side story 2-1  砂の街にて

END ROLLまで読了者様向け



 オフィスから歩いて通えなくもない自宅の貸家は、純和風の3LDKである。その一角、こうして頭を突っ込む押入れは、今や突っ張り棒がかまされたクローゼットと化していた。

 洗濯がまるで間に合っていない。買い足し続けたせいで売り場のごとく白のワイシャツが並んでいる。しかしながら身につけるのはせいぜい手前の数枚だけで、何がどうなっているのか奥にはまるで覚えがない。だからして確か、とレフ・アーベンは記憶を辿った。袖を通したのは病院からホテルまでの一回きりで、持ち帰ってすぐクリーニングへ出すとここへ吊るしたはずだと思い起こす。

 ならそれは日々のローテーションに追いやられた奥の奥から見つけ出されていた。淡いながらもピンクのオックスフォードシャツは、暗い中でひときわ異質とその目に映る。あった、と急ぎ掴み出していた。

 気に入っている。

 言わずとも袖を通せば伝わるだろう。ただ厄介なのはその色目だ。眉をひそめて今一度、眺め回し意を決する。

 そもそも嵐の中では前さえ見えず、シェルターなんて気の利いたものこそありはしない。ゆえに通り過ぎるまで、互いは互いに掴まりその場をしのぐほかなかった。たとえばそれは離さない、と約束させるための意地悪い嵐だったとして、時に人生にはそんな風が吹きつけることがあるらしい。

 試されていると思う時こそ、意地を張ってはだめ。自分に素直になりなさい。

 在りし日のバーブシカが繰り返していた、それも言葉のひとつだ。


「これで講座は終了です。ご購入の御案内はこちらに。ここはあと三十分ほど自由にできます。楽器を触りたい方はその間に思う存分どうぞ。質問のある方は私へ遠慮なく。でない方はお疲れ様でした。素敵な音楽と、よい週末を」

 結局、参加したカルチャーセンターのテルミン無料体験講座は演奏を体験するよりも、テルミンの小型版、マトリョーミンという新しい楽器の、これはマトリョーシカの中にパーツを納めた持ち運び可能な組み立て式テルミンだ、セールスを目的としたものらしかった。

 テーブルと椅子が一体になっているせいで、体勢は座ったきりと融通が利かない。物足りない講座に加えて狭苦しく、無料なのだからこんなところか、諦めレフ・アーベンは遠慮気味に息を吐いた。

 銃弾を食らったあの日から早くも十日あまりが経とうとしている。折れた骨に違和感は拭えなかったが、どうやら死神には愛想をつかされたようで、晴れて退院した今、こうしてラスベガス、その居住区にあるカルチャーセンターを訪れていた。

 つまり日頃をよく知る人物ならその時間をどう捻出したのか、と首をひねることだろう。確かに誰もが事実確認に昼夜なく奔走している最中でもある。しかしながらチーフ百合草に与えられた指示といえば、判をついたような日中八時間のデスクワークのみだった。これをよきにとれば体調を考慮して、だろうが実際はフライングとなった確保時に対する謹慎で間違いない。おかげで時間は潰しきれないほども余って、慣れない行動に期待外れを食らってみる。

 果たしてマトリョーミンたるものは、売れるのか。

 講座の最初に配られた冊子は数ページと薄い。向けて手を伸ばし、文字を辿るべく視線を落としかけたところで感じる何かに動きを止めた。

 廊下側、並ぶガラス窓の向こう側だ。そこにバーバラ・ウィンストンの姿はある。やっと気づいたといわんばかり手を振るバーバラはロビーを指して頭を傾け、握ったり開いたり、顔の横で手を振ったかと思えばきびすを返した。

 早いな、と思う。見送り正面へ向きなおれば、そこで受講生に囲まれたマトリョーミンは早くも取り合いと大人気だ。だがため息を吐き出したところなら加わるだけの興味はわいてこず、何より用件はバーバラを待たせておくに気の引ける内容でもあった。

 ちょうどだ。いい加減愛想の尽きた椅子から尻を持ち上げることにする。荷物はそれしかない。足元に置いていた紙袋を掴み上げた。胸のコルセットのせいか動作はいちいちおっくうでならず、申し訳なくも冊子はそこに残してゆくことにする。挨拶する相手などいない。教室を後にした。

