鋸挽きの恐怖

 一益が、石山本願寺に姿を現して程ないある冬の日、下間屋敷に孫市がやって来た。


「伯父上なら、所用でおりませんが……」


「知っている。御法主と寺巡りであろう?」


 この日顕如は、頼廉や仲孝ら側近を連れて、石山本願寺近くの寺院に出向いていた。

 近々行われるであろう、石山本願寺再決起への根回しである。


「少し近くに来たものでな……おぬしの顔を見に来たのだ」


「孫市殿もお忙しいのではありませんか?」


 三郎は、つい先日の、急いで南町屋を出る孫市の姿を思い出した。


「おお、忙しい忙しい。今日もな、城づくりの手配だ」


「城づくり?」


 首をかしげる三郎に、孫市は南の方角を指さす。


「ここはもともと守りやすい地形でな。縄張の時点ですでに防衛を想定して、強固な配置になっている。しかし俺の見るところ、南にある砦は規模が小さく、いかにも不十分だ。そこで、南の巨大な堀に沿って、火縄銃が扱いやすい砦を築く。そうすれば、この石山本願寺は、鉄壁となろう」


 石山本願寺を囲むように流れる川は、外堀の役割を果たしており、外敵の侵入を阻んでいた。

 この堀と砦に、雑賀衆の火縄銃が加われば、この城は難攻不落となるだろう。


「しかしお忙しいのならば、ここにいてよいのですか?」


 三郎の問いに孫市が口を開こうとした時、二助が別の来訪者の存在を告げた。


「おお……孫市殿もお越しか」


 日信は部屋に入ってくるなり、孫市を拝む。


「……孫市殿も日信殿も、お暇なのですか?」


 三郎はそう言って、二人を交互に見た。


「おいおい苑也殿。俺からすれば、刑部卿殿や少進殿が御法主について行っているにもかかわらず、供もせず番をするおぬしたち二人の方が、よっぽど暇に見えるがな」


「尋ねてきたのはお二人でしょう。私は、それなりに忙しゅうございます」


「……ならば正真正銘、暇なのは破戒僧か」


「なるほど……拙僧は、確かに暇でございますなあ」


 日信は、あくびをする仕草をしてそう答えた。


「……皆さんお暇にみえますよ」


 そう言ったのは、三人分の白湯を持ってきた二助である。

 最近は、こうして下間屋敷に二人が来訪することが度々あった。そしてこんな他愛のない会話をするほどに、日信も打ち解けていた。もっとも孫市は、本人を前にしても、日信を信用していないと言い切っていたが。

 しばらくすると、二助が再び部屋に入って来た。困惑した表情を浮かべている。


「苑也様、鳥居小四郎様がいらっしゃっておりますが……」


「……鳥居殿が?」


 二助の口から出たのは、意外な人物の名であった。


「苑也殿、あの男と親しいのか?」


 その名を聞いて、孫市は一瞬で不機嫌な表情に変わる。


「まさか……話したこともほとんどございません。伯父上に御用でありましょう」


 三郎はそう否定したが、顕如の右筆である小四郎が、顕如と共にいる頼廉の不在を知らないとも思えない。そうすると、何故の来訪であろうか?


「……そもそも、なぜあやつがここにいるのだ。右筆なら、御法主の供をするべきだろう」


 孫市はそう苛立たしげに呟いたが、顕如の右筆は小四郎一人ではなく、供をしていないこと自体はさほど不思議なことでもない。


「……まあとりあえず、門まで出迎えてはいかがですかな?」


 日信に促され、三郎と孫市はやむなく腰を上げた。

 三人が門まで出てくると、鳥居小四郎が、敷地内の大きな石に腰をかけて待っていた。

 小四郎は数人の供を連れていたが、その中に後ろでに縛られた男が一人、立っていた。左右から肩を掴まれたその男は、深く首を垂れて、その表情をうかがい知ることはできない。


