孫市と一益
一益と別れた三郎は、急いで下間屋敷に戻り、離れにある蔵に入った。
蔵の中には積み上げられた書物や掛け軸、壺などがあり、それらに交じって、目的の物も無造作に置かれていた。
それは以前、南町屋で孫市が浪人風の男と争い、頼廉に土産として持ってきた茶碗であった。
結局この茶碗は、あれからすぐにこの蔵に入れられ、それ以来誰からも顧みられることもなく、今日までここにあったのである。
元来下間頼廉という男は、物にあまり執着がないらしく、貴重な物からそうでない物まで、ここでこのように積み上げられることが多かった。人に求められれば無償で譲り渡すこともあり、おおよそ蓄財という言葉とも無縁であった。しかしそれがまた、頼廉の人徳を高めることにもなっていた。
(盗み、といえなくもないが……)
茶器の箱を小脇に抱えながら、三郎は多少そう思わないでもない。
しかし三郎は、この石山本願寺に身一つでやって来た一益に、何か報いる奉公をしなければならないのではないかと、感じていた。
三郎の身を案じる一益の心は、身にしみた。この茶器がもし千貫に化けるのならば、これに勝る忠孝はないのではないか、と。この蔵にしまわれてしまえば、二度と日の目をみることもないであろうこの茶碗は、うってつけのように思えたのだ。
(いずれ近々、ここから逃げるのだ。気にすることもない))
三郎が北町屋の橋に着いた頃には、冬空は早くも灰色の雲を茜色に染め、吹く風は冷たさを増していた。
南町屋から延びる橋は、この石山本願寺城と外界を結ぶ橋の一つであった。
陽が落ちて夜になれば、このたもとにある門は固く閉ざされ、出入りは不可となる。その封鎖を目の前にして、橋を渡る人々の往来は徐々に増えつつあり、一益はその人々を避けるように橋のたもとに立ち、往来を眺めていた。
「お待たせいたしました。これでございます」
時間がないであろうことを察した三郎は、すぐに茶碗の入った木箱を手渡す。
一益はゆっくり箱を開け、中の茶碗をのぞき込む。
「ほう……これは高麗物じゃな」
一益は目を細めて、そうつぶやく。
(確か、唐物と言っていた気がするが……)
三郎は、心配になって首を傾げた。
唐物とは、その名の通り中国から渡来したものであり、高麗物とは、朝鮮半島由来のものであった。三郎にはその違いはわからなかったが、孫市は唐物と言っていた気がする。
三郎が心配するのは、孫市がまがい物をつかまされたのではないか、ということだった。それは、唐物の方が高級であろうという、三郎の印象に起因した。
「……これは、価値のないものでございましょうか?」
茶碗を取り出し、しげしげと見つめる一益に、三郎は恐る恐る尋ねる。
「いや……まあ正直、価値は儂にもわからん。こういうものは、目利きに見せるしかなかろう。しかし、儂は気に入ったぞ。この素朴な色合いと形は、なんとも落ち着くではないか。ありがたく頂戴するぞ、三郎」
一益は、その土色をした素朴な椀を箱に戻し、三郎に笑顔を見せた。
いつの時代にも、流行り廃りというものがある。当然、茶器も例外ではない。
茶の湯の中心には、長らく唐物の茶器があったが、ここにきて少し変化が表れ始めていた。その新しい風といえるものの一つが、高麗物の茶碗である。
もちろん、その流行りも自然に発生したものではない。
その仕掛け人は、一部の茶匠たち、すなわち堺の会合衆であった。つまりその価値は、彼らの思うがままであったともいえる。
「いやしかし、此度は良い旅になった。良い茶碗も手に入り、石山本願寺もこの目に焼き付けることができたからのう。そして何より、おぬしが立派にやっておることが、一番の収穫じゃ」
一益は、茶碗の入った箱を布で包んで腰に巻きつけながら、そう呟いた。
「勿体なきお言葉、一層励みまする」
三郎は再び感激し、頭を下げた。そしてゆっくり顔を上げた視線の先に、見知った男の姿を見つける。
その男は、供を一人連れて南町屋の方からやって来た。
「!……孫市でござる」
三郎は、口の動きを悟られぬように、一益の影に隠れながら、鋭く小声でつぶやく。一益はその言葉に表情を変えることなく、わずかに目を伏せた。
「おう、苑也殿。今日も寒い中、刑部卿殿の使いかな?」
無二を供に連れている孫市は、白い息を吐きながら、三郎に笑顔をみせた。
「いや、そういうわけではありませんが」
突然の孫市の登場に、三郎は特に気の利いた言葉も出てこなかった。
「そうか……ところで、そちらの御仁は?」
孫市はそう言って、一益に目を向ける。
「私が、越前の寺にいた頃、お世話になったお方でございます」
三郎がそう答えると、一益は被っている笠の端を持ち、軽く会釈をした。
それに対して孫市も、少し頭を下げる。
「……苑也殿、残念だが今日はゆっくり話している暇がない。すぐに雑賀に戻らねばならんのでな。また、いずれ。」
孫市は三郎にそう言った後、再び一益に頭を下げ、その横をすり抜けるように、橋の向こうに去っていった。その後に続く無二も、深く頭を下げて去っていく。どうやら特に、一益に不審を抱くことはなかったようである。
三郎は、その後ろ姿にほっと胸をなでおろし、一益に向き直った。
しかし、一益の様子は少し違っていた。
「……いかがなされましたか?」
「おぬしは気づかなんだか……」
一益は、孫市が去っていった方角を見つめて、目を細める。
「火薬の匂いじゃ。もう体に火薬の匂いが染みついておる。あのような男、今まであったことがない」
「火薬の匂い、でございますか?確かにあの男は、いつも銃を抱えておりますが」
「昨日今日の匂いではない。体そのものに染みついておる、と言っておるのだ。一体、どれだけ引き金を引けばああなるのか……」
確かに常に銃を抱える孫市からは、わずかに火薬の匂いがしていたが、それを三郎は不思議に感じたことはない。しかし、一益の感じた匂いは、それとはまた別のようであった。
「よいか、三郎。おぬしには再三言ってきたが、己の引き際は、己自身で決めねばならぬ。決してあの男に、油断はならぬぞ」
どうやら一益には、孫市は容易ならざる人物に映ったようであった。
(生きて帰らねばならぬ。殿の御恩に報いるには……)
夕陽に照らされ、去り行く一益の後ろ姿に、三郎はそんな思いを強くしていた。
この日の夜、頼廉は下間屋敷の人々を広間に集めた。
石山本願寺の再びの決起が近づいていること、そしてその戦が、石山本願寺の命運を左右する、負けられない戦いであることなどを語り、それらを各々、心積もりしておくようにと告げた。
戦の足音は、間近に迫っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます