第3話 真実
その日の講義が終わると、中川は、
「先に行く。」
そう言い残して早々と教室から出ていった。残された野瀬はその後ろ姿を、何か不思議な期待を感じながら見送った。何故中川は嘘をついたのか。あの川べりでいつも何を考えていたのか、何をしていたのか、今日明らかになる。ずっと不思議に思っていたことだった。それが明らかになるとなれば、期待するのも頷けるだろう。野瀬は中川を追うようにして教室を出たが、中川の姿はもう講義棟にはなかった。
帰路につき、家でいつものジャージに着替える。その間も野瀬は期待していた。胸の高鳴りさえ覚えている。そんな自分を妙に思いつつも、いつもより少し早い時間だがランニングに出た。中川はもう川辺に来ているだろうという確信があった。
その確信通り、川辺のベンチに差し掛かると既にそこに座っている中川の姿が見えた。しかしいつもと違う箇所がある。それは傍らに何か別の影があることだった。何だろうか。その大きさからして、もう一人の人間かと思ったが、近づいてみると違うことが分かった。それは革製の立派なギターケースだった。
「どうも。」
野瀬が近づいていくと、珍しく中川の方から声をかけてきた。どこか他人行儀なその挨拶に違和感を覚えつつも、野瀬は中川の隣に腰を下ろす。
「なに?それ。ギター?」
疑問に思ったことをすぐに口にする。中川は軽く頷き、ギターケースの表面を撫ぜた。
「弾くんだ。趣味。歌も少し…。」
野瀬にとっては正直言って意外だった。ギターを片手に歌うと言えば、野瀬のイメージはバンドマンだ。中川の印象はとてもバンドマンには似合わない。だから素直に驚いて、「へぇ」と意外そうな声を出してしまう。中川は、ふと笑った。
「意外だ、って思ったろ。」
心象を言い当てられ、野瀬は正直に頷く。その様子を横目で見、中川は何か戸惑うように手を組んだり、開いたりしながら考えていたが、やがてギターケースのファスナーを勢いよく開けた。
「俺、ここで歌を作ってたんだ。ここ、静かで居心地よくて、いいフレーズが浮かぶんだよ。」
取り出されたギターはいわゆるアコースティックギターで、野瀬のような素人目から見ても綺麗に手入れされていることがよく分かる。丁寧に磨かれたボディと細やかに張られた弦が美しい。ギターを間近で見たことがない野瀬でも、綺麗だと見惚れるくらいの代物だった。
「歌…作るの?自分で?」
「そうだよ。」
「すごいな。……へぇ、そりゃすごい。」
これまた意外な中川の趣味に、野瀬は感嘆の声を上げる。歌を作るのがどれほどに大変な作業か、理解には遠く及ばないが、毎日のように集中して時間を作らなければできない偉業だということくらいは野瀬にもわかる。事実、中川はこの川辺に頻繁に訪れていた。それは歌を作るためだったのだ。
それならば正直に歌を作っていると打ち明けてくれればいいのに。野瀬は思い切って尋ねる。
「何で、何もしてないなんて嘘ついたの?普通に歌作ってるって言ってくれればよかったじゃん。」
中川はギターを大事そうに抱え、ポケットからピックを取り出す。そして照れくさそうに、ピックで頬を掻いた。
「何か恥ずかしかったんだよ。なんとなく」
立派な趣味なのに羞恥心を抱く理由が野瀬には分からない。しかし中川にとって、歌を作っていると打ち明けることは嘘を吐くよりも難しいことなのだった。それには特別な理由があった。中川は野瀬を、まっすぐに見据える。眼鏡の奥の瞳を少しだけ細め、それは慈しむような、あるいは羨むような視線で。
「野瀬のことを見てたら、浮かんだ歌だから。」
野瀬は驚きのあまりリアクションを取れなかった。
「毎日、走ってただろ。気持ちよさそうだった。それ見てたら自然とフレーズが浮かんで。…この間、やっと歌ができた。」
