一益の忠義

 天王寺砦に入った信長は、すぐさま行動を開始した。

 重臣の反対を押し切って、引き続き砦を包囲する本願寺勢に、攻撃を仕掛けたのである。


「此度敵が間近にいるのは、天の与え給うた好機である」


 多勢に無勢、と反対する重臣にそう説いた信長は、包囲する本願寺勢に、再び突撃を敢行した。

 まさか討って出て来るとは思わず、油断していた本願寺勢は、脆くも崩れた。

 ただでさえ、先程散々に蹴散らされているのだ。

 石山本願寺勢は、総崩れとなった。



「三郎、よくやってくれた。此度の勝ち戦、おぬしの功は大きいぞ」


 天王寺の戦いの翌日、一益は瞳を輝かせて、目の前にいる三郎の肩を叩き、その功を労った。

 総崩れとなった本願寺勢は、恐慌状態となって、石山本願寺に逃げ帰った。

 織田勢は、さらにこれを追撃し、石山本願寺の間近まで迫って、二千七百余りの敵を討ち取った。

 織田勢の、大勝であった。

 その後、天王寺砦に戻っていた一益は、その一室で、無事帰還した三郎を出迎えていたのである。


「いや、此度は本当によくやった。おぬしが居らねば、上様のお命もなかったやも知れん。落ち着いたら、おぬしの元服じゃ。もちろんこの功は、上様にも伝わっておる。その上様のお許しを得ることができれば、おぬしも滝川一門じゃ。いやあ、本当によく、やってくれた」


 そう満面の笑みを浮かべる一益は、心の底から、そう思っているようだった。

 一益からすれば、同じような命を受けていたであろう、羽柴秀吉や明智光秀ら、家中の競争相手も出し抜いた形となり、喜びはひとしおであろう。その表情を見ると、三郎も素直に嬉しくなる。

 しかし、その心には、一つの疑念がくすぶっていた。

 孫市が、最後に語った話である。

 ここに戻って来るまでも、ずっとそのことばかり考えていた。そして、これを明らかにしない限り、その役目も終わらない気がしていた。


「……殿、実は一つ、お尋ねしたいことがございまして……」


 三郎は意を決して、恐る恐る口を開いた。

 彼は、一益に忠誠を誓い、その全てを信頼していた。だからこそ、本当の事が知りたいのである。


「なんじゃ。何でも申してみよ」


「では、遠慮なく申し上げます。件の、福島城からの狙撃にございますが……」


「孫市が百五十間から撃った、あれか?」


「左様でございます。そして、あれは孫市が撃ったものではありませぬ」


「ほう……何故、わかる?」


 一益は、一切顔色を変えない。


「本人が申しました。そして……言うのです。あれは、織田陣中から、撃たれたものではないか、と」


「……おもしろいことを言うのう、孫市は」


「あの時、もっとも上様に近かったのが、福島城と聞いております。そこにいた孫市が撃ったのでなければ、敵陣から撃てる者はおりませぬ」


 信長は、鉄砲の間合いを警戒して動いていた。その最短距離が、野田城だったのである。


「うむ……どこかに潜んでいたのではないか?杉谷善住坊のように」


「恐れながら、近い距離で撃てば、事は発覚いたしまする。常人では、痕跡を隠せますまい」


 三郎は、遠慮がちに目を伏せる。一益には、言わずもがなのはずであった。


「孫市は、その痕跡を消して撃てる者は、天下に幾人もおらぬと言うのです。そしてあの男は、私にあるお方を示唆いたしました」


「……それは、誰じゃ」


「恐れながら……」


 三郎はそう言って、床に頭を擦り付けた。

 さすがに名を口にはできなかったが、その平伏する姿は、言外にそれを表していた。


「……それが、儂じゃとな」


 一益はゆっくり立ち上がり、戸を開けて外に顔を向けた。顔を上げた三郎にも、その表情は見えない。


「三郎、おぬしも知っておろう。儂はあの頃、伊勢におったのだぞ。福島城は摂津じゃ。随分、離れておるぞ」


 一益は、永禄の北伊勢侵攻で先鋒を務めて功があり、戦後北伊勢の守護を命ぜられ、野田福島の際には北伊勢にあった。当時少年であった三郎も奉公人の一人として北伊勢におり、一益が北伊勢にいたことは間違いない。


「距離はあまり、問題にならぬかと……」


「何故じゃ?」


 一益は、振り向いて三郎の目を見る。


「殿は……忍びであらせられますれば」


「……さては、甚兵衛か。あやつめ、いらぬことを……」


 一益は驚きの表情を浮かべ、苦笑した。さほど怒っている様子ではない。


「では儂が、仮に摂津にいたとして……その動機は何か。まさか儂が、石山本願寺に通じていたとでも申すか?」


「此度、石山本願寺に潜入の折、鳥居小四郎という男と出会いました。この男、顕如の右筆をしている男ですが、堺から来た者で、会合衆とつながっているとか。どうもこの男は、顕如に害をなす、獅子身中の虫であったようなのです」