「お待たせをいたしました。鳥居殿」


「……確か苑也殿、でございましたな。此度は急な訪問、御容赦くだされ。実は、ここに孫市殿がいると聞いて参ったのですが」


「俺になんぞ御用がおありか?」


 小四郎の言葉に、孫市が一歩進み出る。


「おお、孫市殿、ご覧あれ。大きな鼠を一匹、捕まえたぞ」


 小四郎は後ろ手に縛られた男の髪を掴み、無理やり顔を上げさせた。

 その顔を見て、三郎は息をのんだ。

 何故ならその男が、先日寺内町で三郎に声をかけてきた、牧野甚兵衛と思しき人物だったからである。


「この男、数日前から本山の様子を探っていたらしいのだ。まず、織田の間者とみて間違いなかろう」


「ほう、それは結構なことだ。早々に番所にでも突き出すがよろしかろう」


 孫市は、興味なさげにそう言い捨てる。

 三郎は、その隣でゆっくりと呼吸を整え、小四郎の様子をうかがう。


「そのことなのだがな、孫市殿……私は常々、思っていることがあってな。とにかく番所の対応は甘すぎる。いかに仏の教えがあるとは言え、厳しい詮議もせずにただ追放するだけとは、合点がいかん」


「……確かに、甘いかもしれませんな」


 孫市は珍しく小四郎に調子を合わせ、視線を日信に向けた。

 視線を向けられた日信は、激しく左右に首を振りながら、合掌する。


「そこでだ、孫市殿。貴殿にやっていただきたいことがある」


 小四郎はそう言いながら、縛られた男の首に手刀を当て、引く仕草をする。


「この男を、鋸挽きに処していただきたい」


 その小四郎の言葉に、三郎は耳を疑った。


「……御冗談を」


 孫市が一瞬の沈黙の後、笑みを浮かべてそう言ったのは、この男にとっても小四郎の言葉は、予想を超えていたのだろう。


「冗談などではない。鋸挽きでゆっくりと首を引き裂きながら、この男の目的を吐かせるのだ」


「とても仏門に帰依する者の言葉とは思えんな。御法主がお許しになるはずがなかろうが」


 孫市は、そう吐き捨てるように言う。


「だから、孫市殿にお願い申し上げているのだ。貴殿には、この男を鋸挽きにできる理由があろう」


「……理由?」


「かつて信長を狙撃した杉谷善住坊は、貴殿とは親しい間柄であったと聞いておりますぞ。その善住坊は、信長の命で鋸挽きにされた。これは、意趣返しというものではありませんか」


 杉谷善住坊は、かつて近江千草街道で信長の狙撃に失敗し、数年の逃亡ののち捕らえられ、鋸挽きによって処刑された人物である。その残酷な死に様は今も語り草になっており、信長の残虐性を示すものとして、反信長陣営から喧伝されることもあった。


「善住坊など知らぬ。あの間合いで信長を仕留め損なう男など、俺は知らぬ」


 孫市のその口ぶりは、暗にその間柄を肯定しているようでもあった。

 しかし、それを認めないのは、善住坊が暗殺をしくじったからであろうか。その時、信長を狙撃した善住坊の間合いは、十二、三間であったというが、孫市の間合いが本当に百閒以上であるのならば、その間合いは児戯に等しいのかもしれない。


「……孫市殿、間者からもたらされる知らせが戦局を動かすことは、もはや自明の理であろう。善住坊が信長を撃つ機会に恵まれたのは、信長が千草街道を通ることを知っていたからじゃ。今間者に情けをかけることは後々、御法主様を危険にさらすことになるかも知れぬ。それでもよいとおっしゃるか」