 センター内、講座は他にも開かれると、終えて吐き出されてくる生徒が今や廊下に賑やかと声を響かせている。

 午後九時。

 紛れて歩けば受け付け前だ。置かれたソファに腰かけ待つバーバラの姿を見つけていた。

 白衣と違い、やはり色つきの服が見慣れない。何が入っているのか、たすき掛けにしたままでヒザへ乗せたカバンはやけに大きく、その横顔はニコリともせず前の自動販売機を見つめていた。つまり余計なことを言ったのか。考えたところで今さらどうすることもできやしない。わずか重くなった気分を入れ替える。

 と何の脈絡もなくバーバラが振り返った。様子は先ほどの自分を連想させるようでならず、病院で幾度も目にした笑みはようやくそこへと浮かぶ。立ち上がれば歩み寄ってくる足取りこそ早く、行き交う人を避けて互いはロビーの隅で向かい合った。

「ほんと、ここを聞いておいて大正解。急患もなし。時間とおりに仕事は終了よ。きっと病人をよこすな、ってナイチンゲールのおぼしめしね」

 開口一番、まくし立てるバーバラのあけすけな口調は、病室と何ら変わらない。だからして知ったのは、ときに患者の間で話題になる人気者だということだった。その人気者との約束は本来、講座が終わったその後、自分が病院へ立ち寄るというもので、おかげで言葉もこう出る。

「病人は夜、出歩かない。もう病人じゃなくなった。だいたいこれはついででいいような用事だ。わざわざ来るほどのことじゃない」

「あら、あなたはまだ病人です。言ったでしょ。本当はじっとしていた方が治りは早いって。けど無理な性分みたいだから。そうね、今ここでわたしとかけっこしてみる? 自分の言っていることがイヤってほどわかるはずだわ」

 いさめるバーバラに淀みはなかった。さあ、どうするのか。挑発的な視線さえ投げてすぐにも冗談よ、と笑ってみせる。

「わたしが呼んだから途中で抜け出してきたんじゃない? 向こう、よかったのかしら?」

 後にして来た教室の方をのぞき込むと確かめた。

「ちょうど終わったところだ。かまわない」

 おかげで本題へはすぐにも取かかれそうで、握り続けていた紙袋を互いの間へ持ち上げてやる。

「これだ。中に言っていたやつが入っている」

 とたん縮みあがったバーバラは、その目を大げさなほど見開いていった。

「ありがとう。嬉しいっ!」

 受け取った紙袋をたちどころに開く。何、遠慮することなく中へ手を差し入れ、やおらその動きを止めてもみせた。

「でもお見舞いの品だって。本当にもらっていいのかしら?」

 つまり中に入っているのは「小熊のチェブ」のDVDだ。ストラヴィンスキーが退屈しのぎにと、置いていったものだった。

 それは退院した翌日である。

 退院時、二十四時間心電図というものを貼られ、ポータブル音楽プレイヤーのような機器を首から下げていたなら、そこに納められたデータごと機材を返しに翌日、ふたたび病院を訪れていた。そのさい装置の回収を担当したのはバーバラで、そこで「小熊のチェブ」をもう一度、見ようとレンタル店へ向かったことを、だがもうDVDはラインナップから削除されており再入荷の予定すらないことを聞かされていた。

 良さが分かっていない。二枚あってもいいくらいなのに。思わない? そうね、レンタルしようとした自分がケチだったわ。気に入っているんなら保存版と視聴用よ。二枚、買う。明日にでも探しに行くわ。

 話すさまは相当で、おかげで一枚、手元で余っていることを気づかされていた。

 譲る。

 ついぞ言っていた。

「どうせ家に同じものがある。二枚あっても見る方は一人だ。持っていても仕方がない」

「そうね。だったら遠慮なくいただくことにする。同僚さんによろしく伝えておいて。擦り切れるほど見るだろうけど、大事にするからって」

 なるほどうまいこと言うなと聞けば、バーバラの手は紙袋からDVDを取り出していった。

「そうそう、これよ、これ」

 パッケージの裏表を眺める顔は、ご満悦そのものだ。おそらく伝言が届くことはないだろうが、その顔へかたちだけでもわかった、とうなずき返すことにする。

 ひととおり眺め終えてバーバラは、やがてDVDをカバンの底へ仕舞いこんでいった。

 見とどけたなら用はすんだ、と思う。

 じゃあ。

 踵を返しかけたところで、押し止まった。

 何しろ素振りはまるきり面倒ごとが片付いた、と言わんばかりでいただけない。こういう場合は、と急ぎ踏み止まり、そつない話の一つや二つ投げてワンクッションおくものだろうと装いかける。だがそれこそ慣れた芸当でなく、察したようにそうね、と口を開いて間をつないだのはバーバラの方だった。

