第2話 疑問

次の日、野瀬は学習塾の事務のアルバイトに出かけた。春先に始めたそのアルバイトは、仕事量がさほど多くない割に時給が高く、週に二、三度しか顔を出さなくても十分生活費を稼ぐことができた。書類の整理整頓、簡単なデータ入力、時には自習をしに来ている中学生の相手をしていた。あまりコミュニケーションが得意ではない野瀬でもこなせる仕事である。午後5時から9時までの間、淡々と仕事をこなし、最後にタイムカードを押してその日の仕事は終了だ。肉体的にも精神的にも疲れない。それは同じくアルバイトに来ている大学生やフリーターの面々も同じらしく、控室では皆涼しい顔をしている。ところが今日は一人浮かない顔をしている女性がいた。確か、野瀬とは他大学の年上の女性だ。はあ、と深く溜息をつきながらスマートフォンの画面を眺めている。

「どうしたんですか、山本さん。溜息なんかついちゃって」

見かねたもう一人の女性―確か野瀬と同い年の大学生だ―が声をかけると、山本と呼ばれた女性は暗い顔を上げる。

「彼氏に既読無視されてるの、もう三日。ありえなくない?」

既読無視、とはメッセージアプリで送られてきたメッセージを読んでおいて返信しない行為のことだ。彼女は恋人にメッセージを送ったのに返事を貰っていないらしい。しかも三日間。憤慨するのも当然だろうと野瀬は思いつつ、帰り支度を進める。いつの間にか山本の周りには数人のアルバイトが集まり、スマートフォンの画面を覗き込んでは彼是と話し合い始めていた。

「彼氏さん、冷たいね。デートの誘いなのに、何も言ってくれないなんて」

「でしょ?なんか、疑っちゃうよね…浮気とか」

「マジで?三日間くらいなら俺、平気で空けちゃうけどなー」

「えっ彼女さんかわいそうー!やめた方がいいですよ、それ!」

野瀬はその会話に入れずにいた。恋愛関係の話は苦手だ。何故なら野瀬自身に恋愛経験がないからだ。中高一貫の男子校だったため…あるいは、野瀬の恋愛への興味が極端に薄いからか。野瀬は愛情とは何か、分かっていなかった。両親は野瀬が幼い頃からともに仕事に出ており、いつも忙しくしていて、野瀬に構う暇がなかった。故に愛情深く育てられたとは言い難く、それが野瀬の生き方に強く影響していることは明らかだった。野瀬は他人に情を感じたことがない。だから友人関係もうまく結べてこなかったのだろう。

 ふと、賑やかだった会話の輪が解かれ、中の一人が野瀬の方を向く。それは野瀬一人が会話に入っていないのを気遣っての行為に思えた。

「野瀬くんは彼女とかいないの?」

発されたその言葉から察するに、場に居る野瀬以外のアルバイトには皆恋人がいるのだろう。野瀬は急に居心地が悪くなった。会話に入れない状況より、恋愛関係の話を振られることの方が野瀬にとっては都合が悪い。場のノリをしらけさせてしまうに決まっているからだ。

「…いないよ」

簡素な受け答えで流そうとする。

「えーっ、意外-っ。モテそうなのに」

「うんうん、野瀬くんって、歳のわりに大人びてるもんねぇ」

女性二人が口々にそんなことを言う。お世辞か本音か分からない浮かれた口調だった。男子校の中でどうモテると言うのか。野瀬はひとり自虐的に薄笑いする。尤も、それは悲哀すら齎さない単純な「事実」なのだけれど。

結局その場は、再び山本の恋人の話へ戻った。追撃のメッセージを送るか否かで盛り上がっている。野瀬は静かにその場を後にし、帰路についた。


翌日。大学の講義をいくつか終えた野瀬は、トレーニングウェアに着替えていつものロードワークに出た。一昨日の雨が嘘のようにカラッとした秋晴れで、気温も程よく、ランニングには丁度良い気候だ。体内の細胞が喜んでいるのを感じる。普段は30分かそこらで切り上げているロードワークだが、今日はいつもより長めに走ってみようか、とさえ思う。

野瀬は足取り軽やかに道を行き、あの河原に差し掛かった。いつも中川がいる河原だ。今日も―――いた。川沿いのベンチにぽつんと座っている影はまさしく中川だった。野瀬は少しずつ走る速度を抑え、中川の傍らで立ち止まる。中川はその気配に気づいたのか、すぐ顔を上げた。

