まだ青く、光る恋

吉野さくら

第1話 邂逅

 秋の訪れを告げる朔風が東から西へと凪いでいる。空は高く、雲は悠然と、人々の行く末など何も意に介することなく天に在った。野瀬景太(のせけいた)はそれら全てを身体中で感じつつ、深呼吸をする。とんとんと靴のつま先で地面を蹴れば、母なる大地から応答があった。走れ、と。野瀬は地を、今度は足の裏全体で蹴った。

 凪いでくる風を全身に受けながら走り出すと、身体中の細胞が徐々に喜んでくるのがわかる。野瀬は昔から走るのが好きだった。身体を動かすことが好きで、特に走ることに関しては格別の意義を持っていた。自分が常に風と共に有ることを自覚できる。その爽快な気分は筆舌に尽くしがたく、他の何でも得られない快感だった。息が切れることさえ苦痛に感じない。それほど走ることが好きな野瀬だが、競争の類は全く好きではなかった。あくまでも自分のペースで、いわゆるタイムなどを気にすることなく走りたいため、小中高と部活やクラブには属さず、ただひたすら自分のためだけに走っていた。その習慣は大学生になった今でも続いている。

 野瀬景太、19歳。今年の春に晴れて大学生になった。上昇志向がある方ではないため、偏差値的に妥当な大学に入学した。故に受験勉強で大した苦労をしたわけではないが、やはり大学生となると大人の仲間入りをした気分になり、嬉しい気持ちが大きい。念願の一人暮らし、初めてのアルバイト、自分で授業のカリキュラムを組む制度。春先はそれらに追われ、生活するだけで必死だった。もちろん数あるサークルにも、属するどころか見学に行く余裕すらなかった。日々に追われ、いつの間にか夏になり、気づけば周りは学生同士のグループで固まっている。野瀬は自分が孤立していることにようやく気付いた。しかし、それに対し焦りはなかった。高校時代も友人は数少なく、狭く浅い付き合いを何とかこなしていたため、今になって一人になってもさして孤独感はない。それより、家の周りに走りやすそうな道路はあるか、ロードワークに最適な経路はどこかなどを考えることの方が、野瀬にとっては大事だった。

 夏になって、春から始めた学習塾での事務のアルバイトにも慣れ、一人暮らしのペースもつかめてきた。幸い、野瀬の住むアパートの近くは平坦な道が多く、少し離れたところには走るのにうってつけの整備された川沿いの道もあり、野瀬は意気揚々と、忙しさを理由に休止していたロードワークを再開した。久々に走ることの心地よさたるや。自分が生きている意味をかみしめるかのように、野瀬は風と共に走り続けた。大学に行き講義を受け、アルバイトの日は仕事を淡々とこなし、そうでない日はひたすら走っていた。孤軍奮闘、充実した日々の連続。野瀬は大学生活を、自分なりに謳歌し始めていた。そして、秋が来た。

 季節が変わり、風の色が変わっても、野瀬を囲む環境には変わりはない。平坦ながら安堵感のある並木道、通り沿いのコンビニ、下校する小学生の列。全て今まで見てきた、いつも通りの景色だ。野瀬はそれらを見ながら走るのが好きだった。自分は一人、だが孤独ではない。そう思うことができるのだ。しかし野瀬にはそれらの中で一つだけ、気になる景色があった。

 アパートから少し走ったところに、大きな川がある。ゆくゆくは海に続いているであろうその川の畔は、きちんと地面が整備されており、行政がウォーキングやランニングを推奨しているようだった。野瀬もその道を気に入っており、毎日のように走っている。その川沿いの道の途中には、ぽつんとひとつベンチがある。見るからにさびれたベンチで、たとえ一休みしようと思ってもそこに座る人はいないだろうと思うのだが、野瀬が通るときは必ず一人、座っている男がいた。中途半端に前側だけ伸ばした黒い髪、ひょろっとした体躯に垢抜けない服装、眼鏡をかけているその男は、年のころはおそらく野瀬と同じか少し年上だろう。どことなく浮世離れした雰囲気を醸し出しており、何の気もなしについ視線が吸い寄せられてしまう。あまりじろじろ見るのも失礼だろうと、通り過ぎるころには視線を外しているのだが、走りに来るたびに必ずその男はベンチに座っているため、野瀬の目には男の姿が焼き付いていた。ではその男は何をしているのかというと、何もしていないのである。ただぼーっとベンチに座って、目の前の川を眺めているだけ。そんな風だから野瀬にとっては余計に不思議な存在なのだ。嫌な言い方をすれば変な男、である。夏の暑いころも、秋の肌寒い今日も、必ず男はいた。野瀬は今日もその男を尻目に、風を切ってゆく。


