another story 1-2
朝、ジャケットを羽織った。
待機日はオフィスから半径十キロ圏内での行動が義務付けられているが、これから向かう「20世紀CINEMA」にその心配はない。なにより呼び出されたなら優先することを条件にしたとして、このところ沈黙したきりの相手におそらく端末は今日も鳴ないだろうと思われた。
問題視されている初日作品の上映は、同じスクリーンで別作品が上映されたその後だ。設定された時刻も十時三十分と遅めで、現場は上映中の館内なのだから相手が車で逃走する心配こそなさそうだと考える。
劇場へは電車と徒歩で向かうのがいいだろう。
予定通り、上映一時間前に家を出た。
あのあと見せられた投稿動画より、盗撮は毎回スクリーン中央、前列でも後列でもない高さで行われていることをレフは確認している。その決まりきった位置はおそらく座席が前日中にも予約されているためで、常連客に違いないという従業員側の証言とも十分、かみ合うものだった。
だが常連といったところで、データベースなどと都合のいいものはない。事前に顔を記憶しておくことは出来ず、盗撮犯が陣取るだろうだいたいの位置に座席は二十ほど置かれていることを、訪れた記憶の中で確認するにとどめた。
目的からしてそんな盗撮犯が途中入場してくることはない。つまり仕事は本編開始から三十分もあればすむに違いなく、むしろ現れなかった場合の、次回上映時間までの待ち時間が面倒だなと考える。だが時間を潰すいい案こそ浮かんでこず、浮かばぬまま「20世紀CINEMA」の正面扉を押し開けていた。
やはり初日だ。パンフレットを吟味する客に、カウンターでチケットを買い求める客がいつもより多く目にとまる。
シアター内へは自由に出入りしていい、とすでに話はついていた。つまりチケットを買う必要はなく、発券カウンターをやり過ごしてフロア右手側、小さく作られたロビーへ向かう。
そのさいカウンターの向こうに水谷の姿を確認したが、水谷にこちらを気に留めるような素振りはない。従いこちらも他人のフリを決め込むと、向かい合うように置かれたロビーのベンチシート、その端へ素知らぬ顔で腰を下ろした。
客はすでに三人いる。一人はリュックを背負いキャップをかぶった中年男で、もう一人はうつむいたきり携帯電話を懸命に操作している中年の女だ。三人目もまた、フロアから集めて来たチラシを読みふける学生風の女で、そんな女二人は脇に挟める程度の小さなカバンを所持しているのが見えた。とはいえテクノロジーの進歩はめざましい。どちらも無視できる大きさではなく、さらにそこへチケットを買い終えた客が四人、加わる。さらにもう一人現れた客は、パンフレットを手にしただけと無防備だ。いずれも手狭なロビーの、すでに四人が腰かけたベンチシートへ割り込む気はないらしい。傍らに立つと、その全身へも、もれなく視線を這わせていった。
どうやら先に上映されていた作品の終了時間が近づいているらしい。スタッフが一人、カウンターから抜け出しシアター内へと向かってゆく。混乱を回避すべくフロアへは順路が作られ始め、終わればほどなく上映終了を告げて防音扉の開く音はフロアに響いた。
気配が先だ。鑑賞を終えた客の姿はその後から現れ、向けてカウンターあら「ありがとうございました」の声は投げかけられる。
様子を、次の上映を待つ客らが遠巻きに眺めていた。リュックを背負いなおした男が、読みかけのチラシをまとめた若い女が、そろそろだと立ち上がってゆく。ならいつまでも座り込んでいる方が不自然だった。紛れてこちらも立ち上がることにする。
帰りゆく客と、これからを楽しむ客が狭いフロアで入り混じっていた。その群衆を横切って男は一人、小走りで駆け寄ってくる。携帯電話を弄り続けていた女の連れらしい。「間に合った」という声はやけに甲高く耳につき、掻き消してフロアに開場のアナウンスは流される。
注視して止まった頭の全ては、これからの観客だろう。
その頭はやがてシアターへ向かい動きだしていた。
入るのは一番最後がいい。奥へ消えゆく客を横目にチェックしつつ壁際で待つ。
と水谷が、初めて視線を投げてよこした。
なるほど上映開始の時刻だ。先ほどまでチケットを確認していたスタッフが扉を閉めに、シアターへきびすを返していた。まもなく水谷がその穴を埋めて立つ。投げかけられた視線はこの事を知らせるためのもので間違いなく、便乗して傍らを通り抜けるとシアターへ向かった。
そのさい水谷から受け取ったのは、ベンチシートに座っていたリュックにキャップの男が常連の一人である、という情報だ。
通路を奥へ進みつつ、キャップ男の記憶を手繰った。
果てに現れた防音の二重扉を押し開け、シアターの中へもぐり込む。
窓のない暗がりが醸し出す閉塞感は独特だ。開いた瞳孔を刺激して片側で、スクリーンが明滅している。その光は立ち見用の手すりもまた、辛うじて見える程度、浮かび上がらせていた。
ひとまず掴んで寄りかかる。
見下ろした客席は、混んでいるとも空いているとも言い難い状況だ。まるで決まり事でもあるかのように互いの間にひとつ、空席を設けて頭を並べていた。その頭はどれも一様に前だけを見ると身動きひとつする様子をみせない。
などと見回しているうちにも闇に目は慣れ、もういいだろうと壁際の通路へ向かう。座席はスクリーンに向かって傾斜が付き、その低さが拍子抜けな階段を座席を探す素振りで降りていった。
一列ごとに客の様子を確かめてゆく。
