第6話 前進

野瀬と中川が付き合い始めて二週間が経った。とはいえ二人の生活にさしたる変わりはない。同じ講義を受講するときは隣に座り、講義が終わったら一緒に帰路につく。そうでなければあの河原で落ち合い、ベンチで話をしたり、一緒に散歩をしたりと、付き合う前からしてきたことと同じことを繰り返していた。ただ、若干違うとすれば、たまに手を繋ぐことがあるくらいだ。隣に座っている時や歩いている時、野瀬が手を差し出すと、中川は決まって「恥ずかしいな」と言いながらも手を握ってくれる。河原は整備されているわりに人通りがほとんどないから、二人は安心して手を繋ぐことができた。流石に大学からの帰り道で手を繋ぐことはなかったが、河原で二人はよく手を繋いだ。温かい感触が二人の絆をより深いものにしていた。

 ある日、二人が一緒に受けている講義で小テストが行われた。小テストと銘打っておきながら内容は骨のあるもので、しっかりと勉強していないと答えられない記述問題だった。野瀬も中川も日頃から真面目に講義を受けており、ノートもきちんととって、勉強もして小テストに臨んだため、手ごたえはあった。終わった後、二人で顔を見合わせてほくそ笑む。

「できた?」

「うん、だいぶ良いと思う。」

河原でノート片手に問題を出し合って勉強したのが良かったのかもしれない。周りの学生が暗い顔をしている中、二人は十分な手ごたえに満足していた。

「あー、でも昨日勉強頑張ったから少し疲れたな。」

野瀬はそう言いながらテキストやノートを鞄にしまう。実際、前夜にしっかりと勉強をしたから少し疲れが抜けていなかった。中川も同じく勉強をしていたらしく、何度も頷いて同意する。

「俺も疲れた。コーヒーでもゆっくり飲みたい気分…あ、じゃあさ、これからうちに来ない?」

「え?」

突拍子のない誘いに野瀬は中川の顔を見る。コーヒーが飲みたい、という言葉から家に誘われるとは全く思っていなかったのだ。中川は驚いている野瀬の様子がおかしいらしく、肩を揺らしてクスクスと笑っている。

「俺、うちでコーヒー淹れてるって言っただろ。それ、飲ませてあげるよ。」

成程そう言うことかと野瀬は納得がいく。

「じゃあ、お邪魔しようかな。」

中川が淹れるコーヒーも楽しみだが、中川の部屋自体にも興味がある。野瀬のアパートよりも大学に近いアパートに住んでいることは知っていたが、いつも分かれ道で別れてしまうので具体的な場所は知らないのだ。中川は野瀬の返事を聞くと頷き、教室の時計を見やる。

「それじゃあ、ちょっと早いけど、飯もうちで食べなよ。簡単なものしか作れないけど。」

「え?中川、作ってくれるの?」

これまた予想外の提案に、野瀬は声を上げた。中川はさっさと帰り支度をして、鞄を肩にかけた。

「うん。それともほかで食べてからうちに来る?」

「ううん。中川の料理、食べたい!」

中川の言葉に野瀬はすぐ首を振っていた。恋人の手作りの料理、男なら誰でも憧れる者のひとつだろう。野瀬もその例に漏れず、いつか料理をすると言う中川が作るものを食べたいと思っていたのだった。

「じゃあ、決まりね。行こう。」

中川はそう言うと微笑んで、講義室を出ていく。野瀬もそれに続いた。


 中川の住むアパートは大学から歩いて十分ほどの場所にあった。薄緑色の外壁が特徴の、小さいけれど精錬された雰囲気のあるアパートだ。中川の部屋は二階の203号室。

「散らかってて悪いけど。」

そう言いながら中川は鍵を開け、野瀬を中に招き入れる。

「お邪魔しまーす…。」

玄関は狭いが整理整頓が行き届いていた。行く手の先にある左右の扉が恐らくバスルームやトイレだろう。そしてその先のワンルームは、少なく見積もって十畳はありそうだった。広い、というのが最初の印象だ。空間に無駄がないのだ。壁際にベッドと勉強机、その反対側には大きな本棚。中央には炬燵机、クッションと座椅子がある。奥の扉はウォークインクローゼットだろうか。他には取り立てて目立ったものがない。物が少なく、あちこち整頓されている。綺麗な部屋だった。