 次の日は一限目から講義があり、野瀬は早起きして学校へ向かった。野瀬は別に一限目に講義がなくとも、朝の7時にはいつも起きている。何となく目が覚めてしまい、布団の中で時間を過ごすのももったいない気がして、起きて講義の予習復習をしたり、ニュース番組を見たりしている。今朝もニュース番組を見た。天気予報で午前中から雨が降ると言っていたので、朝雨は降っていなかったが傘を持って出た。

 一限目の授業は教養科目と呼ばれている科目で、一年生は学科関係なく皆受けることになっている講義だ。故に大きな教室に大勢の学生が集まる。野瀬はいつも通り後ろの扉から教室に入り、真ん中から少し後ろの席に座ろうとして、おやっと思った。そのあたりに座っている黒髪に見覚えがあったのだ。中途半端な長さの黒髪。しかし後ろから見える肩幅からして女ではない。その男はまさしく、いつも川沿いのベンチに座っている男だった。後ろから見ても分かる。

(同じ学校の学生だったのか)

この教室にいるということは一年生、野瀬のおそらく年のころは同じだという読みは当たった。しかし同じ大学にいるとは思わなかった。

 野瀬は少し迷ってから、その男が座っている席へと向かった。長机に椅子が据え置かれている形の席には、男の周囲には誰も座っていなかった。皆グループで固まって座るからだろう。男は一人だった。野瀬は一つ席を空け、男の右隣に腰を下ろす。

 真横から男を見た。いつも座っている男を見下ろす形で見ているから、この角度から見るのは初めてだった。男は、お世辞にも一度見たら忘れられないとは言えない薄い顔立ちをしている。肌はそこらの女性よりも白く、細い体躯も相まって貧弱な印象を受ける。ふと、男が野瀬の方を見た。ばっちりと目が合い、野瀬はたじろぐ。

「あ……、えっと」

男はすぐに目を逸らそうとするも、野瀬がつい言葉を発したので視線を外さずにまっすぐに野瀬を見た。眼鏡の奥の黒い瞳が訝し気に細められる。野瀬は二の句がなかなか継げずにいたが、意を決して、

「いつも、あの大きな川沿いにいるよね。」

そう声を発した。野瀬は自分でも驚いたが、男はもっと驚いたらしい。細めていた目を丸くし、野瀬をじっと見据えている。

「ああ、うん…いるけど。」

だから何、とでも言いたげな口調だった。愛想がない。男は元からそうなのか、それとも野瀬を訝しむあまりに不愛想になっているのか、野瀬には判断がつかなかった。それでも声をかけたからには引っ込むのも変なので、言葉を続ける。

「俺、いつもあの辺走ってて、よく見かけるからさ。」

すると男は意外にも、

「…うん、知ってる。よく見かける。」

頷き、そんな風に返してきた。男も野瀬のことを認識していたらしい。そして話しかけられて、あの走っている男だと理解したのだ。野瀬は少し驚き、

「そっか、知ってたんだ。」

と返すものの、そこで会話は途切れた。男は正面に向き直る。まあ、確かに、何の気なしに話しかけたとはいえ。男は元来不愛想な性格らしい。野瀬は居心地悪そうに椅子に座りなおし、ふと疑問に思った。男がこの講義をとっていたということは、ずっとこの教室に居たということだ。春から…つまり、野瀬がランニングを始めて男を見かけるようになった時も、毎週この時間はこの教室に居たはずなのに、野瀬は男をこの教室で認識するのは、今日が初めてだった。ずっといたのなら一度くらいはあの男だと気付いたはずだろう。野瀬は男に向き直り、

「この講義、ずっととってた?」

そう尋ねた。男は再び野瀬の方を見る。眼鏡の奥の瞳は聡明そうだが深淵のように暗い。

「前期は、別の実習をとってて…この授業は今日から受ける。」

男はそう答えた。なるほど、そういった変わった単位のとり方もあるのかと野瀬は思う。野瀬が所属する法学部ではそのような単位のとり方は説明されなかったので、男は自分とは別の学科だろうと野瀬は推理した。

