第5話 返答

 中川に告白した後の数日、野瀬は落ち着かない日々を過ごした。返事は必ずする、少し時間をくれと申し出た中川は、今も自分への返事を考えているのだろうか。その思考の中には少しでも野瀬にとって良い意味の思考が含まれているのだろうか。そう考えると体も心も落ち着かなくて、走ることに逃げた。もし中川がいたらと思うと居た堪れなく、わざといつものコースは避けて走った。走っている時だけはモヤモヤを忘れることができた。風と一体になることで、全ての悪い考えを押し流せる気がした。悪い考えとは無論、中川に否定的な意味の言葉を与えられ、それだけではなく、今までの友人関係をも危うくすることを指した。野瀬が一番恐れているのは、中川との距離が開くことだった。友人関係が解消されてしまったら、野瀬はしばらく立ち直れないだろうと思った。もっとも、中川は思慮深い人間だ。そんなことをするようには思えないのだが、どうだろうか。結局野瀬は5日経った今日も、中川のことばかり考えていた。

「ダメだ、走ろう。」

全ての講義を終え帰路についている途中、野瀬はそんな独り言を漏らす。家に着いたらすぐに着替えてランニングに出よう、そう考えていた時。ポケットの中の端末が震えた。思わずぎょっと肩を竦める。まさかという予感は、当たった。中川からのメッセージだった。

『この間の返事がしたい。18時ごろ、いつもの場所に来られる?』

野瀬の心臓が一瞬高く鳴った。幸い、今日はアルバイトのない日。今は16時、きっかり2時間後の呼び出しだ。いつもの場所と言えばもちろん、あの川辺のベンチだろう。

『了解。行けるよ。』

簡素な返事をして端末をポケットにしまう。とうとう来るべき時が来た。野瀬はやはり帰ったらすぐランニングに出ようと思った。


 野瀬は帰宅後、いつもよりだいぶ長いランニングを終え再び家に戻り、普段着に着替えた。乱れた髪もセットしなおし、鏡の前で自分の顔をまじまじと見る。緊張しているのか表情が固い。頬を何度か叩き、気合を入れなおした。大丈夫、心は落ち着いている。何と言われようと平気だ。

 野瀬はふと、自分は同性愛者なのだろうかと考えた。今まで男性をそんな目で見たことはない。かといって女性に対しても恋心を抱いたことはない。野瀬は恋自体に触れたことがなかったのだ。だから今回初めて人を好きになったのが、たまたま男性だったというだけで、中川が女性であっても好きになっていただろう。つまるところ性別など無問題なのだった。ただ、中川のことを好きで、それを伝えた。その事実だけは確かだ。

 中川はどうなのだろう。異性愛者と考えるのが普通だ。野瀬のような異端でなければ、人並みに恋をしたことがあるはずだ。そんな人間に対し同性の野瀬が告白した。それが何を指すのか。

(振られても、かまわない。むしろ―――)

振られる可能性の方が高い。それを覚悟して、野瀬は待ち合わせ場所に向かうべく家を出た。


 目的の場所には歩いて行ってもすぐに着く。野瀬は非常に緊張していた。反面、心は落ち着いているという不可思議な精神状態だ。告白する前こそこのような心地になりそうなものだが、あの時は自分の気持ちを言葉にするので精いっぱいで、緊張などしている暇もなかった。そんなことを思い出しながら河川敷に着くと、既に中川はそこにいた。野瀬の心臓がどくんと鳴る。あの日ぶりに見た中川はいつもと何ら違わないはずなのに、違って見えた。それは野瀬が中川を好きな人だと認識したからだろう。そうだ、あそこに座っているのは俺の好きな人なんだ、そう思うと隣に座ることひとつとっても特別な行為に思えた。歩いていくと、中川は野瀬に気づいて手を軽く振る。

