SO WHAT?! side & another stories

N.river

side story 1  雪の街にて

END ROLLまで読了者様向け



 旅行といえば、あらかじめ計画を立てておくものだからして、時期は選んだりするものと決まっている。だがあろうことか極寒の二月、バービーことバーバラ・ウィンストンはロシア東部に位置するここハバロフスクを訪れていた。

 気温は最高でもマイナス数度、最低ならマイナス三十度を超すハバロフスクはお世辞にも観光向きとは言えない。アムール川は青く凍てついていたし、囲んで広がる街はどこを見ても張り付く雪と氷で真っ白だ。街並みはそんな雪を押しのけ生えてきたかのように息を殺して窓を並べ、ときに道行く人の息を、車の吐くガスを、長くけぶらせていた。

 最初、それら風景を目にした時、美しく幻想的だと思ったことは本心で間違いない。空港から乗りつけたタクシーの窓越し、こうして眺める今でも確かにそう感じている。だがブレーキを踏んだタクシーが低い鉄門の前で歩くようドアを開けてからというもの、それら風景も続けて堪能するにはいくらかの忍耐が必要であることを思い知らされていた。

 もちろん旅行に当たっては下調べをし、いくらか話も聞いてきている。 だからして足元は内側がムートンの滑り止めがついたブーツで、ロングのダウンコートに手袋も忘れていなかった。下着も多めに着込み、素材にも注意を払っている。ただ頭はといえば耳当てをつけたきりで、タクシーを降りたとたんもう凍ってしまったのかと思うほど冷たくなっていた。

 失敗したと思うくらいなら、いい勉強になったと考えなおすべきだろう。バービーはただ上がる白い息の向こうへ目を凝らす。もしかすると雪の中に埋まってしまっているかもしれない。聞かされたここ墓地は、しかしながら雪かきの行き届いた場所として広がっていた。

 人影はない。石畳の小道だけが静かに奥へ伸びている。前にして彼、レフ・アーベンが振り返っていた。

 そのとき豪勢に白い息も上ったのだから何か言おうとしていたことは確かだ。踏み出されていた足からして、案内して先を促すつもりだったのかもしれない。だが声は出ず、口は閉じられ、バービーの元へ歩み寄っていた。

 ダブルのグレーコートはひざ下まで。毛皮のロシア帽もかぶり慣れた様子で、詰まったコートの襟元からマフラーを抜き出す。冷えたバービーの髪へやおらかぶせた。

「言ってなかったか?」

 余った左右を首へと巻きつけてゆく。

「だからコレでいいかと思って。失敗ね。あとでかぶるもの、買うわ」

 それだけでずいぶん暖かくなるのはむしろ残る温もりのせいだろう。ん、とだけ答えて彼が、一枚剥いだコートの襟を立てる。タクシーのトランクからおろした自分の荷物を肩にかけると、バービーのスーツケースを引いて奥へと靴先を向けた。

「足元、気をつけろ」

 確かに雪が踏み固められた小道は氷が張ったようになっている。おっかなびっくりバービーは、歩き始めた彼の後を追った。


 帰れば二年ぶりだ、と彼は言う。

 ODA活動を終えて立ち寄った日本で、そんな彼に家族へ紹介しておきたい、と話を持ちかけられた時は、だからしてそれが気まぐれの帰郷でないことをバービーは理解している。つまりもっと別の言い方があるはずだと手繰り寄せ、彼らしいプロポーズだと、とりなおしもしていた。

 だが困ったことに、相変わらずテロリストを相手にした彼の仕事は帰国後もラスベガス近郊の病院へ勤めるバービー以上、都合がつきにくい。旅行の予定も一日や二日でないなら互いの休みを合わせることは至難の業で、ようやくそのチャンスが訪れた時はこんな具合に気候のことなど二の次となってしまっていた。

