必中の間合い

 逃げる馬上で、孫市は三郎を振り落とそうとその腹を蹴るが、三郎は決してその手を離さなかった。

 やがて三人を乗せた馬は根を上げ、横向きに倒れた。彼らを振り落とした馬は、暴れながら去っていく。

 舌打ちをした孫市は、小雀をひょいと抱え、大股で走りだした。その姿は、あっという間に山奥に消えていく。三郎はその姿を見失わぬように、すぐ後を追う。

 小雀を小脇に抱え、山道を走る孫市の姿は、さながら人さらいのようであった。

 どうやら膂力に優れる孫市にとって、小雀は弾を込める、からくりのような存在らしい。


 逃げる孫市と追う三郎の間は、一定距離のまま、つかず離れずであった。

 やがて孫市は、ゆっくりと足を止めた。三郎も少し距離を取りながら、足を止める。


「……小雀、重くなったな。歳はいくつになった」


 そう言いながら、一旦小雀を山道に下ろす。


「えっと、九つでございます」


「もうそんなになったか。どうりで、偽坊主を振り切れんわけだ。お前も、俺の懐から巣立つ日が来たか」


「小雀は、もういらないのですか?」


 少女はそう言って、泣きそうな顔をする。


「蛍が俺の背中から降りたのも、お前と同じ年頃だった。これからは、好きなことをやっていい。なりたいものになっていいぞ」


 孫市のその言葉を聞いて、小雀は瞳を輝かす。


「なんでもいいのですか。じゃあ小雀は、お頭の嫁になります!」


「……やれやれ、どいつもこいつも……俺は、一人しかおらんのだぞ」


 孫市はそう言って、優しげな表情で小雀の頭を撫でた。


「孫市殿……」


 三郎は、二人ににじり寄る。


「まさか、小雀を連れていようとは……流石に、危険でありましょう」


「そうは思わんな。この世の中で、俺の懐ほど安全なところはない」


 孫市は、自信満々にそう言ってのけ、小雀に注いでいた視線を三郎に向ける。その優しげな表情は、崩さないままであった。


「しかし、よく来たな。どうして、あの丘に行かなかった?」


「……思い出したのです。丘の上での話を」


 三郎は、ここに来るまで頭の中で整理してきたことを、話し始める。


「あの時、遠く百閒程の辺りで、一匹のムジナを見ました。だから私は、十ヶ郷での会話を思い出し、タヌキと言ったのです。それは十ヶ郷では孫市殿が、逆に言わないと許さないという話を聞いていたからです」


「まるでガキだな、俺は」


 孫市はそう自嘲して、笑う。


「しかし、それは根本的に違っていた。どうやらムジナとタヌキは、地域によってもともと逆に呼ばれているものらしいのです。そして、私の知っているムジナとタヌキは、十ヶ郷とは逆だった。だからあの時、丘で私が言ったのは、逆になっていなかった。にもかかわらず孫市殿は、それに気づかなかったのです。

 つまり孫市殿は、百閒先が鮮明に見えてはいない。私にはそれで、狙撃をするとは思えなかったのです」


 三郎の推測に、孫市は表情を変えることなく、耳を傾けていた。やがてしばらくの沈黙の後、口を開く。


「……それだけか?それだけの理由で、丘からでなく、至近距離から撃つと確信したのか?」


「それは、きっかけに過ぎません。私には、貴方の狙撃に関して、一切確信できるものはありませんでした。だから私は、私のもっとも信頼する人の言葉を、思い出したのです」


「それは……どのような?」


 孫市の表情は、引き締まったものに変わっている。


「銃を外さぬもっとも良い方法は、至近距離で撃つこと。一流の鉄砲撃ちは、一発必中であらねばならない。たとえ離れた敵を撃ちぬける腕があろうとも、必中でなければ真の一流ではない、と」


 三郎の言った言葉は、かつて彼が一益から聞かされた言葉であった。この若者のもっとも信頼する男である。


 辺りの山は、人の死体でもあるのか、烏が騒がしい。

 孫市は、周囲の烏の声を聴くかのように、しばらく耳を澄ましていた。


「……一つ、聞いてよいか?」


 孫市は、空に目をやったまま、口を開いた。


「なんでしょう」


「あの丘にいた獣、ムジナかタヌキか……おぬしには、その姿がはっきり見えていたのか?」


「……見えました。私には、見えておりました」


 三郎は、自信を持ってそう答える。


「……ちっ、目のいい奴だ」


 孫市は舌打ちをして、緊張がとけたように笑みを浮かべた。


「結局、鉄砲撃ちの行き着くところは、皆同じか。杉谷善住坊の失敗は、至近距離で撃てなかったことだ。必中の間合いに入ることこそ、極意なり」


 孫市はそう呟いて、再び小雀を抱きかかえた。


「さて、引き時だ。俺には本願寺勢敗走の内に、やっておかねばならんことがあるのでな。おぬしの相手をしている暇はない。此度は、中々面白かった。もう二度と会うこともあるまいがな……さらばだ」


「お待ちください。最後に一つ、お尋ねしたいことがございます」


 三郎は、去りかける孫市の後ろ姿に、言葉を投げる。


「野田城からの狙撃は、孫市殿が撃ったのですか。あの百五十閒を超えるとも噂された狙撃は?私の此度の役目は、そこに起因するのです」


 事ここに至っては、もはや隠す必要もなかった。三郎は、そのために石山本願寺に潜入したのである。


「さて、撃った覚えはないな」


 孫市は振り向いて、拍子抜けするほどあっさりと答えた。


「とはいえ、そんな間合いを持つのは世の中広しと言えども、俺ぐらいしかおらんかも知れんな。しかしそれは、本当に野田城から撃たれたものかな」


「……それは、どういう事でございましょうか?」


「言葉の通りだ」


「しかしあの戦では、もっとも近い敵が、野田城にいる孫市殿だったはずです。それ以上に近い間合いでは……」


「敵陣から撃ったとは限るまい。銃の達人とは、銃のあらゆる事に精通している人間のことだ。自陣から撃って、敵陣から撃ったように偽装することもできる」


「まさか、そんな……」


 孫市の話は、思わぬ方向に進んでいた。


「もちろん、そこまでできるのは、俺と遜色のない一流の使い手だろうがな。そんな奴は、この天下に幾人もおらん。例えば、そうだな……何時ぞや、おぬしと寺内町の橋で一緒にいた坊主。あの、火薬の匂いの染みついた男……」


 その孫市の話に、三郎は絶句した。一益と分かっていて、言っているのだ。


「そもそも俺が撃ったという噂も、不思議な話だった。あの頃、俺達が喧伝してるわけでもないのに、不自然に出てきて広まっていった。裏に誰かいるな、とは思っていたのだ」


「あり得ませぬ。何のために?」


「俺は、己の推量を言っている。事実かどうか気になるなら、己で調べればよかろう。精々、悩むがいい」


 孫市は意地悪くそう言って、立ち去ろうとしたが、思い出したように口を開く。


「俺も、おぬしに言っておきたいことがあったのだ。今こういう状況の時は、かならず言っておかねばならないことだ」


「……なんでしょうか?」


「次に戦場で会った時には、容赦はせん。敵同士だということ、忘れるな」


 孫市はにやりと笑い、小雀を抱えて去っていった。

 三郎は、頭の整理がつかず、しばらく立ち尽くしていた。

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