涼し気に続けられる言葉に相槌を打つことさえできず、野瀬は頭の中で中川の言葉を反芻していた。俺のことを見ながら歌を作っていたということ?そう確信すると急に気恥ずかしくなる。
「えっと……マジで…見てたの、俺のこと」
「見てた。走ってるところ、見るためにここに居た。」
中川は頷く。そうなんだ、と漸く相槌を打った野瀬は口元を手で覆った。見られていた、という事実は思いのほか恥ずかしい。しかし中川はその事実を当たり前のように明かして、清々としている。最初は事実が知りたくて期待していたのに、今や本当のところを知って動揺している。そんな自分の心の明らかな揺れ動き方に、野瀬は翻弄されていた。それでも中川は一言、
「ああ、言ったらすっきりした。」
そう言って微笑んでいる。そしてギターを抱え直し、ひとつ咳払いをした。未だ頭の整理をつけていない野瀬の方を見、首を傾げる。
「聞いてくれる?」
しかし優しげなその声は、混乱している野瀬を一つの場所にすとんと落とした。それは安心に似た感覚だった。野瀬は、中川と話していて感じていた心地よさが安堵なのだとこの時初めて知った。錯乱していた心も少しずつ落ち着いてきて、中川が自分を題材に歌を作っていたという事実もようやく飲み込めるようになる。そして、野瀬は頷いた。中川はもうひとつ咳払いをし、遠くを見る。
「じゃ、歌うね――――」
ギターが鳴る。
吹く風は穏やかに笑う さらさと流れるせせらぎを
耳心地よく聞きながら 僕はこの道を行く
走り出せばあっという間に 去ってゆく景色だけど
胸に抱いてしまいたいほど 愛しい景色だ
どこか遠くへ行きたい気持ちを 押し込めて 僕は生きている
どうかこの思いを 猛る心地を
言葉にできたなら どんなにいいかなあ
代わりに歌をうたう 響かせる、この声を
たおやかな風に乗せて 今、届けたい
「…………終わり、です。」
中川のその言葉を聞いたとき、野瀬は思わず拍手をしていた。ただひたすらに感嘆したのだ。なだらかなメロディに少し掠れた歌声が限りなくマッチしていて、とても心地よい旋律を奏でていた。歌自体が素晴らしかったのもあるが、それよりも野瀬が感動したのは、歌詞の内容だった。まるで走っている時の自分の心地を表しているような詩だった。全身で風を感じるあの心地よさ、そのままどこかへ走り去ってしまいたい自由への憧れ。それらを巧みに表現した歌は、心の中を覗かれたのではないかと思うほどによくできていた。それほどまでに中川は、野瀬の感性を感じ取っていた。ただ走っている姿を見ていただけなのに。野瀬はしばらく拍手をし、それからようやく、
「……すっごいな。すごく、いい歌だった。」
そんな感想を漏らした。月並みすぎる感想だが、他に言葉が思いつかない。まるで心を穿つようなその歌は、野瀬を大きく揺さぶった。
「ありがとう。…なんか恥ずかしいな、やっぱり。」
中川は礼を言いつつも照れくさそうに下を向いている。その顔は少し赤く、面映ゆそうな笑みは歪んでなどいない、自然なものだった。野瀬はその表情を見られたことも嬉しく思う。先程感じていた、自分を題材にされたことによる恥ずかしさなど忘れ、野瀬は軽々しく中川の背を叩く。
「恥ずかしがることないよ、すごいじゃん。誇れる趣味だよ。」
中川はますます下を向いて照れた。いそいそとギターをケースにしまい、そのまま黙っている。手放しで褒められ、何と反応していいか分からないのだろう。野瀬はその控えめな性格を勿体なく思った。こんなに優れた才能を持っているのだからもっと胸を張ればいいのに、独りで作詞作曲をし、こうして友人に披露するだけで満足している。…果たして本当にそうだろうか。これだけ良い歌を作っておきながら、どこにも発表しないでいるのだろうか。野瀬は疑問に思った。