「わざわざ呼び出して悪いね。」

「いや、いいよ。」

挨拶もそこそこに、二人は並んで座る。目の前の川は今日も穏やかに流れている。二人の不安定な関係などまるで無視し、マイペースにせせらぎを醸すその川は、風流だった。

「―――あのさ」

中川がふと口を開く。

「今から言うことは、野瀬が欲しい答えとは違うかもしれない。でも聞いてほしい。俺の本当の気持ちだから。」

その時点で野瀬は振られることを覚悟した。ほしい答えとは違うとは、そういうことだろう。野瀬は心して頷く。中川は遠くの方を見ながら、ひとつ息をついて話し始めた。

「野瀬の気持ちを聞いたとき、いやじゃなかった。好いてもらえるのは嬉しい。俺の歌をほめてくれたのも本当に、嬉しかった。でも、野瀬と同じ気持ちを俺が持ってるかっていうと、正直、違うと思うんだ。」

野瀬は黙って聞いていた。静かな声は歌声のように流れて、野瀬の耳にしっかりと届いている。

「俺自身、ひとに好きだと言われたことがなかったから、よく分かってないところもある。好きって気持ちが何なのか、というか、愛って何なのかとか……ごめん、うまくまとまらないや。」

苦笑しつつ言う中川だが、野瀬には十分衝撃だった。中川もまた恋や愛についてうまく理解できていなかったのだという。それに、今まで人から好意を伝えられたこともない、と。似ていると思った。それを喜んでしまう野瀬自身がいた。

「だからさ、えーと……」

中川は川から目線を野瀬に移す。真摯な目だった。それでいて、揺れていた。

「いろいろ、食い違うことはあると思う。男同士だし…うまくいかないことも多いはずだけど、俺、これから野瀬のこと、好きになっていってもいいかな。」

―――え、と野瀬は思わず零していた。改めて中川の顔を見ると、心なしか頬が紅潮し、ふいと目線を横に反らしている。

「………え、えーと。…え?」

「だから!お、俺たち……付き合わない?っていうか……あ、なんか、俺も告白してるみたいになってるな…うん、でも……」

中川は混乱している野瀬に向かって姿勢を正し、ぺこりと頭を下げる。

「…これからよろしくお願いします。」

「それって、…OKってこと、だよな?」

信じられない事態に、野瀬は思わず尋ねてしまう。中川は小さく頷いて頭を上げた。その頬は確実に赤くなっていた。途端に野瀬の顔も赤く染まっていく。

「うわ、マジか。……えー、マジか!」

「マジだよ。本当の気持ちだって言ったじゃん。」

「うわ…俺、絶対振られると思ってて………どうしよ、超嬉しい。」

野瀬は心の内にあった不安を述懐しつつ、赤い頬を擦る。擦るだけでなく抓ってみた。ちゃんと痛い。まるで夢みたいだが本当のことなのだ。そんな野瀬の様子を見て、中川は笑った。その笑顔もいつもより良いものに見えて、野瀬は嬉しい。

「はは、夢じゃなくてよかったね。野瀬が喜んでて俺も嬉しいよ。」

「喜ぶに決まってるだろ。だって……」

好きな人だから。その言葉はあまりにも恥ずかしく、口には出せなかったが、中川には伝わったようだった。野瀬に柔和な微笑みを返してくれる。

「…そうだ、この間のお礼、まだしてなかったよね。今から飯でも食べに行かない?」

中川はそう言うと返事も待たずに立ち上がる。もう応えが分かっているかのような行動だ。野瀬に断る理由はなく、二つ返事で了承すると、中川に続いて立ち上がる。二人の背は同じなので、立ち上がって正面を見ると顔が真っすぐ目に入る。中川の、すっと整った面立ちを見ていると、野瀬は何だか面映ゆい気持ちになった。思わず目を逸らしてしまう。

「なに、どうしたの?」

おかしそうに尋ねる中川を正面から見られない。喜びと羞恥心がない交ぜになった不思議な気分だからだ。

「何でもない。行くなら早く行こう。」

そう言って野瀬は駅の方角に歩き出したが、

「待って、野瀬。店、分かるの?」

中川のそんな問いかけに足を止める。確かに、飯を食べに行くとは聞いたがどこに行くかは聞いていない。後ろの中川を振り返ると、さもおかしそうに肩を震わせて笑っていて、野瀬はその肩を軽く小突いた。

