孫市の賭け

 四月も終わり頃になると、石山本願寺周辺では、両軍の小競り合いが起こり始めた。

 臨戦態勢に入った両軍は、一触即発の状態ではあったが、本願寺方から大規模に戦端を開く動きはなかった。法主顕如の方針はあくまでも堅守であり、籠城戦でのみ勝算、つまり負けのない戦ができるだろうというのが、衆目の一致するところでもあった。

 攻める織田方の最大の障害は、やはり石山本願寺西方の水路を守る砦群である。

 すでに西側以外を完全に包囲した織田勢は、五月に入り、原田直政の守る天王寺砦に明智光秀らを入れて大軍を集結させ、西方砦群をうかがう姿勢を見せ始めた。

 その最終的な目的は、本願寺補給路の要である、難波水路の遮断に他ならない。

 孫市ら鈴木一党は、この時すでに石山本願寺南部に築いていた砦を離れ、楼の岸砦に入っていた。


「敵の総大将は誰か?」


「原田備中と見受けられます」


 石山本願寺周辺の地図を見ながら、孫市の問いに無二が答える。孫市にとって、無二は軍師のような存在だといっていい。

 本願寺方から総大将と目されていた信長の家臣、原田備中守直政は、畿内の要地南山城と大和二か国の統治を任されている守護で、織田家中でも有数の勢力を誇る武将であった。

 原田直政は、元の名を塙直政といったが、九州の名族原田の姓を下賜され、備中守に叙任されたことからも、信長の期待がうかがえる。

 綺羅星の如き織田家臣団の中でも、今もっとも旬な男、と言っていい。羽柴秀吉や滝川一益の、好敵手の一人であった。


「敵の狙いは木津砦か、三津寺砦か……」


 孫市らと共に、地図を眺める雑賀荘の頭目の一人、岡太郎次郎は、腕組みしてそう呟く。

 現在孫市らがいる楼の岸砦は、石山本願寺の北西近くに位置する。木津砦はその南西木津河口近くにあり、三津寺砦はその中間に位置する。


「奴らは、三津寺に来る」


 孫市は、躊躇なくそう断言してみせた。


「……その根拠は?」


「最終的に三津寺を取らんと、難波水路は封鎖できんからだ。三津寺を取れば、木津は立ち腐れする」


「しかし……三津寺砦は、ここ楼の岸砦に近いし、石山本願寺にも近い。天王寺から攻めれば包囲される形にもなる。我らが援軍を警戒するなら、木津砦から攻めるのではないか?」


 戦の常道を考えるなら、その太郎次郎の考えは至極真っ当なものであろう。


「太郎次郎、戦はある種の賭けだ、と俺は思っている。三津寺は寺に毛が生えた程度の防御力で、木津砦ほど堅固ではない。奴らは大軍で攻め寄せれば、早々に落とせると考えているだろうし、事実そうだろう。しかし、それは俺たちが討って出ない場合の話だ。そして、原田備中は、俺たちが野戦には出てこないと踏んでいるだろう」


 孫市は、指で地図をたたきながら、太郎次郎の目を見る。


「……何故そう言える?」


「奴らが俺たちを、舐めているからだ。野戦で本願寺は織田に勝てんと誰もが思っている。俺たちが南の砦にいる時、目と鼻の先で築城される天王寺砦を指をくわえて見ていたのは、原田備中に石山本願寺には、もはや籠城戦しかないと思わせるためだ。そもそもこの包囲が始まった時から信長ですら、攻城戦にばかり意識が向いているはずなのだ」


 それは信長のみならず、天下の衆目の一致するところであった。


「しかし、織田勢が我らより野戦に優れるのは事実だ。その上、大軍でもある。それに攻めかかるのは剣呑ではないか」


 額を合わせて地図をのぞき込む太郎次郎は、孫市の考えにまだ納得していない。


「だから言っただろう、賭けだと。奴らの進路を三津寺に賭けて、先に布陣し奇襲をかける。あそこの林を、野戦築城に見立てて布陣すれば、地の利は、俺たちにある」


「……敵の目標が木津砦だったら?そのまま野戦を仕掛けるのか?」


「その時は、ここ楼の岸に引く他ない。見通しの良い木津で野戦は仕掛けられん。木津砦の堅牢をあてにして、善後策を講じるしかなかろう」


 孫市の奇襲策に、腕組みして考え込んだ太郎次郎は、やがて何度か頷いた。


「……わかった、従おう。おぬしが言うなら、他の雑賀の頭目も納得するはずだ。しかし、あの門徒衆の大将が承知するかな?」


 本願寺勢の全体的な統率は、頼廉や仲孝ら下間家坊官が行っていたが、雑賀衆の行動に関しては、ほぼ孫市の裁量に任されていた。この楼の岸砦に駐留する、一万を超える本願寺勢の約半数は、孫市が代表として率いる雑賀衆であったが、残りの半分は、全国から集められた門徒衆であった。

 この門徒衆は、孫市とは別に石山本願寺から派遣された男が、大将として任されている。


「太郎次郎、承知させるのはおぬしの役目だぞ。俺が言ってもあれは聞くまい」


 孫市はそう言って、昨日対面した男の顔を思い出した。

 男の名は、土山左門という。


「確かにあの男、おぬしに対して随分反抗的な態度であったな。以前から知っているのか?」


「まあ少し、といったところか」


 孫市が苦々しい顔をしたのも無理はない。

 その男、土山左門は、先日、鳥居小四郎と共に織田の間者らしき男を連れて、下間屋敷にやって来た、供回りの中にいた男なのである。


「なあ、太郎次郎。そもそも、何故徳の高い僧を大将にせんのだ。戦上手とは聞いているが、よくわからん男が大将でよいと思うか」


「おそらく、越前のことも関係しているのではないか?門徒の反感を買っては戦にならん」


 太郎次郎は、孫市をなだめるようにそう呟く。

 昨年信長に鎮圧された越前の一向一揆は、そもそも武士同士の争いに端を発した土一揆であったが、石山本願寺から派遣された坊官を指導者として受け入れることで、一向一揆に変貌したものであった。

 しかし、指導者である坊官らと一揆勢は次第に対立を深め、結局内部から崩壊することとなってしまった。

 その原因は、その坊官らの粗暴で非道な振る舞いがあったというが、背景には、浄土真宗と一向宗という、似て非なるものの立場の違いもあった。それ故に門徒の指導者として、僧侶ではなく立場の近い地侍を大将にすることは、この差し迫った状況では、無用な軋轢を避けるための苦肉の策といえた。


「……まあいい。納得しなければ、刑部卿殿を介して動かす。無二、支度せよ」


「はっ……但、叫べ」


「おう!……者ども、戦支度じゃ!」


 部屋を出た但中がその巨躯に負けない大声で号令をかけると、一斉に地鳴りのような鬨の声が上がる。

 ついに戦が、始まろうとしていた。

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