「え、じゃあ前期分の単位は?」

「レポート出せばくれるって、教授が。」

野瀬はこの講義のテストはずいぶん苦労して勉強したのだが、男はレポートを提出すれば単位を貰えるらしい。そちらの方が簡単で良さそうだと野瀬は思う。それでも、前期分の知識量がなければ苦労するのではないだろうか。男は飄々とレポートについて述べたが、余程自信があるのか。野瀬が言葉を発さずにじっとしているので、男は賢そうな顔を傾けた。髪がさらりと靡く。艶が蛍光灯の光を受けて光っていた。それに吸い寄せられるように野瀬は言葉を紡いでいた。

「レポートって…前期分のノートとか、ないときついんじゃないの。」

野瀬はもとより人を心配する性格で、お人よしというか、人に対して心配性になりすぎるきらいがあった。良くも悪くも性格と言えるそれが今日も出て、ほぼ他人の男に対してまで心配性を発揮している。しかし男は野瀬の心配を知ってか知らずか、飄々と、

「まあ、そうだけど…でもネットとか使えば、なんとか。」

そう言ってのける。野瀬は何故だか男のその涼しい姿勢が癪だった。俺は講義に毎回出て勉強も結構苦労したのに、お前は検索した知識だけで簡単に作ったレポートで単位を得ようと言うのか…という気持ち半分、やはり心配な気持ちが半分。後者の方が恐らく色が濃い。野瀬は身を乗り出し、男の顔を覗き込んだ。男の目が泳ぐ。その視線に、野瀬は悟った。男は嘘をついている。ネットを使って検索しただけでは困難な課題が出ているのだろう。何故か知らないが強がっているのだ。野瀬は気づかれないように少し笑い、こう尋ねる。

「でも、あれば便利?」

男の視線がさらに揺らいだ。

「………まあ、ね。」

やはり。野瀬の読みはあたった。自分は意外と鋭いところがあるのだな、と野瀬は得意になりながら、持っていたトートバックの中を探って一冊のノートを出した。それはまさしくこの講義の、前期分のノートだ。野瀬は真面目なので全ての講義に出席し、板書をしっかりととっている。ぱらぱらと捲って見せれば、ちらりと見ただけでもその英知が分かるだろう。男の視線がノートと、野瀬の顔を行き来する。

「俺ので良ければ、貸そうか。」

野瀬はついにそう言った。駆け引きの真似事のようなことをするのはやめよう。男だってきっと、これを期待している。しかし男はほぼ他人の野瀬に借りていいものかと判断に迷っている様子だ。まだ視線が泳いでいる。

「でも………いいの?」

「いいよ別に。この授業終わってから、コピーとればいいじゃん。」

野瀬はノートを男の方に押しやった。男はなおも悩むも、すぐ頷いてノートを手に取り、

「借りる。ありがとう。」

そう感謝を述べた。野瀬は初めて明らかに笑う。男もつられて、不器用に口の端を上げた。笑っているつもりなのだろう。


「俺、野瀬景太。法学部。きみは?」

「…中川葉澄(なかがわはずみ)。理学部。」


漸く自己紹介を済ませたものの、野瀬は首を傾げる。はずみ、という言葉の響きがあまりに聞きなれなかったからだ。

「はずみ…って、どんな字書くの」

そう尋ねると、中川は自分のノートを開き、その隅にシャープペンシルで華奢な字を書いた。葉っぱの葉に、さんずいに登る澄。葉澄、と。

「へぇ…珍しい名前だね。」

「よく言われる。」

野瀬はノートの隅に書かれた葉澄という字を眺め、

「でも、綺麗な名前。」

正直な感想を告げる。中川は面映ゆそうに頬を掻きつつ、「ありがとう」と言った。


講義が終わった後、二人は学食の前にあるコピー機で野瀬のノートのコピーを取った。かなりの枚数になったが中川はそれらを綺麗にまとめて自分の鞄の中にしまった。

「ありがとう、助かる。」

中川はノートを野瀬に返しながら言った。野瀬にとっては何ら困ることではない。

「いいよ、礼なんて。大したことじゃない。」

そう言ってノートを受け取る。そして何の気なしに窓の外を見ると、あっと口を開けた。外では雨が降り出していた。今朝の天気予報が当たったのだ。野瀬は傘を持ってきてよかったと思った。