「散らかってないじゃん。すごく綺麗…てか、ダイニングキッチンだよね?」

そう、居間のすぐ脇にキッチンが併設されており、キッチンから居間が一望できる造りになっていた。ワンルームにしては珍しい造りだ。

「そう、そこが気に入ってこの部屋にしたんだ。何となくおしゃれでしょ。」

「うん、いいなぁ。キッチン広いし。」

キッチンもまた整理整頓が行き届いていて、様々な用具がある。狭くて雑然としている野瀬の部屋のキッチンとは大違いだった。普段料理をよくする人間のキッチンだ。

「野瀬、てきとうに座っててよ。飯作っちゃうから。パスタでいい?」

「あ、うん、ありがとう。何でもいいよ。俺好き嫌いないから。」

野瀬は言われた通り、クッションを借りてカーペットの上に座る。そして改めて部屋を見渡した。寒色でまとまっているが冷徹な印象はなく、むしろしみ込むような落ち着きが占めており、いつまでも居たくなる。本棚には文庫本や参考書、野瀬が知っている漫画本も何冊かあった。知っているものがあると、中川を身近に感じさせてくれる。

「あんまりじろじろ見ないでよ。」

キッチンから中川の声が飛んできた。そう言われてもつい見てしまうので、それを避けるために野瀬は立ちあがってキッチンの方へ行った。

「手伝うこと、ある?」

「いいよ、ゆっくりしてて。」

中川は野菜やキノコを手早く切っている最中だった。コンロには大きな鍋、中ではパスタが茹でられている。万事手回しが良く手慣れていて、確かに手伝うことは無さそうだった。

ふと見ると、中川はいつの間にかエプロンをしていて、野瀬の目にはその姿がとても新鮮に映る。正面を向いてほしかったが、料理の邪魔をするのは悪いので、少し後ろでエプロン姿を堪能してから居間へ戻った。


暫くすると、キッチンの方からいい香りが漂ってくる。チーズとクリームが合わさった濃厚な香りだ。

「できたよ。運ぶのだけ手伝ってくれる?」

キッチンから顔を出した中川に呼ばれ、野瀬は飛ぶようにそちらへ向かう。出来ていたのはキノコとアスパラのクリームパスタ、アボカドとエビのサラダ。どちらも洒落た食器に盛り付けまで綺麗にされていて、まるでカフェのご飯のようだ。野瀬は思わず声を上げた。

「すげえ!美味しそう!」

「ふふ、野瀬の口に合うといいんだけど。」

二人でできた食事を今の炬燵机に運ぶ。炬燵机はシンプルなものだったけれど、凝った料理が並ぶと途端に華やかに彩られた。手を合わせ、早速いただくことにする。

 野瀬はその味の良さに驚き、何度も「美味い」と口にした。パスタはクリームとチーズのコクが素晴らしく、サラダにかかっている手作りだと言うドレッシングは酸味がちょうどよく調整されていて実に美味しい。

「驚いた、中川は料理上手なんだね。」

野瀬はますます中川のことを好きになる。その内心を察したように、中川は、

「惚れ直した?」

そんなことを、からかうような口調で言う。野瀬は頬をにわかに染めつつ頷いた。

 食後は、中川がコーヒーを淹れると言うので、その様子を野瀬は見学していた。電動のコーヒーミルで豆を挽き、ゆっくりとドリップしていく。途端に、パスタとはまた違った香ばしい良い香りが漂う。

「これはマンデリンっていう名前の豆でね、酸味が少なくて飲みやすいんだ。ブラジルとかも飲みやすいんだけど、俺はマンデリンが一番好き。」

淹れながら中川がコーヒーについて解説してくれる。豆の種類などてんで知らない野瀬だが、中川が淹れてくれるなら自分もマンデリンが好きになるだろう、と思った。

 その予感は的中した。いざ淹れられたコーヒーを飲んでみると、そのふくよかな甘みと深みのある苦みを野瀬は気に入った。中川の言った通り、酸味が少なくて非常に飲みやすい。それに、自販機などで買う缶コーヒーとは大違いだった。コーヒー初心者の野瀬でも、挽きたての豆がどれだけ美味しいか、よく分かった。

「美味いよ、すごく美味い。俺もコーヒー好きになりそうだ。」

野瀬は興奮してそう言う。中川は嬉しそうにその言葉を聞いていた。

「…いや、違うな。中川が淹れるコーヒーだから好きなんだ。」

野瀬が付け足すようにそう言うと、中川は「照れるだろ、やめて」と言いながらも満更でもなさそうな表情をした。


 しばらく二人は食後のコーヒーを堪能する。静かな空間にコーヒーの香りが漂い、其処はとても居心地が良かった。しかしあまりに静かすぎると思ったのか、

「音楽でもかけようか。」

中川はそう言って、勉強机の上にあるノートパソコンを起動し、何やら弄り始めた。そこに音楽のデータを入れてあるのだろう。

「中川、音楽聴くの?」

「うん、まあそこそこ。メジャーどころだと―――」

と、中川が挙げたのは野瀬も好きなバンド名だった。

「俺もそれ好き!アルバム全部聴いたよ。」

「本当?俺も好きなんだ。じゃあ、ベスト流そうか。」

静かだった室内に、控えめな音量ではあるが音楽が流される。野瀬は、自分が好きなものを中川も好きだと思ってくれていることが嬉しかった。加えて、中川が好きなコーヒーを自分も好きになれたことで心が弾んだ。こうして「好き」を共有できることが尊く感じる。ますます中川を好きになる。

