side story 2-2

「ええ。やっぱり感動するんだけど、あの映画の言わんとしていることがまだよく分からない」

「ああ」

 うなずき返せばバーバラは、なら聞いて、と話し出す。

「よく分からないのにどうして何もない、って印象だけは残ってこんなに感動してしまうのかってこと。 あれは徹頭徹尾つくりもののノンフィクションよね?  けれど物語のつくりは記録映画のようになっていて、だからありがちな起承転結の起伏も薄い感じだわ。 そう、もらったDVDを見返して、どうもそのせいで何もない、って感じてるんじゃないかって思ったの。 始まってしばらくのところ、ハンターが現れてチェブは母熊とはぐれるじゃない」

 呼びかけられて、こちらも頭の中へ「小熊のチェブ」を広げてゆく。

「それこそ物語の始まりの合図よね。だからチェブはこれからどうなってゆくのかしらって、ハラハラするわ。 けれど実際、何も起きない。チェブはそのまま大きくなって、年老いて死ぬだけ。 この辺が記録映画そのものなのよね。だから物語は冒頭のハラハラしたところで止まったきり。 結局、何も起きず、起きないから終わりもせずに、ドラマチックからほど遠いところでエンドロールが上がってゆく。 眺めてそこで初めて感じ取るのが、がっかりと言うよりどこかはぐらかされたような喪失感で」

 指で胸をつき、広げたその後、バーバラは肩をすくめた。

「から騒ぎのあとの侘しさに似てるの。手の届かないところに取り残されて、ぽっかり浮かんだような。その気持ちにいつまでもとらわれるの。ドラマチックなことは何一つ起きないからこそむしろ、寂しさが尾を引く。現実ってこんな具合よね、とも」

 口を挟む余地はなかった。

「そんな作品なのに退屈しないのは映像のせい。とても綺麗で吸い込まれる。ほんと、そんなに見せつけておいてただ終わってしまうだけなんて、罪つくりよね」

 追いかける話はおおむね同意できるもので、だからしてあいだ先を促し何度もうなずき返す。

「けれどそこではちゃんと何かが起きてるはずだと思うの。表面的なものにこれほど惹きつけられるとは思えない。わたしは作品にこめられたメッセージをしっかり受け取ってる。まだ言葉にできないだけ。けど必ず、ね」

 言い切って最後、微笑んだ。その鼻先があなたはどう思うか、と尋ねている。なら話題は確かに誰かれ話せないマニアックなものだと思えていた。ゆえに選ばれたのなら、としばし口を結んで返す言葉を手繰り寄せる。おかげで手元がおろそかになったなら、ジョーイの物欲しげな目と目は合っていた。急かされているようでひとまずボールを投げてやる。追いかけジョーイは走り出し、眺めていればそこへ、ベガスビッグビューイングのバックヤードで見た監督は、自分しか知り得ないスタンリー・ブラックの姿は、静かに立ち上っていった。

「そうだな、あの映画にはもうひとつ、花と言うモチーフもあったろう」

 バーバラの話から抜け落ちていた部分を指摘する。

「ああ、そうね。母熊とはぐれた、そこに咲いてた白い花ね。大人になってもチェブは何度もその場所を訪れるし、気になるみたい。ほかの場所で咲いていても興味を示すわ。そんなチェブと花のショットがまた幻想的で記憶に残るのだけど」

「それは母熊への愛着の象徴だ、という解釈が一般的らしいな」

「ええ。そのためのアイコンだって。だから何度も出てくる。確かに、出てくる度に見ていてこちらもそう連想してしまう。淡々と過ぎてゆく物語の中に、いつか起きるだろう母熊との再会を、見合うだけの何かを期待してしまう」

「だが、そんな奇跡こそ起きはしない。何もない。気持ちのカラクリは、その辺りにもあるんじゃないか?」

 ええ、とうなずく麦わらの広いつばが揺れていた。

「最後まで登場しない母熊は、きっとハンターに仕留められてる。でも本当にそうなのかしら。だったらあの映画はただそれだけの、言うまでもない物語になってしまう。こんなに何を、あたしは気にしているのかしら」

 砂漠に立ちあがったスタンリー・ブラックは、いつからかそこでジョーイと戯れていた。興行に疲れた彼にはそれがちょうどのバカンスだと思えてならず、おかげでジョーイはおさまりの悪い緑の塊といつまでも跳ねまわり、しばらくの間はこちら戻ってきそうにない。