「ふふ、ごめん。俺、良さそうな店調べておいたから、そこに行こう。」

「先に言えよ、先に。」

こうした軽口を叩き合えるようになるほど距離が近づいていることは、両者にとって喜ばしいことだった。

「エスコートさせてね。」

中川は冗談めかした口調でそう言い、野瀬の顔を覗き込む。野瀬はその小悪魔めいた仕草に面食らいつつ、平静を装って中川の横に並び、ふたりは駅方向へと歩きだした。


 果たして、中川が調べたと言い案内してくれた店は、駅から少し離れた小道にある小洒落たカフェダイニングだった。白い外壁の佇まいは落ち着いていて居心地が良さそうだ。

「下見もしたんだよ。コーヒーが美味しいんだ。野瀬はコーヒー好き?」

「あんまり飲まないけど…中川は結構飲むの?」

「うん、飲む。好きなんだ。」

中川はそう言って笑う。野瀬は、二人で食事をするために中川が下見までしてくれたことが嬉しかった。それに加えて以前より会話が弾んでいる気がする。告白と返事という一種のイベントを乗り越えて、打ち解けたのかもしれなかった。

 席に案内されるとメニューを開き、野瀬はトマトソースのオムライス、中川はシーフードパスタを注文した。それから食後にコーヒー。

「ここ、内装もお洒落だね。」

野瀬は普段、簡単な自炊はするが、他は専ら学食とスーパーの弁当なので、こういったお洒落な店には来ない。一人だと入りづらいし、伴うような友人もいない。少し落ち着かない気分でもあったが、向かい側に座る中川が平素通りゆったりしているので、その点は安心できた。

「中川、よくこういう店来るの?」

「全然。だって一人だと入りづらいじゃん。」

中川はさらっと自身が単独行動をとっていることを口にする。中川もまた、野瀬と同じような境遇らしかった。似た者同士。共通点を見つけ、野瀬はまた嬉しくなる。それから二人はしばらく、互いのことを話し合った。

「俺、食事はいつも学食か弁当だよ。たまに料理もするけど…」

「そうなんだ。俺は結構自炊する。コーヒーもうちで淹れるし。」

「本当?すごいな。豆挽いたりするの?」

「挽いてもらうのは店で。うちではドリップで淹れるだけだから、簡単だよ。」

似た点だけではなく似ていない点も、新鮮な気持ちで受け入れることができる。野瀬は自分でコーヒーを淹れたことなど経験がないが、中川は頻繁に飲んでいるらしい。

「今度うちにコーヒー飲みにおいでよ。」

「本当?いいの?」

中川の言葉に野瀬は驚いて目を丸くする。

「もちろんいいよ。だって俺たち付き合ってるんだろ?」

自然と言ってのけられたその言葉にさらに面食らった、というか柄にもなく胸がときめいた。そうか、もう俺たちは恋人同士なんだ。中川はまだ自分を好きになる途中だけれど、これからいろんな点で好いてもらいたいと野瀬は思った。何せ野瀬は既に、中川に十分惹かれている。

 いろんな話をしていると料理がすぐに運ばれてきた。料理は盛り付けも味も良い。小ぢんまりした店にしては内装から料理まで凝っていて、野瀬はこの店を気に入った。

「ここ、いいね。また来たい。」

野瀬がそう言うと、中川は安堵したように微笑む。

「気に入ってもらえてよかった。また来よう。行きつけにしよう。」

二人は笑いあう。こんな風に、誰かと食事を共にして笑いあうことなんて、野瀬はないものだとばかり思っていた。他でもない好きな人と食事を共にできることがこんなに幸せだなんて。野瀬は暖かい気持ちを存分に味わった。