 三郎はそう言いながら、小四郎の残忍な笑みを思い出す。


「この男が言うには、自らの兄が馬廻として上様の近くにあり、野田福島の戦で、孫市に撃ち殺されたと言うのです。これはおそらく、あの時に撃ち殺された馬廻でありましょう」


 一益は、三郎の目を見つめながら、その話を黙って聞いている。


「私は孫市の話を聞いてから、その話を思い出したのです。もしかすると、その時撃ち殺された馬廻は、獅子身中の虫だったのではないかと。それを、殿が誅殺されたのではないかと……」


 三郎は、一益の様子をうかがう。


 どれほどの時がたっただろうか。しばらく沈黙していた一益は、やがてゆっくりと語り始めた。


「……堺が上様の矢銭徴課に応じ、二万貫を払った頃、あの男は堺からやって来たのだ。上様に、武士に取り立ててもらうためと言って、銭を持ってな。上様も、堺との渡りが必要で、そばに仕える馬廻となった。しかし、儂はその男を見たことがあった」


 一益は再び、三郎の前に腰を下ろす。


「儂が甲賀の出身であること、聞いておろう。儂は昔、その甲賀で奴を見たことがあったのだ。忍びの家柄であったが、甘っちょろいものではない。人の懐に入りその者を殺す、暗殺者の家系じゃ。

 儂は、上様がそのような者を周囲に置くことを懸念して、何度か御諫言申し上げたが、その男の剛毅さを上様も気に入って、お聞き届け願えなかった。しかし、儂は確信しておったのだ。あの家系の男が、目的もなく馬廻として仕えるなどありえんとな。それからしばらくして、儂は命を狙われた。何のことはない、奴も儂を覚えておったのだ」


 一益は、自嘲気味に笑う。


「奴が儂を狙ったということは、何か後ろ暗いことがあるということじゃ。儂は、奴を何とか始末しようと機会をうかがったが、上様のお許しが出ない以上、秘密裏にやる他はない。上様の命に背いたとあれば、ただではすまぬからな。そして、遂にその機会が巡ってきたのだ」


「……それが、野田福島の戦いでございますか」


「儂が伊勢にいることは、周知の事実であった。この状況があれば、儂が疑われることはない。儂がいた桑名城と摂津の間など、儂のこの足と、甲賀の抜け道を使えば、あっという間じゃからな。儂はあの時、一人桑名城を抜け出し、奴を撃った。そして念のため、風聞を流した。雑賀孫市が撃ったとな。まさかその時の風聞が、数年後にこんな役目に変わるとは、思っていなかったが」


 語り終わった一益は少し笑顔を見せた。

 桑名城から摂津までは、甲賀を通れば一直線であった。抜け道があれば、なおさらであろう。

 一益は一息ついて、三郎の肩を叩く。


「……未熟とばかり思っていたおぬしが、ここまでここまでたどり着こうとはな。ますます、将来が楽しみじゃ」


「ありがたき幸せ」


 平伏する三郎は、安堵した。

 一益の行動の裏には、やはり信長への忠義があったのだ。


「申し上げます」


 その時、戸の向こうから、家臣が急を告げる。


「苦しゅうない、申せ」


「はっ。ただ今早馬が参りまして。京の勘解由小路において、討ち取られた雑賀孫市と下間頼廉の首が晒されているとのことでございます」


「何じゃと!」


 一益は、驚愕して声を荒げる。それは、三郎も同様であった。

 織田勢は二千七百余もの首を討ち取ったが、その中に、二人の首があったなどという話は聞いていない。そもそも、追撃された軍勢の中にいるはずはないのだ。


「むう……にわかには、信じられぬ話じゃが」


「殿。私が、確かめて参ります。京に行かせてください」


 三郎には、一つ気になることがあった。

 それは、孫市の別れ際の言葉である。あの男は、やらねばならぬ事があると言った。もしそうならば、確かめねばならない。


「まあ待て、三郎。両名を討ち取ったなどという話、儂も聞いてはおらぬ。おぬしは大任を終えたばかり、今は体を休める時じゃ。無理をするでない」


 一益は、立ち上がろうとする三郎を抑えるように、両手をその肩に置く。


「両者の顔をよく見ているのは、私しかおりません。おそらく、偽首であろうと思いますが、万が一のこともございます。行かせてください」


 一益はしばらく考えていたが、やがて諦めたように口を開く。


「……わかった。では、こうしよう。これは、骨休めじゃ。京に、儂の馴染みの寺がある。両名の首を確認した後、そこでしばらくゆっくりするがいい。戦の喧騒を離れ、京を見物するのもよかろう。その寺には、書状を書いておく。もし万が一、首が本物であったなら、その時は速やかに帰陣せよ。よいな」


「はっ、行って参ります」


 三郎はそう言って頭を下げ、すぐさま支度に取り掛かる。

 翌日、寺への書状を受け取った三郎は、日が昇る前の薄暗いうちに、馬に乗って天王寺砦を出発した。

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