未明の行軍

 石山本願寺周辺が、異様な緊張と静けさに包まれている中、三郎は、夜の闇の中をたった一人で楼の岸砦へ向かっていた。

 もはや一刻の猶予もない。信長が戦場に出てくる前に、とにかく孫市の周辺にいて、一つでも多くの情報をを掴むより他はない。

 それでも何も掴めなければ、その時こそが、引き時であろう。

 三郎はすでに、石山本願寺の脱出を考えていたのである。

 楼の岸砦は、石山本願寺の北西近くにあり、そこまでの道程は石山本願寺の勢力圏内であった。

 その道の闇の中に、多数のうごめく人間が見える。

 この道筋で出会う軍勢は、当然本願寺勢ということになるが、不意に現れた大軍に三郎は身を屈めて様子をうかがう。

 軍勢の中に立つ無数の旗には、「進者往生極楽退者無間地獄」の文字が見えた。

 進めば往生極楽、退けば無間地獄。

 一向一揆の軍勢が、多く掲げていた文言である。

 どうやらこの軍勢が、石山本願寺勢であることは間違いないようであった。三郎はいくらか警戒を解いて、ゆっくり立ち上がる。


「苑也様ではありませんか」


 近くの草むらから不意に人影が現れた。三郎は仰天し、思わず飛び退く。

 月明りに照らされたその人影は、十ヶ郷鈴木党の一人で孫市の側近、無二であった。


「なんと……無二殿か。驚きましたぞ。一体、このようなところで何を?」


「物見ですよ。もし苑也様が織田の物見だったら、後ろから一刺しで仕留めておりました」


 無二は、物騒なことを平然と言ってのけた。三郎の背中に冷や汗が流れる。


「物見、ということは……あのお味方の軍勢は、どこかに攻め入るのですか?」


「伏兵でございます。三津寺砦に向かってくる織田勢を、待ち伏せいたす」


「ということは……三津寺砦に向かう、織田勢の動きを掴んでおると?」


「わかってから動いても遅うございます。お頭は織田勢が三津寺砦を攻めると踏んで、奇襲を仕掛けるつもりなのです」


 夜討ちや朝駆けは、戦の常道の一つである。おそらくその朝駆けをしようとする織田勢を、兵を潜めて待ち伏せする算段であろう。


「なるほど……で、孫市殿はいずこに?」


「お頭は、ここにはおりません。すでに別に単独行動で、敵総大将原田備中を狙っております」


「なんと……!」


 孫市は、雑賀衆の総大将といっていい人物である。そんな男がかつての杉谷善住坊の如く、刺客のように動いているという事実に、三郎は驚かざるを得ない。


「苑也様、雑賀の孫市が鉄砲で敵総大将を討ち取らねば、世間に面目が立ちますまい。噂好きの京の公家どもの鼻を明かしてやると、張り切っておりました。原田備中を討ち取れば、戻って参りましょう」


 三郎の驚きを見た無二は、そう言って笑う。

 この国の文化の中心は、いつの世も京の公家衆であった。孫市の半ば伝説的に語られる、射撃の腕に懐疑的な連中の度肝を抜いてやろうというのは、いかにもあの男らしい。


「しかし……こんな夜更けに苑也様はどちらに?」


「いや、天王寺砦の織田勢が不穏な動きを見せていると聞いて、孫市殿に今後の方策を伺おうと思い立ち、居ても立っても居られず、楼の岸砦に参ろうと思って来たのですが……事はもう動き始めているようですな」


 月明りの下、大軍は戦の準備を整えつつあるようだったが、今はまだ、ざわざわと騒がしい。その姿からは、緊迫したものはまだ感じられない。


「そうだ。どうでしょう無二殿、私も十ヶ郷の方々と共に、戦場について行ってもよろしいか?」


「それは……危のうございますぞ?」


 三郎の提案に、無二はわずかに顔をしかめる。雑賀衆からすれば、戦の荷物を一つ増やすことになるのだ。


「それは承知の上。是非、お願いしたい」


「……苑也様に是非と言われれば、仕方ありますまい。しかしいざという時は、御自身の身は御自身で守っていただきますぞ?」


 無二の言葉に、三郎は無言で頷く。どうやら孫市のいない鈴木党では、無二の権限は大きいようであった。


「では私は引き続き、織田の物見を潰しながら、三津寺砦辺りまで様子を見て参ります。後陣に蛍らが居ります故、奴らと共に動いて下され。では」


 無二はそう言って頭を下げると、再び夜の闇の中に消えた。

 石山本願寺の兵たちは、まだ騒めいてる。


(いよいよ、合戦か……)


 三郎にとって、実戦は初めての経験であった。兵達を見ていると、徐々に緊張感が高まってくる。

 未明の行軍が始まろうとしていた。

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