「ねぇ、この曲、どこかで発表しないの?駅前で路上ライブとか…」
そう尋ねると、中川は激しくかぶりを振って否定した。
「無理無理、ライブなんて…やったことないし、ただの趣味だし」
薄ら笑ってそう言う。先程中川が演奏した歌は、ただの趣味で終わらせるにはあまりにもったいない良い出来だった。歌だって、声量はそれほどだったが、そこらの歌手と比べても遜色ないほどうまかった。野瀬は黙っていられずに、身を乗り出して説得する。
「何で?もったいないよ、本当にいい歌だったもん。他にもオリジナルの曲、作ってるんじゃないの?」
「いや、まあ、一応…。」
「じゃあやろうよ、路上ライブ。俺、もっと中川の歌聞きたいし、いろんな人に聞いてもらいたい。」
野瀬は自分でもどこからそんな情熱が沸いているのかわからないが、何としても中川を人前に立たせたかった。中川の才能をここだけの話にするのはあまりにも勿体ない、ただその一心で説得をした。最初は渋りに渋っていた中川だが、最終的には、
「………分かった。じゃあ1回だけ、やってみるよ。」
決心したのかそう頷いた。野瀬の表情は途端に明るくなり、よっしゃ!とガッツポーズまでした。
そうと決まると二人は具体的にいつ、どこでやるかを取り決めた。場所は大学から徒歩5分で行ける駅前の広場。路上ライブのメッカなのか、よく色んな人が歌を歌ったり楽器を弾いたりしているのを野瀬が覚えていたのだ。日時はちょうど一週間後の19時にした。善は急げだ、と野瀬がはやし立てたからだ。しかしあくまでも野瀬が無理やりやらせているわけではなく、やると決まったら中川も割とやる気で提案に乗った。
「人前で歌うのなんて、初めてだよ…うまくできるかな。」
中川はやると決めたはいいが不安そうだ。しかし野瀬はうまくいくと確信していた。たった一曲聞いただけでも、中川のまっすぐで純朴な性格が伝わってきて、その感覚はほかの誰にも受け入れられるはずであった。
「大丈夫だよ。緊張はするだろうけど、がんばって。俺も見てるからさ。」
「見られてると余計に緊張するよ…。」
どうやら中川は引っ込み思案な性格のようだ。そんな性格の中川が一念発起して路上ライブを行うのだから、絶対成功してほしい。野瀬は力になれることはあまりないが、客寄せくらいは頑張ろうと思った。
「じゃあ、来週の18時半、ここで待ち合わせでいい?」
「うん、わかった。」
ふたりは約束を取り付ける。ふとそこで目が合った。中川の目はいつも澄んでいる。眼鏡越しにもわかるその純粋な瞳は、曇りがない。そんな目で世の中を、そして野瀬を見ていた。そして、あの曲を作ったのだ。野瀬は改めて、面映ゆくも嬉しく思った。
「じゃあ、また。」
「うん。……あのさ、中川」
「ん?」
別れ際、野瀬は中川に声をかける。真っすぐにその澄んだ瞳を見つめ、
「さっきの曲、曲名は?」
気になっていたことを尋ねた。中川は少し考え、くすりと笑いながら言う。
「ケイ。景色の景と書いて、景、かな。今考えたんだけど」
野瀬はどきっとした。それって、まさか―――
「野瀬の名前だろ、景太。………じゃあね、」
中川はそれだけ言ってギターを担ぎなおし、去っていった。野瀬は自分の名前が曲名に充てられたことに対しどう感じていいのかわからず、その場に立ち尽くす。しかし数秒後に、気恥ずかしさと、やはりうれしさが沸いてきた。そうか、俺の名前か―――野瀬はさっきの歌をもっと聞きたいと思った。路上ライブの日が待ち遠しい。
