孫市と信長
孫市は、来るべきその時のために、身を隠し銃撃の準備をしていた。
(さて、あの偽坊主は脱出した頃かな?)
そんな事を考えながら、先程の苑也の顔を思い出す。
人が驚いた時の顔を見る事ほど、面白い事はない、とこの男は思っている。運を天にまかせる上で、敵にそれを委ねるのならば、面白い方がいいに決まっている。
織田信長を、撃つ。
そのことは、単に敵総大将を撃つということではない。
若い頃、圧倒的劣勢の信長が、海道一の弓取りといわれた駿河の今川義元の大軍を桶狭間で破ったと聞いた時、孫市の胸は躍った。
それは、今までに聞いたことのない逆転劇であったのだ。
それからは、信長の一挙手一投足に夢中になった。信長のやることは合理的で、過去からの因習や、既得権益にしばられることがない。それはどこか、銃を撃つことにも似ている部分があった。
孫市は、弾丸の軌道を、思い通りにすることができる。
しかし彼にとって、それは当たり前のことであった。
弾の形、銃身の摩耗具合、火薬の量と調合具合、込めた時の弾のはまり具合、風の向き、空気の湿り具合等々、すべての条件を完璧に準備すれば、弾は当たり前の軌道を描く。それだけのことだった。
そこに超常的な力は、介在しない。
そして孫市は、若い頃から世の中のすべてが、そのようなものだと思っていた。
そんな孫市を引き留めたのは、顕如の存在と、十ヶ郷の人々であった。
銃の台座に念仏を彫り、それに顕如から墨を入れてもらった時、初めて忠誠心と呼ばれるものを感じた。人々がすがるこの人を、守らなければならない、と。
世の人間が、自分とは違うこともよく分かっていた。それは、鈴木一党の人々もそうである。頭目になった以上、彼らを良く生かさねばならない。
そういう意味でも、子供の頃に銃を暴発させて、兄の目を傷つけてしまったことは、長く彼の心に影を落とした。
兄が孫市であり続けられたら、どんなに良かったかと。その事実は、孫市をひねくれた男にした。
「さて、頃合いか……」
彼の懐にいる鳥は、待ちくたびれたのかうつらうつらとしている。
孫市は意を決して、ゆっくりと立ち上がった。
滝川一益は、牧野甚兵衛からの急報を受け、直ちにそれを信長に報告した。
すでに天王寺砦への道半ばであった織田勢は、一旦その進軍を止め、下知を待っている。
その軍容を見下ろす位置に、マントを羽織った男が佇んでいる。
その男、織田信長は、目の前にいる滝川一益の報告に表情を変えることもなく、己の手足となる軍勢を見下ろしていた。
しばらくの後、その視線が側に控える一益に戻る。
「一益よ」
「はっ」
信長の落ち着いた声が、一益に響く。
「かつて雑賀孫市は、百五十間の間合いから余を撃ったという。銃の扱いならば、おぬしも孫市に劣るまい。そのような間合いあり得ると思うか」
「……百五十間というのは、途方もない間合いでございます。しかし、その時々の戦場の状況にもよりましょうし、断言は致しかねまする。某はあの時、伊勢に居りまして、直に目にしてはおりませぬ故……」
「で、あるか」
信長は抑揚なくそう答え、話を続ける。
「そもそも此度、余が孫市の諜報を命じたのは、おぬしら家臣の懸念を取り除くめじゃ。余は、百五十間を超える狙撃など、あり得ぬと思っておる。何故なら、仏の加護などというものは、この世にないからよ。だから、余に銃の弾は当たらぬ」
「しかし、此度は乱戦となりましょう。孫市がどこに潜んでいるやら……」
「それは、いつの戦も同じことよ。天王寺砦は、もう長くは持つまい。ここで光秀らを見殺しにすれば、天下に余の面目が立たぬ。砦を囲む坊主どもを蹴散らし、光秀らと合流すべし」
「ならば、我らが身命を賭して天王寺に参ります。上様はどうか、吉報をお待ちになって下され」
一益はそう言うや否や、額を地面にこすりつけた。
「余が駆けてこそ、皆が死に物狂いでついてくる。桶狭間の時と同じだ。一益、余は決して引かぬ。世人にあざけりを受けるは、余の本意にあらず」
「上様……」
「大義!」
信長は、鋭くそう言って、一益の言葉を遮る。こうなっては、信長に翻意を促すことは難しいだろう。。
信長は馬にまたがり、全軍に進軍の下知を下した。
(こうなってはもはや、三郎に頼る他はない)
一益は、無念の表情で天を仰ぎ、自らの家臣に祈った。
天王寺方面に急ぐ三郎の目的地は、やはりあの孫市らと共に上った丘であった。
あの時、孫市は三郎に狙撃の位置を示した。そして、甚兵衛から聞いた信長の陣の場所を考えれば、その推測通りの道を通るだろう。
三郎は、あの丘の上こそ、狙撃地点であると確信していた。
「おや、これは、苑也様ではありませんか」
三郎は、岩陰から突然現れた影に驚き、思わず後ずさる。
そこにいたのは、孫市配下の老人、月の翁であった。
「いやはや、このような所でお会いするとは……本願寺のお役目ですかな?」
月の翁は、のんびりした口調でそう尋ねてきた。どうやら、三郎が織田の間者だとは、伝わっていないらしい。
「月の翁こそ、このような所で……戦働きですか?」
「はっはっは。爺には、戦は荷が重うございます。儂はいつも通り、ほれ」
老人はそう言って、背中に吊り下げた獲物を見せる。
そこには、ぐったりとして生気のない、ムジナがぶら下がっていた。
「……タヌキでございますか」
「苑也様、こいつはムジナでございますよ」
三郎は、首を傾げる。
「十ヶ郷では、孫市殿のわがままで逆なのでしょう?」
「だから、ムジナなのでございますよ」
翁はそう答えてから、合点のいった表情を浮かべる。
「ははあ、なるほど。苑也様は、東国のお生まれですな。ムジナとタヌキは、地域によって、呼び名が逆になっていることがあるようでしてな。苑也様のおられた地域は、こことは逆なのでしょう。いや、私も雑賀に来た時は、不思議に思ったものですじゃ」
翁はそう言って笑った。
(つまり、どういうことだ?逆ということは、逆に言ったつもりでも、逆になっていなかったということか)
その時、三郎の脳裏に、かつて孫市と交わした会話の情景が浮かんできた。その時の孫市の表情と言葉が、はっきりと頭をよぎったのである。
(もしかすると……)
考えが綺麗にまとまったわけではない。しかし、もう足は動き始めていた。
「申し訳ございません。急いでおりますので、これにて失礼いたします」
三郎はそう言って、先程までの目的地の丘とは違う方向に向かって、駆け出した。
その若者の姿に、月の翁は一瞬面くらった顔をしたが、やがて無表情となり、しばらくしてうっすらと笑みを浮かべた。
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