最前列にまでたどり着いたところで屈んでスクリーン前を横切った。
辿り着いた反対側から、改め客席を見上げる。
客の顔はスクリーンからの光で想像以上に鮮明だ。だが前方を凝視する彼らに不審な点は見当たらない。それは目星をつけていた中央座席群もまただった。おかげでいくらか時間を食ってしまえば、不自然さこそ否めない。目の前にあった座席へ腰を下ろす。
スクリーンに映し出されている映像は、ビデオカメラを頭に被ったパントマイマーが登場するあのコマーシャルだ。最前列は見づらく、埋もれるように浅く腰かけなおして腕を組んだ。と、コマーシャルは終了して、シアターという空間からしばし光に音は剥ぎ取られる。その無にも似た感覚は場面転換を予感させ、ならその通りと一呼吸おいて本編フィルムは回り始めていた。
盗撮犯は律儀と毎回、この広告終了直後からアップロードを始めている。紛れているのであれば確実に、背で犯行は行われているはずだった。
意識しつつ見上げるスクリーンでは、雲をまといつかせた製作会社のロゴが映しだされている。再び雲の中へ消え去ったなら、入れ替わりに情感たっぷりのメロディーは流れ出し、乗って視界を埋め尽くす緑鮮やかな丘の風景がスクリーンへと浮き上がった。滑るような空撮はそこを吹き抜けてゆく風の視点か。すり抜けていった木立の葉も軽やかと翻る。
と同時にこの明るさなら、と首もまたひねっていた。再度、座席中央へ視線を投げる。当然ながら視点が低い。見上げるような角度を取る客の顔は重なり気味で、白く浮き上がったその一人、一人へ辛うじて視線を走らせていった。
だが誰もが大人しく座席に収まっているだけだ。またしてもそのどこにも不審な点は見当たらない。常連の男もキャップを脱ぐと字幕に備えてか眼鏡をかけ、始まったばかりの本編を凝視している。
たとえばここから見えない位置で盗撮している輩がいるとして、それはもうしばらくしてから手洗いへ向かう素振りで立ち上がった時にでも確かめるほかないだろう。切り上げ前へ向きなおった。
はずが視界の隅で、押し止めてそのとき何かは動く。
確かめたばかりの位置だと感じ取っていた。
急ぎ振り返ったりはしない。あからさまにならぬよう残した目尻で捉えなおす。なら控えめと眼鏡のブリッジを押し上げる常連客の姿は、そこにあった。
紛らわしい。
舌打ちがもれかける。
改め再び前へ向きなおろうとした。
いや、と見えたものに押し止まる。
スクリーンの光だ。ブリッジを押し上げたせいで、常連客の顔には妙な影が落ちていた。
そこから先、なるほど、と思うまでそうも時間はかかっていない。形を変えた「納得」を携え今度こそ前へ向きなおる。
見上げたスクリーンでは港とカモメをバックに女が一人、石畳を足早と歩いていた。その服装から時代はだいぶと古いことが知れ、そんな彼女を呼び止め、魚を山と乗せた木箱の向こうから男は言葉を投げかける。振り返った女の顔は険悪だ。返す暴言は字幕となって下部に短く打ち出され、とたんのカットアウトに場面は闇の中、明かりを灯した窓とそこに打ちつける雨のアップへ切り替わった。雨音は激しく、負けぬ音量で口論を交わす男女の声がシアターを震わせる。
見えぬ人物に声へ注意が傾くのは自然なことだ。なら物音は暴力をにおわせるけたたましさで、そのときガシャン、と鳴り響く。
観客を引き付け驚かせるに十分な効果だった。
こちらもその過激さに紛れ席を立つ。
背で、起きたらしい殺人を聞き取りながら階段を上がった。
つまり作品は冒頭三十分にくる最初の山場に差しかかろうとしており、その展開に眼鏡をかけた常連男もスクリーンへ釘付けとなっている。
様子を確かめてから屈めた身で同じ列へもぐり込んでいった。
辿り着くまでに観賞中の客前を三人、やり過ごす。
だが男の前はまたがない。
真横の座席だ。
腰を下ろした。
だが男が気にかける様子はない。いや、気になったとしても振り返ることこそできないだろう。だからして腕を組み、むしろこちらの方から先に眺めてやることにする。間違いない。男のかける眼鏡にはレンズが入っていなかった。代わりに片眼上部に小さなプリズムは仕込まれると、そのせいで妙な影は今もなお男の顔へ落ちている。
そう、男がかけているのは開発元の欧米ですでにトラブルを起こし、規制対象にもなっている眼鏡型のウエアラブルデバイスだ。長時間の録画に手を加えたのか、あの距離からでも違和感を感じたように、近くで見たその見た目は少々ゴツい。もちろんトラブルが起き、規制がかけられている原因は装備された録画機能によるものにほかならず、上映開始間際、レンズすら入っていない眼鏡を着用した男の目的が視力矯正にないことは日を見るより明らかだった。
盗撮犯か。
少なくとも任意で事情を聞いても差し支えない人物であることを見極める。
と、気づいたらしい。呼び止められたかのように男もまたスクリーンから目だけをこちらへ裏返した。互いの間に遮蔽物がないからこそだ。うかがい見る目はまさに現場を押さえられたコソ泥と縮み上がって光りを放つ。
だからといって決めつけはいただけない。水谷からも穏便に、と受けていた。ここはひとつ相手の出方に任せた方が無難だと、こう言ってやることにする。
「NO MORE」
ついでだ。
「映画泥棒」
噛み合わせた歯のまま「ニ」とレフは笑いかけた。
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