「その男が、まこと織田の間者とおっしゃるなら、ただちに首をはねればよろしかろう。鋸挽きのようなやり方が、好かんと言っている」


「……どうしてもやらぬと?」


「くどい」


 孫市は短くそう言う。その態度には、小四郎への軽蔑がありありと見て取れた。

 小四郎は、しばらく孫市の顔を眺めていたが、やがて諦めの表情を浮かべる。


「ふむ、ならば……いたしかたない。しかし、意外なことでありましたな」


「……なにが?」


 孫市は、天を仰いで呟き、小四郎と視線を合わせなかった。顔を見ると、怒りが爆発してしまうからだろう。


「世人が言うには、雑賀衆は御法主様の猟犬であるそうな。その犬のごとき忠誠心と、善住坊の敵討ちという大義があれば、やってくださるかと思っておったがな。天下の雑賀孫市も、仏罰を恐れなさるか」


 小四郎はそう言うと、わずかに笑い声を漏らした。その供回りも目配せをして笑う。

 孫市は、天を仰いだまま微動だにしなかった。

 しかしその心情は、握りしめられた拳から推して知ることができた。


「では我々は、これで失礼するといたそう。孫市殿が承知なさらないのならば、御法主様がお帰りになるまでに、この男の処分を考えねばならんからな」


 そう言った小四郎は、供回りを顎で使い、縛られた男を引きずるようにして屋敷を出た。

 縛られた男はその最中、一瞬三郎に視線を向けたが、すぐにうなだれて引きずられていった。

 その視線に一瞬で我に返った三郎は、一人で一行の後を追う。


「お、お待ちください」


「なにか?」


 門のすぐ外で一行を呼び止めた三郎に、小四郎は怪訝な表情を浮かべる。


「まさか、本当に鋸挽きに処すおつもりですか」


 そう慌てて尋ねる三郎の頭には、この縛られた男が牧野甚兵衛ではないかという心配だけが、駆け巡っていた。


「さて、どうしますか……まあ鋸引きが、拷問としても一番よろしいでしょうな。鋸を一度挽く度に、その目的を吐かせ、また一度挽く度に、仲間の間者の居所を吐かせまする。本願寺には、まだまだ織田の間者が潜んでいるはず。どれだけ耐えられるか楽しみですな」


 その小四郎の言いように、三郎は激しいめまいを覚えた。


「……しかし、苑也殿。貴方は刑部卿法眼様の縁者とうかがっておりますが、あまり孫市のごとき男と親しくすることは、どうですかな」


「……どういう意味でございますか」 


 三郎はかろうじて声を絞り出す。


「苑也殿、あやつがどんな人物かご存知ですか。あの男は若い頃、自らの兄と供に火縄銃を暴発させ、その傷がもとで兄は家督を継げなかったとか。その頃、雑賀ではもっぱら、孫市の名を継ぐためにあの男が銃に細工して、わざと暴発させたとの噂もあったと聞いております。あの男は信用なりませんぞ」