「もらう物だけもらってさようなら、じゃあんまり。あたしはこの後、一人で夕食をかきこむだけなの。あなたは?」

 肩をすくめてみせる。

 単身ここへ来ていることは入院時に知られた話だ。だが近くに美味しいチャイニーズがあるの、と言うバーバラへは果たして好みの話をしたろうかとうがる。判然とせず、しかしながら境遇は似たようなもので、今、不測の事態に振り回される立場でこそなかった。

 カルチャーセンターのロビーはいつしか、残っている方がワケありな様子だ。回した手で何気に財布があることを確かめる。同じだ、と答えて返せばバーバラはこっちよ、と誘ってこともなさげにまた別の話題を投げていた。


 言うとおりだ。店は遠くない。ただし気遣うバーバラはゆったり歩くと、「タイハン」と看板をあげた店へ十五分もかけて辿り着いていた。

 漂う中華油の匂いが香ばしい。詰める客に並んだ家具がアジアも裏通りを連想させて止まなかった。取り囲んで渦巻く装飾もまた良くも悪くも怪しげだったが、もろともせずにバーバラはその中を奥へ奥へと進んでゆく。空いているテーブルを見つけてすぐさま上げた手で呼び寄せた。

 落ち着かないけど、シェフは最近こっちへ来た中国人だから間違いないの。話す口調は自慢げにさえ聞こえて仕方ない。

 やがて運ばれてきた料理は実際、その通りとどれもが美味かった。店が店なら気取る必要こそありはしない。久方ぶりの味に手は止まらず、その七割を自分が、残り三割をバーバラが腹へおさめる。埋め合わせて五分にするように、あいだ七割をバーバラが、残り三割を自分が話した。

 そんなバーバラの態度は病室と変わらない。どれほど親しげな素振りをみせたところで距離は初対面の時を保つと、馴れ馴れしくこそしてこなかった。現に七割を埋めた話題も好きな映画に、病院での面白おかしな出来事と、話す相手を選ばぬような内容ばかりだ。違う話題があったとすれば一度だけ、撃たれて運ばれてきた職務についてを問いかけたことくらいだろう。だがそこれこそ語れる類でないならはぐらかし、はぐらかされたバーバラも深追いしてくることはなかった。それでいて変えない態度に安堵する。おかげ仕事を忘れることは出来ていた。

 時間に気づかされたのは、見える顔ぶれも様変わりして減った客のせいだ。見回し覚えた気だるさはといえば、満腹と慣れない長話に疲れたからだろう。

 龍が巻き付く時計はもう十一時過ぎを指している。閉店が近いらしい。店員の動きも客や厨房から離れがちとなっていた。様子に顔を見合わせたのはどちらから、というわけでもない。合図に互いは席を立つ。

 そうして最後、聞かされたのは、あろうことかバーバラの悲鳴だった。

「ロッカーよ。私ってバカ。中の棚に置いたところまでは覚えてるの。後で入れようと思っていたのに、忘れてきてる」

 支払いを済ませようと立ったレジ前で、バーバラはカバンをまさぐり万策尽きたようにうなだれていた。

「かまわない。俺が払っておく。最初からそのつもりだ。なくしたんじゃないと分かっているなら、たいしたことじゃないだろう」

 すぐにも財布のことだと分かっただけに驚かせる。そう思ったことは否めない。

「でも案内するって言ったのはわたしよ。チェブも、もらったところなのに」

「それは同僚からのおごりだ。気にするな」

 同様に驚かされたせいだ。向かいで店員も浮かべた笑みをぎこちなくさせていた。手へ、自分のカードを握らせる。

「こういう時はせめて割り勘だわ。ああ、もう、何してるんだろう。顔から火が出そう。いえ、出た。もう出てる!」

 以後も続く罵倒はよくそれだけ出てくるな、と思うほどで、聞かされつつすませたサインは書き損じそうで危なかった。もう済んだ、忘れろ。言ってバーバラを店の外へと押し出す。