「よぅ」

野瀬が軽く手を挙げて声をかけると、中川は、

「この間はノートと傘、ありがとう。」

律儀にもう一度礼を言ってきた。

「いいよ、礼なんて。大したことじゃない」

野瀬はそう言いながら中川の隣に座った。目の前には運河が単調なせせらぎを奏でている。水面に昼の日差しが射しこみ、キラキラと光って見えるのが綺麗だ。野瀬は息を整えながらしばらくそれに見惚れた後、中川の方を向くと、胸に抱えていた疑問を口にした。

「いつも思ってたんだけどさ、中川はここで何してるの。」

それは野瀬でなくとも、この河原を行き来して中川を目にする者なら誰もがもつ疑問のはずだ。何かしら活動したり身体を動かしたりするのが好きな野瀬から見れば、何もせず座っているだけの中川は珍妙だった。何を考えているのか、一体何のつもりでここに居るのか知りたかった。中川はすぐには応答しない。しばらくまんじりと川を眺めて、漸く、

「別に、何も。」

そんな風に答えた。

「何も?ただここにいるだけ?」

「うん。」

野瀬は到底納得がいかなかった。中川はこちらを見ないし、答え方も曖昧で掴みどころがない。嘘だと思った。何か本音を隠している、野瀬の直感がそう告げていた。答えてくれないなら当ててみればどうだろう。野瀬は少し考える。

「ひょっとして、誰か待ってるとか?」

思いついた言葉をそのまま口にしてみた。中川は、ふふ、と口角で笑う。それはただの息遣いにも見える笑い方で、まるで野瀬をあしらうような風格だった。眼鏡の奥の視線が野瀬をとらえる。目の前の川のように和いでいる瞳だった。

「何もしてないんだってば。」

そして静かに、ぽつんと置くようにそう言われると、野瀬は興が削がれてしまった。ふうん、と相槌を打つと、立ち上がり、

「俺、行くわ。またな」

そう言い置いて駆けだした。背後の中川の気配が少しずつ遠くなっていくのを感じながら、いつしかまた、風を切ることに夢中になった。


 野瀬と中川は毎週月曜日の朝、講義で一緒になる。その時はどちらともなく並んで座り講義を受けた。終了後はどちらかに用事がなければ分かれ道まで帰路を共にした。別の日、野瀬はランニングの途中で川沿いのベンチに座っている中川に会う。何となく立ち止まり、横に座って暫しの間会話をする。そんなつかず離れずの関係を続けているうちに、二人の間には妙な隔たりはなくなった。確実に友人としての生暖かい空気が育まれ、双方居心地が良いと思うようになっていた。二人とも周囲から孤立しており、特に親しい間柄の人物がいなかったから、大学に入り初めてできた友人に心地よいものを感じるのは普遍的なことだと言えた。

 野瀬は中川について様々な情報を得た。駅近くの本屋でアルバイトをしていること。両親は健在で、仕送りを受けていること。父親のおさがりの車を使わせてもらっていること。そして、運動は得意ではないこと。

「よくやるよな、俺には無理だ。」

野瀬が走って中川のところまで来ると、中川はたびたびそう言って苦笑した。本当に運動が苦手なのだろう。

「走るの、気持ちいいよ。」

「俺にとっては苦しいだけだよ。野瀬はすごいな、体力があって。」

そんな会話をしたのもここ最近である。苦しいだけでなく得る歓びの方が大きいのに、と野瀬はもったいなく思うが、何も無理強いして走らせることはないと誘うことはしなかった。

 代わりに、共に歩くことはあった。中川は時折、野瀬がベンチから腰を上げるのと同じタイミングで立ち上がることがあり、それは帰路につこうとするための行為であって決して野瀬のランニングの邪魔をするつもりなどないのだが、そういう時は野瀬は何となく走ることをやめ、中川と共に川沿いを歩いた。

「走らなくていいの?」

そう尋ねられても首を横に振り、

「いい。俺、歩くのも好き。」

そんなふうに答えた。しかし、その答えは建前で、本音を言えば中川と時間を共有したいからわざわざ歩いているのだった。野瀬はそれほど、中川と共に過ごす時間を快く思っていた。それは野瀬が初めて感じた、ひとに対しての「情」である。


