side story 2-4

「仕事の邪魔はしないわ」

 聞かされた言葉に眉を詰める。

「だからもう少し今の関係を続けたい。わたしはそう、思っている。あなたはそういう最善を、考えはしなかった?」

 問いかけてバーバラは、どう、と首をかしげた。

 その瞳に戸惑うのは、それこそ考え、勘違いだと割り切り、「笑い」に紛らせ切り捨てた部分だからだ。だというのに拾い上げてその人は、再び前へ差し出しこれはバカンスではなくこれから先も続く日常なのだと教える。その口ぶりこそ「笑い」に紛らせられるようなものになく、むしろ考えた、言いそうになっていた。だが起きかねない万が一に、言えやしないと踏み止まる。

 なら囲われたそこで言葉は巡った。

 巡るままに迷えばそこもまた、森となった。

 そんな茂みの奥から声はする。

 花を巡るチェブが「また我を通すのか」と語りかけていた。

 そんなことは分かっている。あのとき失敗したのは悪いことをしていると自覚しつつも、我を通したせいにある。そして今も確かにうしろめたく、だがそれとこれとは違うと睨む。

 試すな。

 力んでチェブを追い払った。

 向けて今度は遠くから、在りし日の口癖は聞こえてくる。

 試されているときほど素直になりなさい。

 バーブシカは繰り返し、だとして素直になればなるほど妄想はこうしてこびりつくトラウマと、巡ってそれを許そうとはしない。

 挙句、思い当たった現実に我へ返っていた。

 どうしてだ?

 己へ問いかける。

 これでもそれで飯を食っているはずなのに、である。

 なぜ脅かされて対処しようとしないのか。

 それは至極真っ当な疑問にほかならず、よもや今さらそんな自信などない、などと言えるはずもなかった。元より逃がすつもりはないはずで、手出しさせないつもりだった。

 過れば揺らぎ続ける胸の内へ、言葉はひとつ杭を打つ。

 バーバラへは返事をしていない。

 ただ奥歯を噛み、前へ向きなおる。

 キーをひねった。

 エンジンは震えだし、その咆哮に己が意を重ねる。ここで起きた全ては日常として日本へ持ち帰る。でなければ脅されるがまま手放すなどと、それはまた彼らに愛着を奪われたも同然の結果だと、アクセルを踏み込んだ。

 同じ失敗は、二度と繰り返さない。

 そのためにもつける算段へ思考を巡らせる。

 急に走り出した車の行き先にも、険しいまま固まったこの顔にも、バーバラは何がどうしたのかと不安げな顔つきだ。目に余って次に会うまでの連絡先を教えておく、とだけ伝えてやる。ただし、と条件を挙げ連ねていった。

 連絡先は、携帯電話のみに限定。そしてその電話で気まぐれに連絡を取ることを禁じた。通話は仕事前と仕事上がりの二回のみとし、つまり自分からは掛けず、話さないことを、しかしながら聞いているから好きなことを話すよう指示する。ただ身辺で気になることがあったなら、どれほど些細なことだろうと伝えることを約束させた。

 期間は、ひと月。最終日にいつもとおりと返答がなければ、以後、ひと月づつの更新もまた取り決める。

 不可解かつ、不条理な条件だろろうに、バーバラはその理由を問うてこない。ただ変わらぬ不安げな面持ちで聞いているだけだった。様子はもっと他の何かを気にしているようで、それが何なのか、まだかいもく分からない。

 ともかく、自分はプライベートのそれをもっておらず、バーバラの携帯電話は国際電話がかけられないタイプのものだった。近頃の携帯電話の契約はデザインさえ選り好みしなければ一、二時間あればすむスピーディーさである。

 話し終わればちょうどと店は目につき、停めた車から降りた。避けていたことが嘘のようにバーバラを連れて歩き、回線を契約する。その片方をバーバラに与え、少し遅れた昼飯を取った。コーヒーを傍らに互いの番号を交換し、ルールを復唱させ、携帯電話の動作もまた確認する。

 バーバラの覚えは早い。別れた後の心配もなさそうに思えていた。だが裏腹と、しきりにこちらへかかることを確かめたがる。そのたびに呼び出し音はジャケットの胸ポケットで鳴り、動作しているとバーバラへ言って聞かせた。