 だのに彼は空港からまっすぐ家へ向かおうとせず、その前に寄りたいところがあると言い出しこの場所にタクシーを止めさせている。

 埋まっていたなら分からないかもしれない。

 なにしろここを訪れるのは、これが二度目だ。

 言ったきりで降りてゆく彼をしばし、目で追うほかなくなっていた。

 そう、彼が何を考えているのかバービーには時折、見当のつかなくなる時がある。その時も言葉の残す意味合いに少しばかり翻弄されていたことは認めるしかない。


 墓地は、小道を抜けたところに広がっていた。並ぶ墓標はほどこされた彫刻のせいもあって、場所によってはまるで美術館のようにも見えてならない。そのどれにも等しく雪は積もると、ここでも街同様、ひっそり息をひそめていた。

 こんな季節だ。ほかに弔い、訪れている人影はない。

 二人きりで、なおさら寒々しさの増した風景の中を歩く。二度目だからか、彼は幾度か迷うように墓標と墓標の間を行き来した。

 やがてそんな芸術作品の間で足を止める。間違いないらしい。並べば傍らへ荷物をおろした彼は身を屈め、伸ばした手でありふれた四角い墓標に積もる雪をていねいに払いのけていった。そこに刻まれた文字はやがてバービーの目にも明らかとなる。キリル文字なら読めず、誰? と尋ねかけたそのとき彼はバービーへと言った。


 それが特殊な仕事であればあるほど、選ばせるだけの原体験というものがあっても不思議はないだろう。バービーが看護師を選んだのも、やはり幼い頃の出来事が大きく影響していた。

 三つ離れた兄が入院するというアクシデントはそれのみならず、家族の雰囲気さえもすっかり変えてしまったのだから覚えた不安は忘れがたい。だからこそ病院で出会った彼女ら看護師のどんな場面でも落ち着きを失わず、しかしながら決して冷たくなかったその存在が幼かったバービーをどれほど勇気づけてくれたかしれなかった。比べて何もできない自分を悔しく思ったのも、だからして自分もああなりたいと思い描くようになったのも、あのときで間違いない。

 反対を押して職につき、罪滅ぼしにと促した場所でテロに遭ったという彼の祖母の話は飛行機でも、家でも、レストランでも、タクシーの中だろうと似合わない。この場所だからこそ口にできたような話だったと思う。二度目だと彼が言った時に感じた違和感も一度で十分だったかつての名残なら、誰に会うよりも最初にここを選んだ彼はもう避けて通る必要がなくなったのことを感じ取りもした。

 連れて来てもらえた自分が大事な場面に立ち合っていることは、よく分かる。

 だから悲劇には続きがあってよかったとも思っていた。

 ひとつの死が、その最期で新たな出会い産み落とした。そんな結末を共に報告しに来ることが出来たことは、ここにいる三人共が喜んでいい出来事だと思えてならない。


 目を上げれば世界は白銀に輝いてた。

 その白はバービーの、いや二人の周りへ突き抜けるがごとく冴えて広がると、覆う果ての果てまでを弔いの色に変えて降る天使の気配をしん、と伝えよこす。舞う銀の粉はその羽ばたきで間違いなく、あった罪を限りなく空へと還していた。

 そうして彼がコートのポケットから取り出したのは、カラフルな包み紙がオモチャのようなヌガーだ。生前、好物だったらしいそれは、分け与えられた彼の味覚の一部を形成しているらしい。幾つかを供えて、それもまた供養のように一つ、彼は口の中へ放り入れる。バービーへも促し手渡した。

 残しておきたいような包を解いて、興味津々、口へ運んでみる。刻んで練り込まれたナッツの欠片が舌先に触れていた。追いかけて甘さはノスタルジックで素朴な味を口の中へと広げてゆく。

 きっと彼はこの甘味の中から、幾つもの思い出を拾い上げているのだと思う。けれど何一つ知らないならバービーは、ただ同じ味から彼女へと思いを馳せた。

 立ち去るきっかけを作ったのは、ほかでもないこの寒さだ。並んで小道を戻ったが、彼の歩みは行きも帰りも何一つ変わるところがなかった。

 と、鉄門が見えた時、自分たちと入れ替わるように人影は墓地へ向かい歩いてくる。ダウンの茶色いコートを着たそれは、彼と似たような帽子をかぶった男性だった。同じように気づいたらしい。彼が少し歩みを早めている。すれ違う間際だ。先に行ってくれ、とだけ告げて肩を並べた相手へ握手の手を差しのべた。