 食後のコーヒーは、中川が言う通り絶品だった。野瀬はコーヒーを普段飲まないが、コクと苦みの程よいブレンド、後味にほのかにフルーティな香りが漂うところも気に入った。

「コーヒー美味しいって思ったの、初めてだ。」

野瀬が感動して興奮気味に言うと、中川は嬉しそうに笑う。思えば中川はよく笑うようになった。野瀬は最初、中川があまり愛想のない人間なのだと思っていたが、そんなことはない。むしろこうして笑顔を浮かべることが多いのだ。親しくなって初めて知ったこと。恐らく野瀬しか知らない一面。これからもっとそう言う一面を見つけていきたいと、コーヒーを美味しそうに味わう中川を見ながら野瀬は思った。

 ふと、目が合う。野瀬は慌てて目を逸らす。中川が意味深に笑む気配がした。

「野瀬、さっきから俺のこと、すごく見てるね。」

図星であり、野瀬はドキッとした。

「ん?気のせいだろ。」

そう言ってごまかすけれど、たぶん深層を見透かされている。だって本当に見ているから。髪も、目も、鼻も、口も。中川は全てが整っていてきれいなのだと野瀬は思う。

「気づいてる?俺も野瀬のこと、見てるんだよ。よく知りたいから。」

コーヒーの湯気越しに見る中川の薄い唇が、緩やかに弧を描く。野瀬は頬が熱くなるのを感じた。どうしてそんなことを言うのだろう。恥ずかしくなってしまうではないか。自分が存外照れ屋であることを初めて知りながら、野瀬はひたすらコーヒーを飲んでいた。


 珈琲を飲み終わると割り勘で会計を済ませ、二人は外に出た。駅前から音楽が流れてくる。今日も誰かが演奏をしているようだ。中川がちょっと寄ってみたいと言うので、ふたりは駅前の広場に足を向けた。二人組の男性がギターを演奏しながら歌っている。周りの人だかりの中には一緒に歌を口ずさんでいる人もいた。

「中川、プロになる気はないの」

野瀬がそんなことを尋ねると、中川は大げさに頭を横に振った。

「ない、ない。野瀬だって、プロのランナーになるつもりで走ってるんじゃないだろ。それと同じだよ。」

成程、と野瀬は納得する。確かに、野瀬はマラソン選手になりたいわけではない。ただ好きで走っているだけだ。

「野瀬もさ、せっかくあれだけ走れるんだから、マラソン大会にでも出てみれば?いい記録残せると思うよ。」

「マラソン大会って、フルマラソンだろ?…完走できるかなぁ。」

「できるよ。俺、応援に行く。」

そんな会話をしながら、二人組の演奏を聞き、また歩き出す。駅前は今日も賑やかだ。


 気づけば秋も終盤で、遠くから冬の足音が聞こえ始めている。夜になると空気が一段と冷え、コートがないと肌寒いくらいだ。二人は背を丸めて歩いた。しばらく沈黙が続く。沈黙もまた、二人には必要なものだった。不思議と居心地がいいのだ。

 二人の脚はやはりあの河川敷に向かう。そのルートがもはやお決まりになっていた。誰もいない河川敷には川のせせらぎが響き、月は綺麗に道を照らす。街灯などなくても明るいその道が、野瀬も中川も好きだった。

 ふと、野瀬は中川の横顔を見つめた。月を見上げて歩いている中川の顔を見ていると、自分はやはりこの男が好きなのだとはっきり自覚する。二人の未来には、同性同士だからこそぶつかる壁がいくつもあるはずだ。それでもぶつかるたびに二人で乗り越えていきたいと、野瀬はしみじみ思う。

「……中川。」

「ん、なに?」

「手、繋いでもいいかな。」

中川は驚いた様子で野瀬を見た。しかしすぐ笑顔になり、

「いいよ。はい。」

と手を出してくる。野瀬はその手をしっかりと握った。あたたかく、骨ばった手。

「恥ずかしいね。」

中川は照れているのか、すぐ目を逸らした。

「でも、あったかい。」

呟くようなその言葉は、実に幸せそうに響く。野瀬もまた幸せを感じる。とてもあたたかい気持ちだ。そんな気持ちになったことなど、今までの人生でない。そうか、これが恋か。これが恋だと、初めて知った。

分かれ道までの間、二人はいつもよりゆっくりと歩いていた。

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