 と、それは店を出て、家へ送り届ける車の中だ。本当につながる? と確かめる口調に初めて、携帯電話ではなく自分への不安が隠れていることに気づかされる。おかげで過ったのは黙らせるために与えたそれは小道具である、というシナリオだろう。与えられた妙な条件もさることながら、本当は電話口に出る気などないのだと、ままに日本へ帰ればそれきりになるはずだとたかをくくっている、そう罵る声さえ聞こえてくるような口調だった。

 だがそれこそつながる、と言って返すしか手はない。それでも再三、問うバーバラに苛立ちを覚える。顔つきを推し量ったか、そのうちバーバラも確かめなくなっていった。

 沈黙の中、やがて行く先にキリンは見え始める。

 傍らを通り抜け、ポーチの前でサイドブレーキを引き上げた。

 降ろしたバーバラを玄関口まで送り届ける。なら鍵をさして開けたドアの前、振り返ったバーバラはまたあの言葉を繰り返していた。

「本当に、つながるのよね?」

 不安さえうつりそうで、つい言葉に力は入る。

「さっきから何度も言っている。つながる。信用しろ」

 とたんバーバラは目を、見たこともない形へ吊り上げていった。

「だってあなたは何も言わずに帰ろうとしたのよ。信用しろって、どこを? そのうえ帰るのは日本? わけはおおよそ嘘みたいな話ばかりっ。はいそうですかってうなずけない。日本っていうのも諦めさせるための嘘。電話もすぐつながらなくなる。あなたの都合を邪魔するつもりはないわ。けど黙って帰るところを見つかったからって、こんな玩具。みえすいた嘘で誤魔化そうだなんて子供だまし。あたしをバカにしてるっ! それが悔しいの。いい? 続けたかったから言い淀んだことも追求しなかった。なのに、なのにこんなやり方っ。信じろっていう方が、無理なのよっ!」

 吐き出した口元が小刻みに震えていた。押さえてバーバラは、すぐにつけ足す。

「ごめんなさい。大きな声。喚いてばかりで嫌な女」

 聞き流すしかない。

「なんてことはない。俺のせいだ」

「こんなだもの、つきまとわれると困るわよね」

「そうじゃない」

 やおらバーバラはうなずき返した。

「わかった」

 様子は観念したに等しく冷めきっている。

「信用してる。仕事、気をつけてね。電話は明日から」

 言うが、無理矢理、吐いた言葉に頬は歪んでいた。見つめるほどに、どこからどうなってこうもねじれていったのか、もどかしさが胃の腑を掴む。だからといって二人しかいない容疑者の中から犯人を捜し出すことさえ出来ぬ己に、もつれた最初へ戻る器用さこそ要求できはしなかった。できないことにも、足りない時間にも、信じろとしか言えないもどかしさがただ苛立ちを募らせる。その苛立ちもいつからか、果たして誰へ向けるべきものだったのか、分からなくなろうとしていた。

 それでもバーバラは身を縮め、じゃあまた、とドアを引き寄せる。

 果てに「失った」らしいものはそこにまざまざ貼りつけられて、目の当たりにしてようやく信じさせるにはもう言葉だけでは足りないことを思い知らされていた。

 クソ、と胸の内で吐きつける。

 やろうとしていることとやっていることが、これでは真逆だ。

 だが決定的になろうとも、見られていなければかまわないと思う。足を出し、わずか残ったドアの隙間へかませた。閉め切られる寸前、中へ身を滑り込ませる。

 様子に驚きバーバラが振り返っていた。その頭を引き寄せる。仰ぎ見た唇は飲んだ息に開き、有無を言わさずただ塞いだ。疑う余地などどこにもない。教えるべく、あるだけを吹き込む。縮んでいた手に掴み返され、なお強く言い含めた。

 離れて黙し、伸び上がったバーバラとついばむようにまた触れ合う。

 用件は、つまりそれだけだ。

 カルチャーセンターのロビーでは、そうしていともたやすく踵を返そうとしていたはずだった。だが全ては様変わりすると果ては見えなくなる。

 声だけが、まだ触れたままの髪の中から聞こえていた。


 そもそも嵐の中では前さえ見えず、シェルターなんて気の利いたものこそありはしない。ゆえに通り過ぎるまで、互いは互いに掴まりその場をしのぐ。たとえばそれは離さない、と約束させるための意地悪い嵐だったとして時に人生には、そんな風が吹きつけるらしい。