「それは何かの間違いでございましょう。孫市殿は、そんなことをするお方ではありません」


 三郎は自らも驚くほどに、語気を強めて否定した。からからの喉から、その言葉だけははっきりと流れ出てきた。

 小四郎は、そんな三郎の姿に一瞬眉間にしわを寄せたが、口に出しては何も言わず、足早に下間屋敷を後にした。三郎は、大きなため息をつく。

 三郎が屋敷に戻ると、孫市は先程の姿のまま立ち尽くしていた。


「……さあさあ、苑也殿、孫市殿。ここは冷える。中に入りましょう」


 そばにいた日信は、一度大きく手をたたき、戻って来た三郎を待ってそう促す。

 屋敷の広間に戻った三人は、しばらく沈黙の中にいたが、不意に鈍い衝撃音が、辺りに響いた。

 振動で揺すられた三郎が、驚いて視線を向けると、孫市が床に拳を打ちつけて、大きく息を吐いていた。人並外れた膂力をもつ孫市の拳に、空気は震え、柱と床が軋む音が響く。


「……しかし、よく耐えられましたな、孫市殿。拙僧は話の途中で、鳥居殿の面を殴りつけてしまうのではないかと、肝を冷やしましたぞ」


 日信は、そう言って少し大げさに笑う。


「……別に、怒っているわけではない」


 孫市は突き立てた拳を撫でながら、不機嫌な表情を浮かべる。

 顕如の信頼が厚いと言われている小四郎に手を上げることは、孫市と言えども剣呑なことであろう。日信の言うとおり、孫市は耐えたのだ。


「……鳥居殿は、本当に鋸挽きをするつもりなのでしょうか?」


 三郎はは、引っ張られていくあの間者の姿が頭から離れなかった。たまらずそう口に出す。


「まさか……仮にも御法主様の右筆まで務めているお方が、そのような仏の道に反する非道な行いは、いたしますまい」


 そう言ったのは、日信である。


「いや、あの男はやる」


 腕組みした孫市は、日信の言葉をすぐさま否定した。


「しかし……その様な非道、御法主様がお許しになりますまい。先程、孫市殿もそうおっしゃっていたではありませんか」


「奴が連れていた供回りを覚えておるか?あの様子から察するに、あの連中は奴とかなり気脈が通じているとみていい。あのような閥をつくっているとするならば、御法主や側近に気づかれることなく、秘密裏に鋸挽きやら、拷問やらもできるだろう」


 三郎はその孫市の言葉に、先程小四郎と目配せしながら、笑いあう供回りの男たちの姿を思い出した。つまり彼らは、同じ穴のムジナ、ということであろうか。


「ならば……苑也殿にお願いして、刑部卿様の御耳に入れておいたほうがよろしいでしょうな」


「知らせてどうする。奴らは、秘密裏に事を運ぶこともできるのだ。否定されればそれまで、証拠を残すようなへまをするとも思えん。そもそも、織田の間者がどうなろうと俺の知ったことではないし、始末すること自体は反対ではない。俺はただ、自らが鋸挽きなどという下らんことをしたくないだけだ。奴が鋸挽きしたければ、させればよかろう」


 孫市の考え方は、簡潔であった。

 確かに捕らえられた間者の末路など、程度の違いはあれど似たようなものであろう。再び信長が、仏敵として石山本願寺の脅威となるなら、容赦はできない。


「そういう意味では、おぬしは運が良かったな、破戒僧。捕まるのが今少し遅かったら、ただではすまなかったぞ」


「いやいや、孫市殿。未だにお疑いのようだが、拙僧は間者ではありませんぞ。仏の教えを乞いに来たのです」


 そう言って日信が大げさに合掌した時、二助が冷めた白湯を入れ直して入って来る。

 その後は、白湯で体を温めながら戦の準備の話などで時が流れたが、三郎は上の空であった。


(もしもあの間者が、牧野甚兵衛様ならば……鋸挽きや拷問に耐えかねて、私のことを喋るだろうか。そして私も捕まれば、竹の鋸でゆっくりと首を挽かれるのだろうか……)


 三郎は、夜一人になっても、そのことばかりを考えていた。

 もし三郎が本物の苑也を殺し、それになりすました間者として捕らえられたら、頼廉や下間家の人々はどう思うのだろうか。孫市や蛍たち雑賀の人々はどうであろうか。彼らは三郎に、どんな目を向けるのだろうか。

 そんな考えで眠れずにいると、己の考え違いに気付く。


(私は、己のことばかり考えている……)


 あの間者が牧野甚兵衛ならば、その無事を願うことが先ではないか。そして、救出する方策も考えなければならない。

 しかし、そんな都合のいい手段が、簡単に浮かんでくるはずもない。

 結局三郎は、あの間者が牧野甚兵衛でないことを祈るより他なかったのである。


 この月、顕如はついに全国の門徒に檄文を発し、石山本願寺への集結を促した。

 これはもちろん、信長への宣戦布告でもあった。

 戦いの火蓋は、再び切られようとしていた。

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