 ふと、野瀬は中川が告白の返事をしてくれた時のことを思い出した。その時中川は、これから野瀬のことを好きになっていきたい、といった趣旨のことを言ったのを覚えている。それはまだ好きではないということに相違ない。あの時から時間が経った今、中川は自分のことをどう思っているのだろう。もしかしたら付き合い始めて気持ちが変わったかもしれない。野瀬はある種の不安を抱えていた。斜向かいに座って美味そうにコーヒーを飲んでいる中川に、野瀬は思い切って尋ねることにした。

「あのさ、中川……」

「ん?」

澄んだ瞳が野瀬を真っ直ぐにとらえる。清澄たる視線は決して突き刺さることはない、柔らかに野瀬の表面を撫ぜている。

「俺のこと、 好きになってくれてる?」

野瀬の静かな声の問いかけに、中川は一度瞬きをして、それからゆったりと微笑んで、

「好きだよ。」

照れることなく真っ直ぐにそう伝えた。それは本心からくる誠の言葉だった。

「最初はさ、同性同士ってどうなのかなって思ってた。でもそういうの関係ないんだね。俺、恋なんてしたことなかったけど、野瀬のことは好きだって今ならはっきり言える。」

そう語る中川は流石に少し照れたか、マグカップに顔半分をうずめる様にしながらコーヒーを飲んだ。中川の語りは、野瀬にとってこれ以上ない喜びだった。好きな人に好きと言ってもらえることが、こんなに幸せだとは。これが恋。愛する人を知る歓び。野瀬は思わず身を乗り出していた。

「俺、中川のこともっと知りたい。俺のことも知ってほしい。好きなものとか、嫌いなものも…全部。」

中川が野瀬を見る。バッチリと視線がかち合った。さっきまでより近い距離。顔と顔が少しずつ、近づいてゆく。


「ま、……待って」

中川が慌てた様子で制した。一旦離れ、眼鏡を外す。そして気恥ずかしそうにしながら、上目で野瀬を再び見た。そっと目が細められる。

「中川、眼鏡ない顔…何か新鮮。」

「そうだよね、普段外さないから。……はは、野瀬が全然見えない。」

距離が開いたため、視力の弱い中川の視界にいる野瀬はぼやけている。野瀬は斜向かいに座る中川にすり寄った。すぐ隣、肩と肩が触れ合う距離まで。そしてもう一度、顔を近づけた。呼吸と呼吸が触れ合う距離だ。

「こうすれば見える?」

囁く野瀬の声に、中川はくすぐったそうに頷く。額が触れ合い、中川の黒く艶のある髪が野瀬の顔に射した。淡いシャンプーの香りがする。野瀬の手は自然と中川の肩に回されていた。そっと引き寄せ、そのまま、どちらともなく瞳を閉じる。

 二人の唇が触れ合った。一瞬の出来事だったのに、しっとりとした感触が確かに残る。一度目を開け、視線が触れ合った刻、またキスをする。今度は少しだけ長く。より深い感覚が二人の間で共有される。心臓の音が、互いに聞こえてきそうだった。

 ふ、と先に笑ったのは中川だった。肩を竦め、おかしそうに笑う。

「何笑ってるの。」

「ん?嬉しくて、つい。……好きだよ、景太。」

唇の上で踊るその不意打ちに、野瀬は目を丸くする。しかしすぐにへにゃりと破顔し、

「俺も、好き。葉澄が好きだ。」

何よりも愛しい恋人の名を、初めて呼んだ。思えば初めて好きになったのはその名前の響きなのかもしれない。はずみ、ともう一度口にし、笑う。

 今日、初めてキスをした二人は、しばらく互いの名前を口にしては笑いあった。時折遊ぶように口づけを交わした。日が暮れるまで、緩やかに流れる音楽と、漂うコーヒーの香りの中で過ごす。その時間の共有は二人に大きな幸福を齎した。


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まだ青く、光る恋 吉野さくら @nametorakame

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