「ならたとえば、だ。ドラマチックな展開の欠落を感じさせることこそ監督の狙いだった、と考えてみるのはどうだ?」

 投げかけた。

 確かに何かが起きて当然の物語の中、それはあまりに乱暴な解釈だと思えてならない。だが当然の構成が破られていようとも作品は作品として成立しているならそれは欠損でなく、おそらく意図的に仕組まれたものだと考えた方が辻褄が合いそうだった。そして作品は、その企みを裏付けるかのようにあくまでも現実的な構えを崩していない。

「それ、どういうこと?」

 提案にバーバラは振り返っている。

「チェブと母熊の再会はあり得ない。伝えるために俺たちは期待させられた。そう言う見方だ。そう感じるよう作られているからこそ、鮮烈と無が残る」

 などと言ってなるほどそうかと、自分自身、閃いてもいた。

 作品を貫くテーマは「喪失」なのではなかろうか。

 当てはめてみる。

 ならそれはチェブを通して擦り込まれる「愛着」にほかならならず、あの一件でスタンリー・ブラックがテロを起こしてまで取り戻そうとした「愛着」が思い起こされてならなくなる。そう、その時すでにスタンリー・ブラックは、自身の映画に対する愛着を失っていた。いやもっと具体的に示すなら、そこへかける情熱そのものだとすれば。

 口ごもったせいでバーバラが、どうしたの? と問い返している。

「感じた通りで間違いない」

 伝えて急ぎ口を開いていた。

「何もない。作品のテーマは喪失だ。選んだ監督こそ母熊に匹敵する愛着、大事な何かをなくしていた。その個人的な事情を作品として成立させるべく、誰にでも共感できる普遍的な、だからこそ抽象的なかたちでフィルムへおさめた」

 耳へ、ベガスビックビューイングでのあの叫びは蘇る。それは監督が信じ足を踏み入れた世界からのしっぺ返しに違いなく、そこにふいと、バーバラ同様のめり込むほどと得てやまなかった共感の欠片を自身にも感じ取ってみた。

 自身もまた最善だと、あの日、入隊を決めたはずだった。

 だが結果はそぐわず、痛手を食らう。

 振り返ったスタンリー・ブラックが、そこから緩やかに微笑みかけていた。

 ボールはそのときジョーイの口へおさまると、くわえたジョーイが身を翻す。

「映画の通りだ」

 聞き入るバーバラの目から瞬きは消えていた。

「抱いたドラマチックな期待も、感動の再会も」

 見すえて語ればいつからか、この問答が己の出口を指し示し始めていることに気づかされる。

「現実は期待通りにならず、つじつまが合っているからこそ残酷なほど淡泊だ」

 だからして映画の話にかこつけたとしても、言えるなどと思ってもいなかったそれは言葉だろう。つまりスタンリー・ブラックの情熱も、バーブシカも、で間違いないと思う。

「失えば二度と戻って来ない。終わればそれきりだ。二度と戻ってくることはない」

 やがてジョーイは足元へまとわりつき、頭をもたせいかけてくる。甘えさせて撫でつけたなら、こりこりした薄い頭皮の茶色い巻き毛が手に心地よかった。そこへ溶け行くものの感触を今一度、胸の奥でも転がしてみる。

「映画はそれがどういうことかを教えているのだと思う。 そしてそれを知るからこそ、傷つくままにこうも気にかかった。受けた感銘の、それが正体だと思う」

 言い切ったところで確信は揺らがない。

 むしろ吐き出せたことにほっ、としてみる。

 だからして思い起こせば起こすどナンセンスでならない百々はあの時、笑い飛ばせとピエロを演じた。それほどまでに、あのとき己は戻らないものにしがみついていた。

 と、バーバラが顔を伏せる。大きすぎるむぎわら帽のつばは表情を隠し、今一度、振り上げてなにをや反論しようと、のぞき込むような目を向けた。だが視線はすぐにも背後へ流れる。ただグリルへ向かっていやだ、とこぼしてみせた。

「散らかったまま。私、片付けてくるわ」

 立ち上がる様に迷いはない。それきり傍らから離れてゆく。

 ついぞ見送ったのは、明らかに中断された会話の意味がわからなかったせいだ。やがて、何かまずいことを言ったらしいと気づかされる。つまり一人にさせてくれと言うのなら、弁解も謝罪も許されてないらしいことを知らされていた。

