歌う鳥(2)
2
シャガイ(羊のくるぶしの骨)は一頭の羊から二個採れ、洗ったものを集めて玩具にする。遊牧民の子どもたちは、これを並べたり、転がして出た面を家畜にみたてたりして遊ぶ――馬、
母子二人で夕食を摂った後、ラディースレンは独りで遊んでいたのだが、やがて眠くなり、駱駝に
「ラディー、お父さんは遅くなるよ。先に寝たらどうだ?」
「やだ。待つ」
幼子はねむねむと目元をこすり、首を振った。隼は欠伸をかみころし、息子を寝かしつけるべきかどうかと考えた。
父系血族を中心とする〈草原の民〉の社会では、氏族長は強い権限をもっている。族長を補佐、監視する長老会があり、彼ら
氏族長のトグルには、司法、行政、祭司、医療や外交に関する、あらゆる知識と権力が集中していた。それは民を率いるには有利だが、お陰で彼は非常に多忙な日々を送っていた。――現在は、少し違う。
草原の部族間の闘争が終息したのち、トグルは自由民と定住民から代表を募り、長老会と並ぶ〈民会〉を設立した。貴族に集中していた権力を分散させ、合議によって政治と裁判を行うことにしたのだ。無論、民には知識も経験もないので、トグル自らが指導して、社会を少しずつ変えていこうとしている。
トグルは相変わらず忙しい。けれども、以前よりは共に過ごす時間が増えたのは、隼には嬉しかった。
こくりこくりと首を揺らしていたラディースレンが、突然ぱっと顔を上げた。
「
父の愛馬の蹄の音を聞き分けたらしい。隼は、男児の耳の良さに感心した。
続いて、ユルテの扉が軋みながら開き、トグルが夜をまとって入って来た。
「お父さん!」
ラディースレンは満面の笑みで駆け寄り、両腕を伸ばした。
「お父さんっ、おかえりっ! ぎゅーっして、ぎゅーっ!」
トグルは手にしていた馬具を傍らへ置くと、身を屈め、幼い息子を抱き上げた。『ぎゅーっ』と抱きしめてもらい、ラディースレンはきゃっきゃと笑った。
その様子を、隼は懐かしく見守った。かつて、戸惑っていたトグルの表情を想いだしながら――
『スマナイ。俺には、よくわからない』
彼がミナスティア国へ鷲を捜しに行っていた間、隼は、タオの手を借りてラディースレンを育てていた。トグルが帰ってきたので、育児は夫婦で行うことになった。トグルは日中は仕事に出掛けていたが、夜は必ず帰ってくれた。
深夜、隼が目覚めると、トグルはぐずる赤子を抱いて途方に暮れていた。
『ハヤブサ。俺には、父親というものがわからない。よき父とは、どんなものだ?』
『…………』
まさか夜中にこんな質問をされると思っていなかった隼は、一瞬ことばに詰まったが、トグルが大真面目に訊ねているのだと解り、息を吐いた。
『あたしも、母親がわからないよ。あたしの母は、あたしを産んですぐ死んだから』
トグルは、彼女を真摯にみつめて頷いた。時折、我が子の様子をたしかめながら。
隼は、うすく微笑んで続けた。
『憶えていないから、どうしたらいいのか鷹に訊いた。そうしたら、ミトラの言葉を教えてくれたよ』
『ミトラ』
トグルはその名を小さく呟いた。ニーナイ国と草原で二人の夫との間に三人の子を授かったミトラは、うち二人を亡くしたが、今はシェル城下で末息子のエイルと暮らしている。
『そう。――”子どもは全員違うから、正解はあってないようなもの”だって……。”心配しなくても、その子にとってどんな親がいいかは、子どもの方から教えてくれる”』
『子どもから……』
復唱して、トグルはラディースレンを見下ろした。乳児はすよすよと平和に眠っている。
トグルは少し考え、視線を上げた。
『
隼は吹きだした。
――遊牧民は馬を調教する際、その性格をみきわめて躾け方を変えるという。狩りに使うイヌワシも、乗用の
以来、トグルはラディーをよく観て、その求めに応じるよう心掛けた。はじめこそぎこちなかったが、次第に慣れて自然な雰囲気になった。
トグルは抱き上げたラディーを体ごと左右に揺らしつつ、隼の話を聴いた。
「ハトと、オダが……。そういう仲だったか」
「鳩の身内が少ないから、オダは心配しているんだろう。鷲一家と、雉とタオにも声をかけようと」
トグルはうなずき、隼を見詰めた。
「お前は?」
「いいよ、あたしは。ラディーもいるし」
「俺がみているぞ」
「あたしより、トグルが行った方が鳩は喜ぶと思う。
トグルの眼が心持ち大きくなった。
