉と密着する。
ペンはグラフの線をなぞって一番上に行き、そのままグラフをつき破る。
雪葉は俺の耳に口を寄せて、ささやいた。
「おーばーひーと、ぜろせんち♡」
耳に息が掛かる。暖かくて甘ったるくてドロドロのガムシロップのような吐息が俺の耳を包む。
胸の高鳴りがうるさい。
体を引いた雪葉が最後に俺の耳に残した感触は、柔らかかった。
キス魔とはこの悪魔のことである。
「恥ずかしい……」
「じゃあ離れろよ」
「ヤダ……」
いいつつ、上目遣いで俺を見て、今度は頬に柔らかい感触を落とした。
この悪魔、俺を殺す気である。
手を繋ぐ、そのことがもう習慣付いていた。
学校を出て公道に出ると、どちらからともなく手の甲をノックする。そして、手を繋ぐ。
恥ずかしがるようなこともなくなって、かといってマンネリ化したわけでもなく。雪葉は嬉しげに、満足げに足取りを軽くする。
それが可愛くてにぎにぎと握ってやると、顔を赤くする。
無言でも幸せだった。
「……」
雪葉が顔を赤くしつつ、肩を寄せてくる。
そしてここ数日、雪葉は腕を絡めて手を繋ぐことにハマったようだ。この繋ぎ方は上半身が完全に密着するので、とてもイイらしい。
落ち着く、と言っていたが少なくとも俺は興奮するし、雪葉も落ち着くんじゃなくてドキドキするんだろう。
手を握り直すと、呼応するように握り返してきた。
クスッと雪葉が笑みを零した。釣られて笑うと、もっと嬉しそうに笑う。
なんだこの満たされていく充足感と、心を跳ねさせる幸福感は。
「私が今日はクレープおごる日~…♪」
楽しそうにそう言って、そのまま鼻歌に続く。
だから、少しいじわるをしたくなったのかもしれない。
手首の角度を変え、雪葉の指の隙間に指を滑り込ませる。
「っ――!?」
逃げようとした雪葉を捕まえて引き寄せる。
今、俺たちがやっているのは俗に言う恋人つなぎ。指と指とを絡め合わせたつなぎ方は、指が痛くなるけどやる価値はあった。
それに……。
雪葉に笑いかけて、照れ隠しにおどけたような口調を出す。
「別に俺たちがやっても何も悪くないだろ?」
「っ……それ反則……」
頬を染めてそっぽを向くが、手を振りほどこうとはしなかった。むしろ、握る力を強めてくる。
どこまでもアマアマな雪葉であった。
「と思ったら翌日」
「なに……突然ヘンなこと言い出さないで」
今日はツンツンの日か。
天気予報みたいな感じで雪葉予報とかないかな~と願う今日この頃。
朝、交差点の下で俺を待っていてくれたものの、第一声は不機嫌そうな『
「手、繋ぐか?」
「っ、繋ぐわけないっ!そんなことしないしっ……」
「そうか……」
ここ最近、日ごとの雪葉の感情の起伏が大きくなっていた。
ふいとそっぽを向いて先に歩き出す。そして俺が何もしていないのに……。
「
時々俺を睨んだりする。
「どうしたんだよ、マジで」
「別に何でもっ!」
怒ったようにそう言って早足で歩く雪葉。
なんでこんなにツンツンしているのか分からなくなって、イライラが俺の方にも溜まっていった。
と思ったら翌日の雪葉は再び甘えてきたり、からかってきたり。
心の奥底に、とても小さな不満が芽生える。お前は俺を好きなのか嫌いなのかはっきりしろよ、という不満。
考えの読めないツンツン雪葉への鬱憤。
そしてそれは速度を増して大きくなって、次のツンツン雪葉の日、それは爆発した。
「
話しかけても冷たい態度での応答。話を楽しんでいるようには見えない態度。
それに疲労困憊していた。そこにこの言葉が刺さって、身体中の血が沸騰するような感覚に襲われた。
トリガーを引いたのは間違いなくコレだった。
「なんでって雪葉がずっとイライラしてるからだろ!
女子だか――ッ、そういう日かって思って我慢してたけどここ最近ずっと!もう一ヶ月ぐらいこんなんじゃねぇかよ!」
「ッ――!」
ハッキリと、雪葉は傷ついた顔をした。それが見えたのに……そこで終わっていればと、後悔しても遅い。
再び雪葉を傷つけるための言葉を放つため、口を開く。
「イライラして勝手に俺に当たり散らして!そのクセ翌日には甘えてきて!わかんねぇよ俺にはっ……」
雪葉は泣き出したのに、泣いてるのに、それなのに、言ってしまった。
絶対に雪葉を傷つける、その言葉のナイフを。
どうせ明日には甘えてくるんだ、そのときに謝ればいいって。そんな甘ったれた考えで、簡単に投げてしまった。
「お前が突っ掛かって来るのが悪ぃんだよ!」
初めて、好きだと思ってから初めて、雪葉のことを本気で『お前』って呼んだ。
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