 発言には、そんなつもりこそなかったはずだ。己のことにかまけ過ぎたか。しでかした失敗にまいったな、とただ思う。

 ひねり過ぎた体のせいで前へ向きなおるに声はもれた。息を弾ませ、次を待つジョーイとそこで顔を見合わせる。追いかけることができないなら、とその口の中からボールを再び抜き取った。お前もしばらくそっちで遊んでいろ。唱えて地平の彼方へただ手を振り下ろす。


 さかいに歯車は回っても軋んで妙な音を立てた。

 ままに、まだ真昼のように明るい午後五時。混み合うメインストリートの手前、渡れば泊るホテルの前でバンはブレーキを踏む。

「お疲れ様、到着よ」

 声は装い、助手席は始終、ジョーイのものだった。ゆえにあてがわれた後部座席から降り、ジョーイ越しに御馳走になった礼を伝える。

「あと、何か気に障ることを言ったらしい。謝る。知らなかった。悪意はない。忘れてくれ」

 聞いてバーバラが投げる笑みには、ため息が混じっていた。隠さず伝えて、そうじゃないのと断ってみせる。

「せっかくだったのに、ごめんなさい。あなたは悪くない。あなたこそ気にしないで。いろいろ、ね。でも今日は本当に楽しかったし、これで私のドジも帳消しよ。ジョーイもたくさん遊んでもらえて大喜びしてるわ」

 ジョーイ、さようならして。言う様はまくし立てるがごとくで、明らかにバーバラは別れを急いていた。なら交わす言葉はもうなく、ジョーイの頭を撫でつける。返す踵でバンを離れた。

 去りぎわバーバラは手を振っていたようだ。だが確かめ振り返った時にはもう、逸らされた顔こそ見えなくなっていた。やはり早く離れた方がよさそうだと思う。ホテルまでをただ急いだ。

 メイヤードから移動したビジネス用の簡素なそこはロビーからして色味が重く、 部屋へ戻ればなおのこと総出で出迎え失態をはやし立てる。余計なお世話だ。払ってキーをテーブルへと投げた。

 端末の着信を確かめる。資料のファイルが数点、転送されていた。すぐ目を通す気になれなかったなら、その足で浴室へ向かう。埃まみれだ。何より流し去ることが先決だとシャワーを浴びる。

 だがさっぱりしたところでたかが気休めは、残るしこりだけをより明確とさせていた。内勤が続いたせいで体がなまったか。覚えた疲れにベッドの端へ腰を下ろす。窓はその傍らにひとつ、あるだけだ。

 目を向ける。

 通りの向こうにはまだバーバラのバンが停まてっいた。

 謝っておいたが言葉は足りたろうか。

 思い返しかけたところで視線を剥ぐ。それこそ余計なお世話で違いなく、考える時間があるなら資料を頭の中へ叩き込んでおくべきだと目を端末へ向けなおす。開いたファイルは都合よく、ずいぶん分量があるらしい。たちどころに目は並ぶ文字を追うと動き出していた。

 冒頭、スタンリー・ブラックが会場で使用しようとした爆発物の分析結果に、入手経路の捜査状況。渡会からは一斉蜂起が阻止されたことを知った七人の様子についてや、そんな彼らの押収物、その分析結果もまた報告されていた。だが組織の全体は想像通り何の形を成すでもなくただのっぺりと大きく、互いの接点すら見つかっていない。おそらく全体を解明するには捜査はまだ半分も進んでいないのだろう。資料はそこでついえ、余計事は回り始めた思考の中で記憶の一部と書き添えられるにおさまる。

 キャンプ場から何も口にしていない。落ち着きを取り戻した喉に渇きを覚えて、買い置きしていたインスタントのコーヒーをカップにあけた。湯を注ぎ、たずさえベッド際へ戻る。

 窓の外はさすがにもう赤い。眺めながら一口、二口、熱いそれをすすり上げた。

 が三口目に、手は止まる。

 あろうことか、それはまだ同じ場所に見えていた。

 バーバラのバンだ。角度もそのままと路肩にある。

 咄嗟に時計を見上げていた。壁掛けの針は七時。あれからもう、二時間経っている。なぜだ、と思うのは、言ってしまえばこちらの失言でとっとと帰ってこそ、二時間も粘る理由が思い当たらないせいで間違いない。

 なにかあった。

 思うしかなかった。

 それが車のトラブルなのか。とれとも事件性を帯びたものなのか。もしかすると中に本人が乗っていないだけなのか。 ホテルの窓から見下ろすだけでは分かるはずもなく、分からないからこそサイドボードへカップを戻す。