 そうして交わされる双方のロシア語が聞き取れるはずもない。言われるままに足を進め、門をくぐる手前でバービーは振り返る。取り残された気分で離れた場所から、そんな二人をただ眺めた。

 相手もチラリ、バービーを盗み見ている。何者なのかさっぱり見当はつかず、やがてほほ笑みを残すと、道を違えて墓地へと消えていった。彼もバービーを目指し急ぎ足で戻ってくる。

「今のは誰?」

 来るときに使ったタクシーはもういない。鉄門を出たところでバービーは彼へ問いかけた。

「軍にいた頃の友人だ。ヤツもバーブシカに会いに来てくれたらしい」

 教えて言う彼は、いまさらだろう。

「なら紹介してくれてもよかったのに」

「悪友には、そのうちでいい」

「わたしの方、見てたわ」

「ああ、あの美人は誰だと聞かれた。だからお前も骨の二、三本、折れば見つかると教えておいた」

 などと言って笑うのだから、あっけに取られるしかなかった。もう、と怒って言う代わりに、少し高い位置にあるその胸へ、ポケットへ突っ込んだままのヒジで体当たりしてやる。跳ね返されて路面で滑り、掴まれた腕を彼に引っ張り上げられていた。


 家までは歩いて行けない距離でもない。

 バスも待てば乗れると言う。

 けれど寒さは特殊だ。ここぞの場面で笑みも浮かべられそうにないほど唇までがかじかんでいたなら話にならず、手配したタクシーが到着するまでの間をカフェで過ごすことにする。

「二十分ほどで来れると言っていた」

 そのテーブルとベンチは固定されていて、電話口から帰って来た彼は向かいで前屈みになると、間へ身を滑り込ませながら教えて言う。

 そんなこんなで陣取った席は窓際だ。窓は二重となっている様子で、触れて確かめたくなるほど寒さというものが伝わってこない。加えて店内の暖房もよく効いていたなら、手早く脱いだコートに次いで解いたマフラーを彼へ返しながら、バービーも口を開いた。

「コーヒーでいいわよね。頼んでおいた」

 また、ん、とだけ言った彼は受け取ったマフラーを丸め、脱いだコートと帽子の間へ押し込んでみせる。腕時計の針を読んだその顔を持ち上げた。

 そのうちにもジワリジワリ体へしみこんでくるものが暖かさだと分かってきたなら、知らず知らずのうちに縮まっていたあちこちから錆びたねじを緩めてゆくようにぎこちなく力は抜けて、心の底からほうっ、と息はもれだす。

 味わえば、それ以上の言葉は出てこなかった。

 二人して、当てもなく黙り込む。墓地を後にしてきたところなら、なおさらだった。

 地元の客だろう。少し離れたところでは初老の客が数人、それぞれにカップを傾け菓子を口へ運んでいる。似合う店内は腰かけているベンチとテーブルがそうであるようにレトロそのもので、流れる音楽も埃を噛む針の音がリズムセクションさながらの古いジャズ、この曇天を憂うような悲しげなメロディーだ。

 だからといって黙り込んだまま窓の外を眺める彼は、ただ呼んだタクシーを探しているだけかもしれない。けれど彼が何を考えているのか、バービーには時折、見当のつかなくなる時があった。

 嘘は、どちらかといえば下手な人だ。思考の過程を説明する習慣がないらしいこともよく知っている。ただそこに悪意があったためしはなく、思考はバービーを大事に思う気持ちを軸に回っていることも伝わっていた。

 けれどそれとは別に、まだほかに何か大事な、大事だからこそ踏み込めない何かが残されているのなら、と話を聞いた後だからこそ、その横顔が何を考えているのか気になって仕方なくなる。

