脱出

 どれほどの時がたったであろうか?

 牢屋は変わらず、静寂に包まれている。

 時折、遠くからさざ波のような、人の声らしき音がわずかに聞こえる。

 しかしそれは、内容が聞き取れる程のものではなく、三郎はここがどこか、いまだまったく想像がつかなかった。

 三郎は、鋸挽きの恐怖に震えながらも、孫市の事を考えていた。

 先程の孫市は、異様なまでの熱意で信長のことを語っていた。彼をまるで崇拝でもするかのように、その賢明な思考と勇猛さを称えていたのである。

 その信長に対する思いは、一益を通じてしか信長を知らない、陪臣の三郎より遥かに深い。信長を喜々として語る姿は、主、一益に似たものを感じさせた。

 そんな事を考えていると、ふと軋むような音が聞こえた。

 どうやら、天井からのようである。三郎が薄暗い天井に目をやると、音は一度止んだが、しばらくして、今度は規則的に軋み始めた。

 やがて、その薄暗い天井の板が数枚外れ、ぽっかりと真っ暗闇が姿を現した。

 そしてその暗闇から、一本の綱が降りてくる。


「!?」

 

 三郎は驚き、疑念を抱いたが、その手はすぐに綱を掴んだ。うかうかしていればここで鋸挽きである。その心に余裕もなく、今はこの綱にすがる他はない。

 三郎は腕力で綱を使い、一気に天井裏に上がる。薄暗い天井裏には、見知った顔があった。


「いや、よかった。辛うじて間に合ったようですな」


 そこにいたのは、日信であった。


「日信殿、何故ここに?」


「孫市殿からでござる」


 日信はそう言って、ここの見取り図らしき物を三郎に見せる。


「!……孫市殿が?」


「うむ。拙僧にこの地図を渡され、苑也殿が捕らえられているので、いいようにせよとな」


 三郎はよく理解できないまま、その見取り図に目を凝らす。その図には、裏口から床下を通り、この地下の天井に入るまでの道のりが、詳細に描かれている。


「ここは、どこなのですか?」


「鳥居小四郎の屋敷でござる。武家屋敷が集まる一角の、一番奥じゃ」


 日信はそう答えて、改めて胸を撫でおろした。


「しかし、本当に良かった。おぬしにもしもの事があれば、拙僧は殿に合わせる顔がない」


「……殿?」


 三郎は、首を傾げる。


「なんじゃ、気づいていなかったのか。牧野じゃ。牧野甚兵衛じゃ」


 そう言ってにっこり笑う日信に、三郎は驚愕の表情を見せるのだった。


 鳥居小四郎の屋敷を脱出した二人は、一度、下間屋敷に戻った。

 三郎には一つ、下間屋敷に戻ってやっておかなければならないことがあったからである。

 もちろん、大手を振って帰るわけにもいかない。幸い頼廉はおらず、三郎はかねてから書いていた文をひっそりと頼廉の部屋に残し、屋敷を出た。

 二人はいま、寺内町を南に向かって走っている。


「牧野様…」


 そう言いかけた三郎を、甚兵衛は手で制す。


「苑也殿、任が終わるまで、おぬしは苑也、儂は日信じゃ。それを貫き通さねば、何があるかわからん。油断はならんぞ」


「はい」


 三郎は素直に、頷く。


「しかし、そうなるとあの男は何者だったのでしょう。私に接触してきて、間者として下間屋敷に連れて来られ殺されたであろう、あの男は?」


「うむ……拙僧も知らぬ男であったな。殿もここに来られた時、心当たりはないと仰っていたのだな?」


「はい。あるいは甚兵衛様かも、と」


 三郎は小四郎の屋敷を脱出してから、石山本願寺に来てからの大きな事柄を、甚兵衛に説明しながら走っていた。

 特に甚兵衛がらみの話は、率先して語っている。


「何かの間違いか、行き違いか……なんにせよ、その男がおそらく死んでいると言うのなら、もはや真相もわかるまい。それにもう、必要のない懸念かもしれん」


 確かに織田の間者のこの二人が、ここに戻ってくることはもう二度とないだろう。


「しかし以前、殿がここに来られた時は、驚きました。危険でありましょうに」


「殿は、そこら辺りの間者とは違う。甲賀の出じゃ。間者と言うよりは、忍びじゃな」


「忍び、でございますか」


 三郎はその忍びと言う響きに、何か底知れぬものを感じた。

 間者や忍び、隠密や草など、他国で諜報調略をする者達の呼び名は、様々であった。しかし、伊賀や甲賀の忍びとなれば別格であり、間者と言うよりは、暗殺者のような印象もあった。


「殿が甲賀の出であること、知らなかったか。ふむ、これは少し喋りすぎたかな」


 甚兵衛信は、そう言って笑った。それなりに秘匿すべき話なのかも知れない。

 寺内町を出た二人は、さらに南の信長の陣に向かおうとしていた。

 信長出陣の情報を、甚兵衛は掴んでいた。その陣中にいる一益と合流して、孫市が信長を狙っていることを伝え、その出陣を思いとどまらせるためである。

 しかし、三郎はその途中で足を止めた。


「どうした?」


 甚兵衛は振り返り、足を止めた三郎を見る。


「このまま陣に戻って、いいのでしょうか。孫市殿の言うように、ここが上様の乾坤一擲の勝負の時だとするならば、御出陣を御再考頂くのは、難しいのではありませんか?」


「……確かに、そうかも知れんが」


 歯切れ悪くそう言う甚兵衛に、三郎は意を決して口を開く。


「……日信殿。やはり私は、あの丘に行こうと思います。そして、何としてでも、孫市殿の狙撃を止めたいのです」


「危険じゃ……戦は乱戦になろう。おとなしく、殿のもとへ帰るのだ」


 甚兵衛は、そうかぶりを振った。


「日信殿。孫市殿の目的は、何だと思われますか?」


「それは……上様を撃ち、亡き者にしようとしているのだろう」


「私には、孫市殿が迷っているように見えたのです。そうでなければわざわざ、上様を撃つことを告げて、私を逃がすなど……」


 それが三郎が牢屋で見た、率直な孫市の姿であった。


「止められるものなら、止めてみろと言うことか。確かにあの御仁なら、あり得るかもしれんが……」


「上様に、御出陣を御再考頂けるかどうかわからぬまま帰陣するならば、二手に分かれて、私は孫市殿を追うべきではないかと思うのです。上様のお命がかかっている以上、危険は承知の上でございます」


「しかし……」


「そもそも私が石山本願寺に潜入したのは、上様への狙撃を、未然に防ぐためでございます。にもかかわらず、雑賀孫市に上様を撃たせたとあっては、私も生きてはおれますまい」


 三郎の言葉に、甚兵衛は目をつぶり、腕を組んで考え込んでいたが、やがて意を決したように、目を開けた。


「……よし、わかった。確かに上様が撃たれては、元も子もあるまい。孫市に迷いがあるなら、そこに付け入る隙があるかも知れん。しかし、くれぐれも用心するのだぞ。孫市は敵だということ、忘れてはならん。こちらも殿にお願いして、何とか上様に御出陣を思いとどまって頂けるよう、注進しよう」


「心得ました」


 三郎はそう言って深く頷き、天王寺方面に駆け出した。

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