「雨だね。」

中川も気づいたらしく平坦な口調で言う。しかし中川の手元を見ると、そこには鞄しかない。傘を携えていないように見えた。

「中川、次の授業は?」

「ない。だからもう帰るよ。野瀬は?」

「俺も何もない。帰ろうかな。」

一限目だけで講義が終わるのは珍しいことだが、今日は二人ともその後の予定がなかった。何となく足は建物の出口へ向かう。出口で外を見てみると、雨はわりと本降りで、傘がないとかなり濡れるであろうことが予想された。野瀬は自分の傘を開くと、

「入る?」

そんなことを提案する。中川は驚いたように野瀬を見た。開かれた傘は大きく、二人入るのに十分スペースはある。しかし中川はそこに入ることに躊躇していた。困ったように眉を下げたかと思うと、少し笑い、

「でも、悪いよ。ノートまで借りてるのに」

と遠慮した。野瀬にとっては傘に入れることもノートを貸すことも何の労力も使わないので、問題のないことだった。中川が躊躇している意味も分からず、首を傾げる。すると中川はぎこちない笑みを更に歪ませ、

「それに、男同士で」

そんなことを言った。つまりは男同士でひとつの傘に入ることを戸惑っているのだ。いわゆる相合傘となるからか。野瀬はやっと中川の躊躇の意味を理解し、ああ、と相槌を打つも、

「俺は気にしないけど。」

早口の言葉は早く、と急かしているようにも聞こえるか。中川はそれでもなお戸惑っていたが、野瀬が雨の中傘を垂直にさして出ていくと、結局その横に並んだ。


雨は燦々と降る。しっとり濡れた地面に落ちた雨粒が野瀬と中川のズボンの裾を濡らした。しかし身体は濡れることはない。大きいサイズの傘が二人を守っているからだ。二人は黙って道を歩いた。何人かの学生とすれ違ったが、皆野瀬と中川には何の興味も抱かず、視線すらよこさずに去っていく。皆、他人には興味がないのだ。自分が生きることに精いっぱいで。雨はそんなことさえ教えてくれる。

「傘、大きいね」

中川は沈黙に耐えかねて会話を振った。

「うん。濡れるの嫌だから、大きめの買った。…道、どっち?」

分かれ道に差し掛かると野瀬が尋ねる。

「右。」

「俺も。」

偶然にも帰路が同じだったため二人は同じ方向に足を向ける。ぴしゃ、ぱしゃ。雨を踏みしめる音がしばらく二人の間で響く。傘の大きさについての会話以降、二人の間に会話はない。ただ雨の音だけだ。それなのに野瀬は、心地よさを感じていた。孤独ではない。しかし多人数特有の喧騒もない。それが得も言われぬ心地よさを育んでいた。このような友人関係は野瀬の理想だった。不愛想な中川が野瀬に友情を感じているとは言い難かったが、野瀬は既に友人のつもりでいた。敢えて言わないだけで。

 歩いていると、時折肩口同士が触れ合う。そのたびにどちらかが「ごめん」と謝った。傘が大きいとはいえ二人入ると少し窮屈で、ぶつかるのは仕方がないことに思えた。触れ合うように、擦れあうようにぶつかる肩。野瀬の肩よりも中川の肩は華奢で、少し触れただけで横にぶれる。ごめん、と言葉にし少し距離を取る。その繰り返しはなんだか滑稽だが、二人にとって居心地の悪い空間ではなかった。

「ここは?」

次の分かれ道に来た。野瀬が問う。

「えっと、左。」

「あ、じゃあ逆だ。」

「じゃあここまででいいよ。家、もう近いし。」

中川はそういうと返事を待たずに傘から出た。そして改めて野瀬の顔を見ると、「じゃあ、ありがとう」最後もまた礼を言って、小走りで雨の中を去っていった。野瀬はその背を見送り、自分も帰路についた。


 その日の雨は夜まで降り続いた。野瀬は走りに出ることができなかったが、得も言われぬ心地よさがずっと心を占めているので、何ら傷つくことはなかった。大学に通い始めて約半年、友人らしい友人が一人もできず気づけば孤立していたが、思わぬ形で友人ができたかもしれない。そう思うと落ち着くようなときめくような、不思議な気持ちになった。中川葉澄。彼はいったい、あの河原で何をしているのだろう。尋ねたくとも尋ねるタイミングがなく、きけなかったその疑問を、次に会った時はぶつけてみようと野瀬は思った。雨は静かに降り続いていた。

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