 そこに街並みは間違いなく、ベガスのそれと広がっていた。だが居住区だ。華美で過剰なネオンはなく、人の気配すら途切れがちと息をひそめている。通りへ出ればタクシーがつかまるはずだ。バーバラを促していた。

「けど乗るほどの距離じゃないの」

 言われて送る、と返す。だがどっちだ、と聞いたところで初めて会話に間はあいていた。

「……それは、ちょっと困る」

 笑いに紛らせ明かすバーバラのわけは、こうだ。

「お巡りさんだから信用していいと思うのだけれど。信用するから明かせば私、一人暮らしなの。だからどこに住んでいるのかを知られるのは……、ちょっと落ち着かないわ」

 ああ、と思えば、動きも止まっていた。なぜならその男につく形容詞はおそらく「知らない」が妥当で、確かに尻に腹も見られて飯も一緒に食べたが、それもこれもたまたま担ぎ込まれただけの、同じ映画に興味を持っただけのことだった。物騒な案件も絡んでいない自分にある信用といえばその辺りが限界で、むしろ印象の大半は人に撃たれて運ばれてくるような、人に言えない仕事を持つ怪しげな男となる。

 社交辞令との区別がつかないわけじゃない。

 いや、だから当たり障りのない会話は続いていたのか。

 じゃあここで。

 言わんばかりにバーバラが隣りから身をひるがえしていた。

「ミスターアーベン、心電図の検査結果は明日の午後二時。一階、外来第五診察室のドクター、マクダナルよ。十分前には待合まで来ていて」

 後じさり、そこから呼びつける名でここを病室へ変えてみせる。ならここを別れる場所と決めるしかなく、止めた足で大丈夫だ、とうなずき返した。

 とふいに、そうねとバーバラは空を仰ぐ。

「ナースの所見だけど心配しなくていい。仕事を抜けて出してくるなら散歩だと思って臨めばいいから。滅茶苦茶サボって帰るといいわ」

 ご丁寧にもサボタージュをすすめてくれていた。

「もう、撃たれて運ばれてきたりなんかしちゃ、だめよ」

 提案へは肩すくめて返すほかないだろう。

「そういう職場は人にも言えない。よくないわ」

 言われていた。

「サボるついでに、そうね」

 その目をしばし宙へ泳がせ、やがて再びこちらをとらえてバーバラは言い放つ。

「やめちゃいなさい!」

 たまらず笑いはこみ上げていた。逸らした顔でついぞ吹き出す。断ったことを気にかけていたらしい。見て取ったバーバラは安心したようだ。緩めた頬でこうも続けてみせていた。

「ごちそうさま。楽しかった、ありがとう」

 響きにこそ、社交辞令はうかがえない。

「次に会えたら今度はわたしがおごるから」

 なら確かめずにはおれなかった。

「鍵はあるんだろうな」

「大丈夫。それはくくりつけてあるの」

 また後じさってデカいカバンを抱え上げる。

「これも!」

 ついでに叩いて中を示した。

「ありがとう!」

 チェブだ。

 続くおやすみなさい、が後を引く。

 向けられた背中が角を折れるまでを見送っていた。

 もしかするとその向こう、すぐのところに家はあるのかもしれず、なら何事もなく辿り着くだろうと考えることにする。

 終わった。

 思うままに大きく息を吸い込んでいた。軋む胸に背を丸め、それきり返したきびすでホテルまでを歩いて帰る。


 翌日、内勤の合間を抜け出し診察へ向かった。

 当日は救急搬送口から入ったうえ、それきり入院したのだから手続きが分からず面食う。ようやく待合のベルを持たされ診察室前へ辿り着いていた。

 あいだ医者も職員も看護師にも、幾人となくすれ違っている。こうして待合の椅子に腰かけ順番を待つあいだも同じだ。果てにようやく分かり、ああ、とひとりごちていた。

 目にしてきた看護師の白衣はみな、バーバラのものと違っている。つまり病棟と外来では管轄が違うらしく、骨のひとつも折らなければもう接点はないようだった。知ってあらため「今度、会えたら」の意味を理解しなおす。おかげでその姿を探していたことにも気づかされいた。

 振り返った動きは自然だったはずだ。

 診察室から名前を呼ばれて立ち上がる。


 バーバラが言う通り、中で聞かされた診断結果は問題なし、の一言に尽きていた。来週はずすというコルセットの予定にも変わりはない。だが本人がいらないと思うなら、それまでに外してもらってかまわないとドクターは許可していた。