 ほどなく運び込まれたカップが二人の注意を引き戻して、バービーは改まったように温もりを取り戻した頬へ笑みを浮かべた。

 もうヌガーは口の中に残っておらず、頼んでいたホットチョコレートのカップを宝物のように両手で包みこむ。やけどしないよう気をつけながら口にした。すぐにも驚かされて眉を跳ね上げる。

「ねえ、きっと少しだけリキュールが入ってるわ。こんなの初めて」

 試してみて、とのぞいた不安を払うように彼へカップを突き出した。

 コーヒーから口を離したばかりの彼は、期待するでも面倒くさげでもなく受け取って、バービーの前で至って真面目に口をつけてみせる。うん、と少し長めの返事を返して、しばしカップを眺めた。

 そういえば流されているジャズは、イントロが終わってようやく名トランぺッターの演奏でよく知られるあの曲だとバービーは気づく。歌詞なら知っていた。



   私のゆかいな恋人

   すぐに私を笑わせてくれる、愛しい人

   あなたはどんな時も心から笑顔にしてくれる

   ハンサムというよりは愛嬌があって

   写真向きとはいえない感じだけれど

   私にとってはあなたの全てが

   最高にお気に入りのアートよ



 だが彼の感想はそれきりだ。

 言ってカップをただバービーへ押し返す。

 受け取れば肩透かし。それだけ? とバービーが不満を覚えたことは否めない。けれど吹き飛ばして、たちまち笑い出しそうにもなっていた。

 彼は気づかず、また窓の外へ目を向けている。その上唇には、いたずら書きでもされたかのようにホットチョコレートの泡がちょん、とだけ乗っていた。



   まあ、スマートってルックスでもないし

   もう少しはっきり喋れないかしら、って

   思うときもあるわ

   あなたもそう思うでしょ?

   でもね……



 横顔は、見れば見るほど滑稽だ。そこにコートジボワールの保健所まで駆けつけたあの面影は欠片も見当たらない。

 きっとチャイニーズがとてつもなく好きで、とてつもなく注射が嫌いな、映画『小熊のチェブ』を心から愛するただの、どこにだっている人なんだとバービーは思いなおす。だからしてそんな人が本当にテロリストを監視しているのだとすれば務まるのかと、やはり心配でならなかった。だいたい撃たれて運ばれてきたわけだし、無頓着にもたいがい驚かされている。それもこれも、いまさら目が離せそうにないことだらけだ。

 付き合いは、決して長い方ではない。そんな彼の中にまだ何か大事で、逆に踏み込めないモノが残されているとして、それは出合った時からあった自然な秘密だろう。暴露させようなどと、解決しなければなどと、傲慢で不自然過ぎた。発揮する必要があるなら機会はこの平穏を破り、互いの間へ警告の鐘を打ち鳴らして迫った時でかまわない。今はまるごと、と言えば結構かさばる大きさだと苦笑して、そんなこんなもまるごとが彼なんだと考えてみる。

 堪えているわけではない。

 そういう人と出会っただけだ。

 仕方ない人ね。

 ひとりごちたのは、このまま放っておけば彼はきっと監視するテロリストに後ろから頭の毛を引っこ抜かれかねないと思ったからで、

「レフ」

 呼びかけて振り向かせる。一大事が訪れる前にと、伸ばした指先で甘い落書きを拭い取った。

 古いジャズは、そんなバービーへ歌い続ける。



   変えちゃダメよ、その髪型も

   本当に私のためを思ってくれているなら

   愛してくれているのなら

   あなたの何一つ、変えちゃだめ

   ずっとそのままでいて、大好きなあなた

   だってあなたさえいてくれれば、

   私の毎日はとろけるようなんだから



 一台のタクシーが湯気のようにガスを立ち上らせながら表通りでブレーキを踏む。また降り始めたらしい。雪に紛れて点滅するウインカーが、次の場所へと二人を呼んでいた。



『SO WHAT ?!』side story

『雪の街にて』

終劇



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