 きっとここが砂漠だからだ。

 そんな風に冷ややかさはもうない。

 熱にあおられ、揺れて蜃気楼が地平を波立たせていた。

 その空と大地の狭間へ、またあのボールを投げつける。

 追いかけジョーイは走っていった。

 だが戻ってこない。

 波立つそこへチョコレート色を滲ませると、ただ溶けるように消えてゆく。


 すねているような、ふてくされているような声がきっと、と前置きしていた。軽い女だと思ってる。言うものだから、ならこっちは付け入る悪い男だ、と返して拳を振り上げられていた。思い出したか、しかしながらすでに古傷になりつつあるそこへは落ちてこず、悪い冗談、とアゴ先をなぶってその手は引き戻されてゆく。

 おかげでプレッシャーとリスクを引き込んだことになろうとも、それで目が覚めればハートの嫌味も聞かされずにすむはずだった。

「本当は、何者?」

 今さらそれはない。バーバラがたずねる。

「期待されても何も出ない」

 肩をすくめて返せば、傍らから穴が開くほどじいっと見つめられた。真剣な眼差しの奥から、やがてこうバーバラは投げよこす。

「……あなたも何か、なくした?」

 おそらく隠し通せはしないと思う。すでに晒しているようなものだから、馴染む温度が離れがたい。だとして、理解してもらえる誰かに会うまで大事と閉じ込め持ち運んできたそれを話すのは、今でこそないだろう。すべてがすんだその後いずれ、と思う。

 見破ったようにバーバラが、その身をせり上げていた。どこを探しても自分にはない柔らかさで口づける。それはまた今度、会った時に。交わす約束で怪しげな男を赦し、おそらくすでに慰めた。

 瞬間、鳴り響いたのはスタッカートの効いたトランペットの音色だ。鼓膜を打つ高音が頭上から放たれる。不躾な乱入に互いは跳ね上がり、その滑稽さに間近と見つめ合った目を丸くした。すぐにもほほ笑みを残してバーバラは腹ばいになる。伸ばした腕でそれを掴み引き寄せた。

「やだもう。夜勤に合わせたままだった」

 目覚まし代わりに使っているらしい。ラジオだ。かかる髪を払いのけ、裏側にあるらしいスイッチを手の中で探る。だがなかなか見つからないのは寝起きと同じで、うちにもラジオは歌い出していた。ひと節目から軽快にタイトルを歌うその曲は、大戦時ヒットした、往年のジャズナンバーだ。知っていたなら、ついぞタイトルを口にしていた。

「聞く?」

 ラジオと格闘していたバーバラが振り返る。

 目を伏せてただ返した。

 見届けたバーバラがラジオを手放す。これから始まるとっておきの名作を鑑賞するかのように、落ち着きどころを探って傍らへ身を沿わせた。なら互いはそれぞれ左右についた耳のようになる。聞き慣れたメロディーを体中で吸い込んだ。

 時が失せ、望むままと表の喧騒もまた遠のいてゆく。

 そうして歌声にに漂えば漂うほどだ。誰がリクエストしたのかと疑わずにおれなくなっていた。何しろおせっかいなほどとタイミングは合っている。ああその通りだ。思えば腹の底から笑いもまたこみ上げていた。

「なに、どうしたの?」

 揺れ出した肩にバーバラが、アゴを持ち上げのぞき込んでいる。

「いや、なんでもない」

「うそ、初めて見た。ばか笑いよ」

 自分でもまさか、と疑えないから事実だ。

「いい歌だからだ」

 返したところで、それが笑いと結びつかないこともまた承知している。おかげでよけいバーバラは怪訝な面持ちだ。いや、それは誤解だ。思えばこそ、ついぞ教えてメロディーを口ずさんでいた。それでもバーバラに的を射た様子はなく、じれったさにリズムを取って歌声を大きくする。押されてバーバラがついに吹き出し、どうしようもなさげに笑い始めた。

「レフ、あなたちょっとおかしいわよ」

「ああ、その通りだ。おかしくなった」

 それもこれも君のせいだ。

 言う代わりに狙い定める。無防備なその体を、くすぐってやった。こらやめなさい、と丸まり上げる笑い声は教わらずとも自分が出させたもので、そこへDJの語りは重なる。

「さてラスベガスは、午後五時。眠らないエンターテイメントの街はこれからが本番。スタジオからグッドラックを祈ってるわ。もちろんリクエストも、ノンストップで受け付け中。受け付けは……」