 しょせん肋骨はどの骨にもつながっていない浮いた骨だ。肺の収縮に合わせて常に動く。だからしてギプスも出来ず、コルセットは補助具だった。そして補助具は症状の軽減を促すもので、そもそもなくとも骨は勝手に元通りとつながるらしい。

 それもこれも骨がぱっくり真っ二つに折れたせいだろう。粉砕骨折だったならボルトのひとつも埋め込むだろう手術が控えていたはずで、回復にはさらに時間がかかっていたろうと思えてならなかった。

 帰り道も言われたとおりだ。散歩がてら遠回りを決め込むことにする。あえて病院の中庭を横切った。見える景色はただ目に映り込み、頭の中で漠然とこれからのことを巡らせ続ける。

「うそ」

 言う声が聞こえて我を取り戻していた。なら確かに嘘のようなそれは光景だ。荷物を抱えてバーバラは、白衣でそこに立っていた。


 検査の結果はどうだった? と聞くバーバラは、ドクターの用事でたまたまここを通っただけらしい。言うとおりだったと教えて返せば、わかった御馳走しなきゃね、と観念したように腰へ手をあてがってみせる。続けさま「小熊のチェブ」の話し相手がいなくて物足りないの、と笑ってもみせた。

 そもそも仕事柄、偶然は信じない方だからしてこの展開を飲み込むのに時間を要したことは否めない。おかげで返事は曖昧だったと記憶している。送れないなら昼間がいい、そう返すのが目いっぱいだった。聞き入れたバーバラは間髪入れず丸一日の休みなら五日後の水曜日なの、と明かしている。凝り固まったこちらのスケジュールもまた同日に休みが巡っていたなら、待ち合わせはあの夜、別れた「タイハン」前で午前十時とすぐさま決まっていた。

 すれ違ったついでにふさわしい手短さだ。じゃあ、とそこで道を分ける。

 それから実感することとなったのは、仕事を片付けるに五日は短すぎるとして、待つには少々、長いということだろう。時間は双方の間を捻じれて流れ、捻じれ切った当日、もういいだろうとコルセットはずすことにする。身軽なのは取り戻した自由のせいか。待ち合わせの場所へと向かった。

 だがそこに現れたのは、一台のバンにほかならない。目の前でブレーキを踏む様に警戒すれば、ハンドルを握るドライバーこそバーバラだった。袖をまくり上げた麻のシャツでバンを降りると、おかげで素っ頓狂だったろう顔へ向かい、開口一番、こう言い放ってみせる。

「今日は砂漠でバーベキューよ。道具は後ろに積んできてる」

 唖然とさせられていた。にもかかわらず、ひとつ断っておかないといけないことがあるんだけど、と申し訳なさげにつけ加えもする。

「なんだ」

「ほかにも友達がついてきているんだけれど、かまわないかしら」

 などと事後承諾なのだから、そこに追い返すという選択こそ、そもそもない。かまわない、と返していた。聞いてバーバラは喜び勇むと、やおら車内へ身をひるがえす。

「ジョーイ、いいって。出てきてっ!」

 なんだ男か、と至極単純に思わされていた。

 するとハアハア荒い息は聞こえ、車内からそのジョーイは飛び出してくる。

 かなりの巨体だ。

 そして確かに「男」らしかった。

 しかし雑種だ。たちまちチョコレート色の大型犬は、バーバラの足元へまとわりつく。屈み込んでバーバラがその頭をなでたなら、嘗め回されてあっという間にもみくちゃとなった。

「勤務の加減で時々預かるの。今日は急で。ともかく同僚の愛犬、ジョーイよ。しつけはしてある。絶対、噛まないわ」

 本当か。むしろ現状、頭からかぶりつかれてやしないか。目を疑うが、おかげでバーベキューのわけを知った気にもなっていた。これではドッグカフェさえ入りづらい。預かっている以上、放り出すこともできず、こうなったに違いなかった。