「俺が?」
冗談だろうという口調だったが、隼は秘密めかしてくすくす
「眠ったよ」
トグルは首を反らして息子の寝顔をたしかめると、そうっと彼を寝台に降ろした。枕をととのえ、毛布をかけてやる。小さな掌からシャガイ(羊のくるぶしの骨)がひとつこぼれたのをみつけ、眼を細めた。
「《羊》だな……願いが叶う」
低くささやくと、こぼれたシャガイを拾い、寝台に散らばっているものも集めて枕許へ置いた。六本に編んだ黒髪が絡んでいるのを直し、傍らに腰かける。
トグルは、オダ達と自分のこれまでの関わりについて考えた。
『僕は、あなたを赦さない。必ず、殺します』
――キイ帝国とニーナイ国の民にとって、遊牧民が人間ではないことは、理解していた。
決まった家を持たず、土地を耕さず……壮麗な街も、きらびやかな宮殿も、みやびな文化もない。家畜を追って移動する獣のような生活を彼等は蔑み、同じヒトとはみなさなかった。
交易を望んでも、
要するに、人間ではない餓狼の群れと話し合う言葉などない、という意志表示なのだ。
勇敢なる使者を殺されてしまっては、仇を討たぬわけにはいかぬ。どんなに城壁が厚く、長城が堅牢であろうとも……。
そして、終わりのない戦いが始まった。
そのニーナイ国がトグルの許へ初めて寄越した使者は、まだ幼さの抜けぬ少年だった。〈草原の民〉に比べるとあまりに小柄なので、トグルにはそう観えた。
さて、どう扱おう?
腹立ちより戸惑いが勝ったが、結局、二つの民族をつないだのはオダだった。短気で無鉄砲なところはあるが、この少年の素直さと吸い込むように物事を理解する聡明さを、トグルは認めたのだ。
一方、鳩は――。
少女を想うと、トグルは思わず口元がほころんだ。
最初は、鷲と隼の背にすっぽり隠れていた少女。ハル・クアラ族に似た容姿に、流暢な交易語……。彼女が真っすぐ向けてくれる好意を、どれほど貴重に思っただろう。
『トグル、隼お姉ちゃんのことが好きなんでしょ? どうして離れていられるの』
少女の前では、意地を張るのが莫迦らしいと思えた。みるみるうちに成長し、娘となってからは気軽に話は出来なくなったが。
……そういえば。アレは何だったのだろう?
ミナスティアの地で、弱った
何しろ眠かったし熱もあったので、記憶が混濁している――
「どうした? トグル」
隼の声で、トグルは我に返った。ゆっくり首を横に振る。
「いや……。祝ってやりたいが、俺がかの地でハレの場にでるのは
「そうか?」
隼は首を傾げた。
トグルは無言で肯くと、ラディースレンの傍を離れた。帽子を脱ぎ、外套をたたみ、剣帯を外して枕元に掛ける。自分の寝台に腰をおろして
隼は、お茶を口へ運ぶトグルの隣に坐り、精悍な横顔をみつめた。トグルは彼女の沈黙を訝しんだ。
「……何だ」
「うん。淋しそうだな、と思って」
さびしい?
思いもよらぬことを言われて、トグルは瞬きをくりかえした。隼は微笑むと、空になった茶碗を受け取り、卓上へ置いた。片方の腕を彼の背に回し、肩に頬をのせる。
トグルはやや呆然と囁いた。
「ハヤブサ」
「お前がそんな風なのは、珍しい……。少し妬けるけど。ほんとうに、お前に祝ってもらえたら鳩とオダは嬉しいだろう。難しいのは分かっている」
トグルは困惑した気持ちで彼女の背を撫で、ほそい銀の髪を梳いた。――ニーナイ国との和平が成立して、未だ五年足らず。
隼は両腕で彼をかかえ、溜息をついた。優しいぬくもりとふるえを胸に受け止め、トグルはぼんやり理解した。
……そうか。俺は、淋しがっているのか。
どこか他人事なのは、最初からさびしくない状態がどんなものか、よく解らないからだった。人を
強いて言えば、歳の離れた妹だ。無邪気に慕ってくれていた相手が去っていくのを見送るとき、淋しいと感じるのだろうか……。
トグルは隼の頭を撫で、こめかみにそっと口づけた。
「
「そうか?」
「
隼はうなずき、彼と視線を合わせた。
「……疲れているんじゃないのか?」
「大丈夫」
「ラディーもよく眠っている」
彼が求めてくれているのを察して、隼は黙った。唇を重ね、胸を重ねる。ともに寝台に横たわりながら、彼女は
自分はここで生きていくのだ。彼とともに……。
トグルは灯りを消した。
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