 瞬間、凍りついていた。

 奈落に落ちるとはこのことか。

 目は覚めて跳ね起きる。外していた時計をサイドテーブルから引っ掴んだ。早いか文字盤へ目を落とす。当然ながら針はそこでもたがわず五時を指していた。

「まァずいッ」

「今度は何?」

 バーバラが驚くのも無理はない。だが振り向いている時間さえ惜しかった。ベッドを蹴り出し、ただ告げる。

「六時の便でマッキャランから発つッ」

 やだ、と声を上げるバーバラは、空港までの距離を知っていた。次いでそっちは外よ、と投げる。冗談じゃない。足を廊下で反転させた。

 間に合わなければ、などと考える余地はなかった。むしろ遅れてしまえばどう言い訳をすればいいのか思いつかず、飛び込んだ浴室で叩きつけるようにシャワーを浴びる。タオルを拝借して部屋へ戻れば、バーバラはそこで服を広げて待っていた。

 まったくもって介護だ。手伝われて一枚、二枚、足を通す。切れのいい口調にうながされて靴下をはき、タオルで髪をかきまぜられる。その肩へ着て、とシャツは引っかけられていた。


 袖を通す。

 ピンクのオックスフォードシャツは、新品同様だ。

 カフスをとめるついでに腕時計の文字盤を確認する。病院で百々を拾ったあと向かえば、スカンジナビアイーグルスの取り調べにはちょうどと間に合う時間を指していた。いや、と思いなおす。何しろ相手は百々だ。こちらの思うとおりに運ぶとは限らない。

 昨日「ブライトシート」でひと悶着つけているさなか、かかってきたバーバラの電話は、こちらへ来ると言うものだった。直接、話したいことがある。口ぶりは深刻で、今日こそ遅れるわけにはゆかないと気を引き締める。

 なら思い出される、遅れるわけにゆかなかったあの日はさんざんで、玄関口でバーバラにこんなもの置いていかないで、と叫ばれ銃さえ取りに戻っていた。

 ともかく空港近くだったことが幸いして、車は署に返せている。だがバーバラの自宅周辺の警戒についてを言い含める時間は残っていなかった。代わりに開いたばかりの回線がある。諦めるにぎりぎりの、それが条件だった。

 しかしながらそうまでして辿り着いたハズの空港で、結局、乗った便の離陸を三分、遅らせている。理由を問われぬハズはなかった。逃げ場のない機内で、真綿で首を絞められるかのごとく弁解すれば、断念したはずの周辺警戒は百合草の口から署へ伝えられている。

 心底、いただけないのはそれから先のことだろう。噂はその瞬間よりバーブシカのことからバーバラのことへ変わった様子だ。証拠に、唯一、見舞にきていたストラヴィンスキーがどの看護師さんか、と聞いてくる始末だ。図太さに腹立ち紛れ、一番の美人だと吐き返してやれば、ああなるほどとニンマリ笑ってみせるのだから、今後一切、何があろうと、是が非でも、徹底的に、この件については話さないことを心に決めた。

 ちなみにバービーなどと勝手に愛称をつけたのも、ストラヴィンスキーだ。いつしかうつって口にしているわけだが、決して本人を呼ぶ時には使っていない。

 ワゴンは表に停めたままだった。

 いつもながらのタッチアンドゴーで自宅を後にする。

 首尾よく取り調べが終われば、多少の時間は都合できるはずだった。などとハンドルを握りながら考える一方で、ついに報復は現実のものと動き出したのだ。会わないに越したことはないとも己へ言い聞かせる。

 だがどこかで会う算段をつけていた。

 だからして着替えに立ち寄り、あの日の歌も鼻先からもれだす。



 君の待つ家へ帰れたらなぁ

 空 高くそよぐ風の元

 温もり分かつ君の元へ

 それだけで満たされるのに



 本来は、大戦下の兵士の気持ちを歌った歌だという。

 だが今なら流行ったわけがよく分かった。

 すべてを片付け、家へ帰る。

 あの日、過ったままを歌と共に繰り返す。



 たとえば凍てつく果てない夜も

 たとえば燃える真夏の太陽も

 愛する君がいて、そんな家へ帰れたら

 それ以上はもう

 この世のどこにもありはしないと思うんだ



 乾いた風はここにも吹いている。

 待っていてくれることを願っていた。

 ひどく馴染むその場所へと、

 帰りたく願うまま風をまとわせバンを走らせる。



『SO WHAT ?!』side story 2

『砂の街にて』

終劇

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