「ほら、座りなさいジョーイ。彼はレフ・アーベンよ。おとなしく挨拶を。ほら、離れて。ジョーイはおりこうさんだったでしょ?」

 言うがジョーイは興奮の真っただ中だ。聞いちゃいない。これでよく預かっているものだと呆れる。

 このまま眺めていたところで埒は明きそうになく、ますます腹がすくだけだった。どうやらこちらから挨拶してやるしかないらしいと前へ屈み込んでやることにする。

 その平たい頭を掴んで撫でた。すぐにもジョーイはこちらの手へ興味を示すと、身をひるがえそうとする。だが好きにはさせない。飛びかかられる前に首輪を掴んで押し止めた。力にジョーイはずいぶと驚いた様子だ。あからさまにその動きを鈍らせる。逃さず顔を引き寄せた。吠えそうになったところで間近と見据える。居心地悪そうにするジョーイは目を逸らそうとするが、揺さぶりこちらへ向きなおさせた。

 肝心なのはここで決して慌てないことだ。

 口にする前に伝わっていることを確かめる。

 そこで座れ、と静かに唱えた。

 案外、気は合うらしい。

 ジョーイはハアハアいいながら、前へすんなり腰を下ろしていった。


 乗せて乗り込み、バンで向かったのは砂漠に面したオートキャンプ場だ。

 先客のキャンピングカーが赤茶けた大地に並んでいる。ベガスが観光地だからだろう。平日にもかかわらず張られたテントも多く見えた。思い思いに過ごす利用者らはそこでバーベキューを楽しみ、持ち出した椅子の上で寝そべり砂漠を眺め、勝手気ままと過ごしている。混じるべく、バンから早速、道具を運び出した。

 仲間とよく来るのか、簡易のテーブルセットを広げ、炭に火を入れるバーバラの手つきはいい。こちらもこちらで足元をうろつくジョーイをかまってやりながら、肉に野菜をグリルへ並べてゆく。

 などと好きにするつもりが、バーバラはうるさかった。気づけば互いにああだこうだとバーベキューの講釈を披露し合うハメになる。熱弁が功を奏して腹はすき、はしゃぎ通しのジョーイへ水を与え、スチールテーブルを挟んで腰を下ろした。講釈の検証だ。互いの調理を吟味し合う。

 うちにもジョーイは水を飲み干し、向けた顔でおこぼれをねだった。その情けない顔つきといえば、見ている方が萎えてくるほどだ。仕方ない。肉の端くれを分けてやることにする。

「ジョーイ」

 呼べば投げた肉へ、ジョーイは違わず食いついていた。

「そう、ジョーイは私よりレフがいいのね」

 目にしたバーバラの口ぶりは悔しげだ。

「私のいうことなんかちっとも聞いてくれないんだから。あなた、男の子でしょ。少しはレディをいたわって」

 丸のみするジョーイはすぐにも食い終わると、そうだ、とハアハア、また長い舌を出して期待に目を光らせている。甘やかしてはきりがない。次はやらず、残りはすべて自分が食うことにした。

「なんてことはない。ロシアにいた頃、家で同じくらいの大きさの犬を飼っていた。扱いに慣れているだけだ。同僚は男か? 女一人じゃ、持て余すだろう」

 ははぁん、と鼻を鳴らすバーバラは、そうして視線を皿へ落とす。

「ジョーイは彼女のボディーガードよ。けど、彼女も私も最初からなめられっぱなし。きっと最初の睨みが足りなかったせいね」

 いまさらのように、バウ、とジョーイへ吠え返した。そうして笑ったその口へ、焦げめの目立つ野菜を押し込む。


 後片付けは帰る間際でかまわない。せっかく訪れた場所だった。今は風景を堪能することにする。あえて地面へ腰を下ろした。焼けた地面は熱かったが苦にはならず、赤い地平線は肩の位置まで高くなると、空もならって高く、いやむしろ深くなる。そんな景色が錯覚させるのだろう。地の底にいるような気持ちに駆られ、ままに空を見上げていた。

 観光用か、赤いセスナがオモチャのように飛んでいる。

 追いかけ、果てに消え去ったところで視線を戻した。握るゴムボールは一点を真っ白に光らせた緑色だ。そんなボールを空と大地の境目へ向け投げつける。胸をかばっているせいであまり遠くへ飛ばずことはできなかったが、たちまち追いかけジョーイは矢のように駆けていった。

「あれから、見たんだけど」

 声へと振り返る。

 バンの中へ身をもぐり込ませていたのは、それを探していたせいらしい。肩までツバの広がる麦わらぼうをかぶったバーバラは、隣へ腰を下ろしていた。

「チェブか?」

 問い返すうちにも緑色を口にしたジョーイは駆け戻って、その口からボールを抜き取る。また精一杯、遠くへ投げた。

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