 周辺に、警官の姿はない。

 間際まで、バンが動き出さないことを確認していた。

 きびすを返し、部屋を飛び出す。ホテルを後にし、早足と通りを渡った。だが近づこうとも、ちょうどと夕日を反射させたバンのフロントガラスは中が見通せない。目を細めたその時、やおらジョーイが窓から顔を出した。見つけて知らせるように吠えるジョーイの鳴き声はどこかおかしく、そこでようやくフロントガラスも透けて中を晒す。やはりというべきか、ハンドルへ伏せたバーバラの頭にからきし動く様子はなかった。

 どうなっている。

 吐き捨てる。

 燃料にして残る距離を一気に詰めた。

 まだ体が思い通りになっていないせいだ。たどり着く頃には息が切れ、詰めたり吸ったり、持て余しながらバンの運転席へ回り込む。ざっと車内へ目を通していった。同乗者はいない。荷物も自分が積み込んだままだ。分かったところで窓をノックした。

「おい、バーバラ。おい」

 聞こえたらしい。わずかにバーバラの頭が動く。

「おい」

 やがてハンドルと腕の隙間から目はのぞいた。知った人間だと気づいたらしい。再び伏せると腕へ顔をこすりつける。つまり泣いていたらしい。

「どうした? 窓を下げろ。それともジョーイの方へ回っていいか?」

 矢継ぎ早と問いかけたなら、答えようとバーバラが体を持ち上げていった。だがいかんせん動きは緩慢だ。待っておれず助手席へ回り込む。見て取りバーバラも尻を叩いてジョーイを後部座席へ追いやった。見通しのよくなった助手席のドアを、ひと思いに引き開ける。

「レフ、レフっ! 落ち着いて。私は大丈夫。別に何かあったわけじゃないから」

 迎え撃つかのごとくバーバラに浴びせられていた。

「どうした。あれからもう二時間も経ってるぞ。帰ったんじゃなかったのか?」

 なら涙目でバーバラは、濡れた頬をむくませおどけたように肩をすくめる。

「帰りたいのはやまやまなんだけど、涙が止まらないだけ。帰ろうと思ってもよく前が見えないの。危なくて運転なんて出来ないわ」

 言い分に勢いは削がれていた。

「あれから、ずっと、なのか?」

「だって、急に泣きだしたりしたらあなた、困るだろうと思って我慢してたから。 おさまったら帰る。もう、おさまるから。だからそんなに恐い顔しないで。落ち着いて。でないと怖くて、また泣けてきそう」

 などとバーバラは、かろうじて冗談を言っているつもりらしい。

 つまり自分の発言のせいか。前において唖然としていた。ならよけいに、だった。これ以上、道端で泣かれ続けるなど、かなわない。無理矢理、車を走らせて事故を起こされるのもまただった。

「代われ、送る」

 外を指し示しアゴを振る。

 だが口を結んだきりのバーバラは、答えようとしない。

「無理だろう」

 突きつけたなら、ようやく観念したようだ。うなずき返してバンを降りた。助手席へ回り込むバーバラと入れ違いでハンドルを握る。

「でもどうして?」

 なぜわかったのかが知りたいらしい。

「部屋の窓からよく見える」

 キーを捻り、後方の他車を確かめた。その肩口からジョーイは顔をのぞかせ、バーバラはすぼめた口で行く先を告げる。

「タイハンで別れた時、私の曲がった角、覚えてる?」

 やはりそうか、とひとりごちていた。それだけで目星はつき、アクセルを踏み込む。

「あそこをまっすぐ。ポーチにキリンの立っている家の隣が、そう」

 ひとまずバンをホテル前の通りに合流させ、次の角で住宅地へと脇道へ逸れた。

「迷惑かけると思ったから、見られたくなかったのに」

 言うが返事はしてやらない。だいたい次にしくじれば死なれそうで冗談ではなかった。だというのにバーバラは、わけは、とその先を続けたがる。おかげで声は高くなっていた。

「その話は俺じゃなく親しい友人にしろ。そのためにも送る。ひどく傷つけた。それは謝る。俺がかかわれるのは、そこまでだ」

 だがバーバラは、そんなの無理よ、と聞き入れない。

「同僚に話せば信用をなくす。友達も家族も、分かってくれる人ほどきっと傷つくわ。今の関係を壊したくないの。それにあなたのせいじゃない。違うのよ」

 できる限り早く始末をつけたいというのに、こんな時に限って二ブロック進んだところで赤信号だ。 バンはアイドリングと小刻みに震え、遊び疲れたせいか、揺られてジョーイは後部座席で眠りの態勢をとり始めていた。