 そんな日々が続いたある日のこと。いつものように野瀬が川沿いの道に走ってくると、いるはずの中川はベンチにはいなかった。おやっと思って辺りを見渡すも、中川の姿はどこにもない。今まで必ずと言っていいほど中川は川沿いの道にいたのに、突然来なくなったのだ。どうしたのだろう、と野瀬は思う。風邪でも引いたのだろうか。いや、先日の講義には出席していたから病気の線は薄い。では何故?問いかけたくともそこに中川はいない。加えてふたりは程よい距離感を保つあまりに連絡先を交換していなかったので、メッセージで尋ねることもできない。野瀬は歯がゆく、残念な思いをした。この間事務のアルバイトで聞いた恋人へのメッセージの送り方について、中川にも意見を聞きたかったのに、いないのならその出来事について話すこともできない。

 そこで野瀬はふと思った、そもそも中川には恋人がいるのだろうか。そんな気配は感じたことがない。第一そんな話をしたこともない。否、何のきっかけもなく恋人の話はするものではないか。考え始めると頭に靄がかかったようにそれだけが気になってくる。野瀬は誰もいない川沿いの道を走りながら、居もしない中川のことばかり考えていた。


 次の日も、その次の日も、中川は川沿いに現れなかった。そうなると野瀬はますます気になってしまう。一体何故来ないのか?やはり病気でもしているのか。もはや野瀬にとって中川がいない川沿いは不可思議な空間でしかなかった。中川は変わりのない安定した景色の一部として認識されていた。それが欠けたことで得も言われぬ喪失感が生まれるのだ。

 やがて講義のある月曜日がやってきた。野瀬は謎の焦りにせかされるようにして教室に入る。中川はいつもの席にいた。野瀬は隣に座った途端、すぐ話しかけた。

「どうしたの、ずっと川沿いに来ないから心配したよ。」

すると中川はその勢いに驚きながら野瀬を見て、呆れたように笑った。

「ずっとって、たかだか一週間だろ。そんなに心配しなくても、俺だって行かない日くらいあるよ。」

落ち着いた声のトーンで諭すようにそういわれると、野瀬は心の中の焦燥が急速に縮まっていくのを感じた。一体何を不安に思っていたのだろう。確かに、中川だって人間なのだ。河原に来ないことだってあるだろう。自分の焦りを恥ずかしく思い、野瀬は居心地悪そうに座りなおした後、その羞恥を振り払うような素早い動作でポケットからスマートフォンを取り出した。

「連絡先、交換しよう。友達なのに知らないの、おかしいし。」

友達。ごく自然に初めてその単語を口にした。まるで当然の如く紛れ込んだそれは異物でも何でもない。中川は何の戸惑いもなくスマートフォンを出し、画面を操作した。

「ラインでいい?」

「いいよ、これ俺のQRコード。」

「ん、ありがとう。じゃあ俺の、これ。」

メッセージアプリで連絡先の交換を済ませると、野瀬は画面に表示されている「中川葉澄」の文字を見て、やはり綺麗な名だと思った。


「…でも、本当にどうしたの。病気でもしてた?」

野瀬はスマートフォンをしまいながら、気になっていた疑問を口にした。急に何の音沙汰もなくいなくなったのだからやはり心配はするものだ。中川はすぐに答えない。それどころか机の上を凝視し、何かを考えている。まるで答えに窮しているか、答えることを躊躇しているかのようだ。

「…え、なんか言いづらいこと?」

野瀬が中川の顔を覗き込みながら言うと、中川は漸く意を決したのか、その目をまっすぐに見返しながら言う。

「病気じゃないんだ。あのさ、前、あの河原で何してるかってきかれたとき、俺何もしてないって答えたよね。」

「ああ、うん。そうだね。」

それが今回川沿いに来なくなったことにどう関係するのか、野瀬には分らなかった。先を促すように中川を見つめる。中川はすう、と息を吸い、

「あれ、うそなんだ。ごめん。本当は目的があってあそこにいた。」

と一息に言う。やはり野瀬の読みは当たっていた。何もせずにいたのではなく、何か目的があって中川はあの河原にいたのだ。中川の目は名前の通り、澄んでいる。風に揺れる葉のように優雅だ。

「…何であそこにいたか、ちゃんと教えるから、今日も…来てくれる?」

中川の落ち着いた声音が少し震えているのに野瀬は気づいていた。しかしそれを指摘するほど野暮な人間ではない。ただ、もちろんだと頷いた。

「待ってるから。」

念押すように中川が言うと、ちょうど講義開始のチャイムが鳴った。中川は教授が入ってくる方を見、もう野瀬の方を見ようとはしなかった。

 野瀬の頭の中では、講義中もずっと、中川の「待ってるから」という切な言葉が回っていた。

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