そして一週間はあっという間に過ぎた。その間、中川は河川敷のベンチには現れなかった。家か別の場所で練習をしているのだろうと野瀬は推測した。演奏するのはオリジナルの曲だけだろうか、それともほかの歌手のカバー曲なども歌うのだろうか、そう考えながら走るのはいい心地だった。野瀬の楽しみは日に日に増し、とうとうその日がやってきた朝はいつもより早起きをした。約束の時間は夜だというのに、朝から何故か野瀬が緊張している。ならば中川の緊張はさらに大きいものだろう。とりあえず、野瀬は一限目の講義に出かけた。中川と一緒になる講義だ。
教室に入ると、既に中川はいつもの席に座っていた。その背は少し丸まっており、平素通りの様子で野瀬を安心させた。
「おはよう。どう、調子は。」
野瀬は中川に声をかけながら隣に座る。顔を見ると、驚いた。中川の目の下にはクマが浮かんでおり、表情にも覇気がなかった。
「どうした、大丈夫?」
「ん…昨日、眠れなくて。大丈夫、少し…いや、だいぶ緊張してるだけ。」
中川は力なく笑った。精神的に疲弊していても講義には出てくるのだから中川は真面目だ。しかし野瀬は心配した。そんな様子で今夜のライブは大丈夫だろうか。やるなら万全の態勢で挑んでもらいたい。
「中川、帰ったら時間までは寝なよ。顔、ヤバいよ。」
中川は素直に頷く。本当なら講義も休んで家で休養すべきだが、野瀬がそう言っても聞かなそうなのでやめておいた。
講義が終わると二人は並んで教室を出て、そのまま帰路についた。いつもの分かれ道で中川は、
「じゃあ、また夜に。」
それだけ言い残して去っていく。足取りは重そうだが覚束なくはないので、心配だが大丈夫だろうと野瀬は自分に言い聞かせ、同じく帰路につく。
帰ってから待ち合わせの時間までは家でゆっくり過ごそうと思っていたが、野瀬はどうしても落ち着かなかった。何故だかそわそわしてしまい、テレビを見ようにも本を読もうにも集中できない。こういう時は走るに限る。野瀬は素早く着替えて家を出、いつものランニングコースを走ることにした。
当然ながら川辺のベンチには中川の姿はない。そのことは野瀬にとっていつもの景色と違うという意味で違和感だったが、今日はいつもより軽やかに走ることができている。頭の中であの歌が流れているからだ。景、と名付けられたその歌を野瀬はたった一度しか聞いていないが、既に頭の中で流せるほどに身に沁みついていた。不思議だった。今まで歌を聞いてすぐに覚えられたことなど一度もないのに。野瀬は文字通り浮足立つような足取りでランニングを終え、家に戻った。
そして約束の時刻。野瀬はシャワーを浴びてランニングでかいた汗を流し、普段着に着替えてから河辺のベンチに向かった。辺りはもう暗く、街灯が仄明るく川辺を照らしている。そのぼんやりとした灯りの中に、既に中川はいた。ギターケースを傍らに、ベンチに座っている。
「中川!ごめん、遅れた」
野瀬は駆け寄ってそう詫びるも、
「いや、時間ぴったりだよ。」
腕時計を見ながら中川が言う。その声がいつも通りなので、野瀬は安堵した。震えていたとしたらそれは緊張や不安の表れだろうから。
「……いよいよだね。晴れ舞台だよ」
野瀬はあえてプレッシャーをかけるような物言いをした。意地悪ではなく、発破をかけるような意識だ。中川は怯えるでも委縮するでもなく、真っ直ぐに前を向いて頷く。
「うん。緊張…は、もうほぐれた。大丈夫。」
力強い言葉に、野瀬は頼もしいと感じた。
「じゃ……行こうか。」
ふたりはどちらともなく歩き出した。目指すは駅前。平日だが、きっと沢山の人でにぎわっているそこは、果たして中川の晴れ舞台となりうるのか―――ふたりの歩調はしっかりと、地面を捕らえていた。
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