「レフ、愛着を失くした。それがどういうことかを表わした映画だってあなた、チェブのこと言ったわよね。知っているからこそ、そんな映画に傷つけられた。それがこうも気になる感動の理由だって。聞いて私、ひどく動揺したわ」

 言うバーバラには蒸し返されているようで、落ち着けない。だが手綱を緩めずバーバラは先を続ける。

「だって、その通りなんだもの。言われて、目の前が開けた感じ。そうしたら昨日のことみたいに記憶がよみがえって。なら急に涙もこみ上げて来て」

 何を言い出すつもりか。振り返りかけたその時、信号は青へ変わり、早くケリをつけたいからこそ急ぎギアを入れ替えた。ただアクセルを踏みつける。走り出したバンの中、隣りでもちろんあなたは、とバーバラは言っていた。

「映画の話をしただけ。分かってる。あたしのことを言ってるんじゃないって、頭では分かってるわ。でも気持ちは別で。やっぱり、やり直せないんだって。看護師になっても、どんなに病院でがんばっても、映画が教える通り奇跡なんか起きないんだって。なんだかもう逃げ場がなくなって。受け入れられなかったから、きっとちゃんと見ることもしていなかった。避けていただけが一度に押し寄せてきて」

 慌てて左右、頬を拭う仕草が視界の端に映り込む。様子は堪えるというより格闘しているに等しく、やがてバーバラは持ち上げた顔でフロントガラスを見据えてみせた。

「それがレジーの運命だった。これっぽっちがわたしには、まだ飲み込めないのよ」

 怒りさえ感じさせるそれは口調だった。

 聞けばレジーは、バーバラの三つはなれた兄のことらしい。バーバラが六つだった頃、悪性の腫瘍を患い、闘病を余儀なくされたようだった。治療は半年に及んだが、結果は伴わず、最期は家族が見守る中で息を引き取ったと言う。その時、自分が何ひとつ役に立てなかったことが心の中に強く残っている、とバーバラは話した。レジーが助からなかったのはそのせいではないかそのとき抱いた罪の意識は、今でも拭えずあるらしい。従事する看護師の姿が目に焼きついたのもそのせいで、憧れと目指すところになったのだとも明かして言った。

 病室の人気者はつまり、罪がかぶせた仮面だった。

 キリンの立つポーチは、角を曲がってすぐにも目についている。子供がいるのだろう。滑り台のデザインがそうだった。

 隣り合うバーバラの家の前でバンを停める。

 話はその後もしばらく続き、おかげでしでかした失態への罪悪感はいつからか消えていた。ただ代わる思いが胸中を巡り始める。

 たとえば看護師になったという罪滅ぼしのような日常にも、代わる命を救うことでやり直そうとする行為にも、身に覚えはあった。共感するには条件が必要で、そろい踏みした誰もがよく似た構図を抱いている。もう手に入りはしないと知るからこそ、忘れ難き影は形はそれぞれにとって切実なものとまといつく。

 果てにスタンリー・ブラックはそれが手を離れて幻のようにぽっかり浮かんでいることを知り、取り戻せないその狭間で狂気に走った。笑い飛ばせと枕を投げられた自分は不条理にそのきっかけを失い、チェブは浮かんでいることを知らぬまま死んで、今、明らかに意識したバーバラは受け入れかねて泣いている。

 外から見れば取るに足りない、ありがちですらある構図だろう。だが内から見れば壁は厚く、先はまるで見通せない。閉じ込められた感覚が必要とする誰かさえ遠ざけると、なお事態を深刻と歪めてゆく。

 そんなバーバラが最後と決めたように頬の涙を拭っていた。

「だからあなたのせいじゃないの。あたしが一人で騒いでるだけ。けど聞いてくれて助かった。やっと止まったみたい」

 つまり出てこい、と笑わせるのが一番だとして、天性の百々はそのハウツーを残していない。初心者に手探りでやれる自信はなく、とばっちりだと一蹴する資格こそほとほと持ち合わせていなかった。誰にも話せないというのなら、だ。せめて連絡先だけでも教えておくことにする。

「落ち着いたらでいい、電話しろ。気が向かないならあえてとは言わない。あのホテルの七一五号にいる。夜はたいがい部屋だ」

 分かったと聞き入れて、バーバラはアゴを引いてうなずいた。

「ありがとう。きっとそうする」

 と、背後から妙な音は聞こえてくる。振り返っそこで目にしたのは大口を開けたジョーイの顔だ。犬も寝言を言うらしい。ひんひん鳴いて、何事かをつぶやいている。

 まったくこんなときに大将は呑気が過ぎる。思わずにはおれず、あっけにとられた目はそのとき、同じく後部座席をのぞき込んでいたバーバラと合っていた。つまりジョーイの方が一枚、上手ということらしい。互いはそこで、思わず小さく笑い合う。


