信長、出陣
それから幾許かの間の内に、暗闇から地下牢へ、再び気配が忍び寄ってくるのがわかった。
「よう、偽坊主」
陽気なこの声の主を、三郎は良く知っていた。
「孫市殿……」
三郎は、薄暗い牢屋に向かって顔を近づけて来る孫市に、涙の後を見られぬように、慌てて袖で頬を拭う。
「泣いていたのか。まったく、間者としての覚悟が足らんのではないか?」
孫市は、そうからかうように言って、牢屋の前にあぐらをかく。
「……いつから、いつから気づいていたのですか」
三郎は、もう隠し立てすることもなく、身体を震わせながらも、素直にそう尋ねる。
「いつだと思う?」
「……わかりませぬ」
三郎は背中を丸めたまま、そう答える。
「あれは、去年の五月頃だったか……」
「ご、五月……」
三郎は、目を丸くする。
「俺は、信長の戦が見たくてな。武田との戦を探りに、その頃三河に行っていた。確か、これは前におぬしにも話した気がするな。その戦の後、そのまま雑賀に帰るつもりだったのだが、にわかに越前が騒がしくなってきた。結局、事のついでに、信長の越前討伐を見るために、越前から北回りで雑賀に戻ることにしたのだ」
越前討伐、つまり信長の一向一揆殲滅の最中と言えば、ちょうど三郎が一益に、命を受けた頃である。
「戦の趨勢がほぼ決したのを見て、俺は若狭から南に抜けて帰ろうと西に向かっていたのだが、その国境の近くで、面白いものを見たのだ」
「……」
「何とも不思議な光景だった。若い坊主が火縄銃を構えて、同じ年の頃の坊主を撃ち殺していたのだ。その坊主の火縄銃を構えた姿がまた、遠目にも美しくてな。
その後、石山本願寺の寺内町でその坊主を再び見つけた時、思わず声をかけた。そして、その坊主が刑部卿殿の甥御だと聞いた時、合点がいった。ああ、こいつはおそらくあの時、本物を殺して成り代わったのだと。そんな事をする奴は、織田の間者以外におらんだろうとな」
三郎は、孫市の語る話に愕然とした。この男は、初めから知っていたのだ。
「間者とわかっていて、何故今まで……」
「初めは、早々に刑部卿殿にお教えしようと思っていたのだがな。面白いことに気がついたのだ。この男はどうも、俺を探ろうとしているのではないか、とな。これは痛快な事だぞ。あの信長が俺を、雑賀孫市を恐れているのだ。わかるか?俺の事が、気になって仕方がないと。おぬしの存在は、その動かぬ証拠なのだ」
孫市は、明らかに興奮していた。
話が後半になるにつれて、早口になるその姿は、初めて見る姿であった。
「それでしばらく、様子を見ることにした。間者であるおぬしを見るのは、面白かったからな」
「それが何故、今になって……」
「信長が来るからだ。奴は、包囲された天王寺砦を救いにやって来るぞ」
孫市は、声を弾ませてそう言う。
しかし、それが理由の全てではないことを、三郎は知らない。
「……織田勢は、急なことで軍勢うまくが集まっていないと聞いております。大軍に囲まれた天王寺砦の救援に来るのは、自ら死にに来るようなものです……来るとは思えませぬ」
信長は、天王寺砦に籠る明智光秀の救援要請を受けて、諸国に陣ぶれを発して兵を集めたが、思うように集まっていなかった。それはすでに、石山本願寺の知るところでもあった。
「来る。信長は必ず来る」
孫市は、そう断言する。
「信長は、勝負所を知っている。原田備中を失い、もし今また天王寺砦に籠る重臣達を見殺しにしたとあっては、信長の面目は丸つぶれだ。そしてその評判が自身にとって、致命的な事になりかねないこともわかっている。
ここは信長にとって、勝負所なのだ。それは奴が、桶狭間で今川を破った時に似ている。例え兵が少なくとも、その先頭に立って突き進んでくるぞ」
孫市は一息にそう言って、目をらんらんと輝かせた。その姿は、平素の飄々とした孫市とはかけ離れている。
「だから、俺は撃つ。信長を、撃つ」
孫市は、そう言って立ち上がる。
「さて、そろそろ頃合いか。俺も、ここへは忍んできているのでな。そろそろ退散するとしよう。おぬしが死ぬのが先か、信長が死ぬのが先か……楽しみだな」
「お待ちください。どこから、撃つおつもりですか。この間共に行った、あの丘からですか?」
おそらく最後になるであろう会話に、三郎は狙撃の話を出す。
「……命乞いをしないのは、褒めてやらねばならんかな。しかし、それが気になるなら、己で探してみせろ」
孫市はそう言って、暗闇の中に消えていった。
「己、で?」
三郎はよく理解できないままそう口にして、呆然とする。
ひんやりとした牢屋は、再び沈黙を取り戻した。
その頃、信長はすでに、天王寺砦を包囲する本願寺勢を強襲することを決断し、その準備を進めていた。
集まった織田勢三千に対し、膨れ上がった本願寺勢は、一万五千。
結局、足軽の数はそろわなかったものの、滝川一益や羽柴秀吉、松永久秀などの将達とその重臣は集まり、少数精鋭と言っていい軍容となっていた。
天正四年(1576年)五月七日。
織田勢精鋭三千は、信長の下知に従い、河内若狭城を出陣した。
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