 ドアが閉まるまでを見届けてから、数日後だ。約束通りバーバラから電話はあった。迷惑をかけたと詫びる口調はそれまでと変わりがなく、おかげで仕事に対する意識が少し変わらざるを得なくなったことを話した。だが今の方がましだ、ともつけ加えて言う。でなかった以前は病室の誰かが亡くなるたび、同じようにひどく動揺していたらしかった。隠して勤めるのにずいぶん苦労したのだ、とも愚痴ってみせる。とはいえ、取り返せないものを相手に努力を続けることは難しいはずだと思えてならない。だがバーバラはそれもまた探しながら妥協点を考える、と言ってみせていた。

 それがいい、と腰を下ろしたベッドの上で聞く。切り変えの早さに芯の強さもまた感じ取った。

「時々、あなたにこうして話せたら助かる。ああ、もちろんこんな話、以外でもよ。気兼ねしないって言ったら、あつかましいわよね。でもそれが本当だから不思議。最初、なんて非常識で子供みたいな人だろうって呆れてたのに。私の方がずいぶん子供みたいだわ」

 それは少なからず他人事ではないせいで、おおむね二週間前の話はもう遠い昔だ。

「誰でも撃たれた後は動揺する。そのせいだ」

 と、電話口でバーバラは声の調子を跳ね上げていた。

「うそ。言っておくけど、大人しくしていたらお尻じゃなくて腕に打てたのよ、注射」

 口ぶりは勝ち誇ったようで、あのとき向けられた笑みが脳裏へ蘇る。だが人がしんどい時に一体なにをしやがるんだ、思った一部始終こそ譲れはしなかった。

「どっちだろうと変わらない。あれはただの拷問だ」

「何よそれ。れっきとした医療行為ですから。失礼するわ」

「どちらが、めくられて失礼されたのは、こっちの方だ」

 言えばバーバラの笑い声は耳に届く。

「友達にね」

 残る声で切り出していた。

「このあいだ他愛もないことを言われただけなのに、ものすごく動揺したって話したわ。そうしたら、なにそれ恋愛相談? って聞き返された」

 引き合いに出された言葉は突拍子もなかったが、それはそれは、と聞き流せる。

「気にもとめない相手の話は、そんな風には響かないものだって」

 そこでバーバラの笑いは途切れていた。

「面倒でなければ電話じゃなくて、また会って話がしたいのだけれど」

 単純にそれがいいと思えてならない。ああ、とだけ答えて返す。よかった、ともらすバーバラもまたその続きのようで、なら、と携帯電話の番号を教えてよこした。明日の夜、カジノのメインストリート、ストリップで食事はどうかと提案してみせる。残念ながらこちらはオフィスの端末しか持ち合わせておらず、その番号を教えて会話を筒抜けにする気こそないなら、間違いなく辿りつける時間と場所をバーバラへ告げた。

 通話が切れる。

 受話器はもうただの受話器だ。

 何も喋ることはない。

 しばし眺めて元へと戻した。


 翌夕、二人で街を歩く。

 気に入った店を見つけ食事を取った。

 白衣に合わせてひっ詰めたきりの髪をほどいたバーバラは、ようやく見慣れた色つきの服に、また違う色を重ねている。そこに己のこれまでを重ね合わせたなら、他人だが他人とは違うその吸引力が肩の力を抜かせていた。おかげで悩み疲れたチェブはバカンスへ出かけ、もう偶然を当てにする必要はなくなり、瞬きをしない監視員のようなキリンの元でまた、と別れる。

 あれから三週間だ。

 時に忘れて胸は、深く息を吸い込むことがあった。

 身軽なのは癒えつつある傷のせいだけでなく、下ろした荷のせいもあるだろうと思えてならない。くわえて思いにもよらぬ出会いが加速をつけていた。

 ここでの捜査はあと半月はかたい。スタンリー・ブラックから自供の取れなくなった今、一か月といっても余りそうだった。帰るまでに考えておくことはありそうだと思う。

 だがそれは真似たような身軽さだ。翌日、一報は舞い込んでくる。声明文は己の映る写真と共に堂々、ラスベガスの署へ送り付けられていた。

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