意外な訪問者

 二月になった。

 この月になっても、織田と毛利の同盟関係は表向き維持されていた。

 一月には、前年の信長の右大将昇進時に、毛利から送られてきた祝儀に対し、信長は羽柴秀吉を通じて小早川隆景に謝意を示すなど、両者の関係は良好にも見えた。

 しかしこの時代、間者はありとあらゆる所に潜んでいる。

 表向きの建前とは別に、石山本願寺と毛利の接近は、すでに信長の知るところとなっていた。

 石山本願寺と毛利だけではない。

 将軍足利義昭の精力的な活動は、信長に批判的な勢力を、再び結び付けつつあった。かつての武家の棟梁は、今も変わらず征夷大将軍であり、義昭自身の野望も、いささかの衰えもみせない。

 この征夷大将軍と石山本願寺門跡の組み合わせは、やはり信長にとって最大の脅威であった。



 二月のある日、下間屋敷の三郎は、朝から忙しく走り回っていた。

 この日、大坂湾の海路を経由して、ついに毛利から秘密裏に石山本願寺に物資が搬入されてきた。

 この事実は、将軍足利義昭の呼びかけが功を奏し、本願寺と毛利の同盟が成ったことを示すものと言ってよい。いよいよ三郎も忙しくなり、敵の仕事に精力を注ぐことになっていた。

 そんな三郎を、屋敷の廊下で呼び止めた人物がいる。

 頼廉の父で苑也の祖父である、下間頼康であった。


「忙しくしているようじゃな」


 不意にかけられた言葉に、三郎はとっさに返事をすることができなかった。苑也の母が石山本願寺を出た経緯もあるためか、頼康は苑也の存在を認めず、この日までほとんど会話をすることもなかったのである。


「励むがよい」


 三郎が返事をする間もなく、頼康は一言それだけを言って去っていった。

 その後、すぐにその出来事を頼廉に話すと、彼は満足げにうなずいた。


「そうかそうか。父上も、ようやっとおぬしが孫じゃと、認め始めたと見える。これも、おぬしの奉公をお認めになってのことであろう。ようやった、ようやったのう」


 頼廉はそう言って、満面の笑みを浮かべたが、三郎はその笑顔を直視することはできなかった。

 そんなこともあって、三郎は心にもやがかかったように気分も晴れず、部屋で大の字になって寝転がっていたが、それで何か解決するわけでもなく、無為に時が過ぎるだけであった。


(こんな時は、とにかく何も考えずに体を動かそう。それしかない)


 三郎がそう考え、無理に立ち上がったのは、このまま部屋にいては無意識に筆を持ち、写経を始めてしまいそうだったからである。

 三郎が門の前まで来ると、外から二助が入って来た。


「あ……苑也様、ちょうどいいところに。今門の外に、苑也様をお尋ねのお坊様がいらっしゃっておりますが」


「私に?……どなたかな?」


「なんでも、越前の寺で御一緒に修行をなされたとか……」


(なんだと!)


 三郎は、飛び上がらんばかりに仰天した。それは、本物の苑也の知り合いではないのか!


「……二助、実は私は先程から頭が痛くてな。とても客人には会えそうにない。そのお方には、お引き取り願おう」


「え……いや、でも……」


「お引き取りいただいてくれ」


 三郎は、その急な言葉に驚く二助には目もくれず、踵を返して部屋に戻ろうとする。


「おお……苑也殿。お久しゅうござるなあ」


 不意に間延びした声が三郎の背中に投げかけられた。なんとその客は、不躾にもすでに敷地に足を踏み入れていたのである。

 額に冷や汗を浮かべ、恐る恐る振り返った三郎は、その男の顔を見て、腰を抜かさんばかりに驚いた。

 被り笠を取って、その剃髪した坊主頭を現した男は、三郎を見て穏やかな笑みを浮かべた。

 右手に錫杖を持ち、汚れた僧体のその男は、この間者の主、滝川一益その人だったのである。



 石山本願寺は、本山や寺内町をすべて堀や土塁で囲ませた、巨大城郭都市であった。

 その寺内町の南部、清水町の突端に位置する高台に、先程、下間屋敷で再会した主従の姿がある。


「……実に雄大な眺めじゃな。このような巨大な城は、古今東西なかったやも知れぬ。これも、本願寺法主の力であろうな」


 少しづつ、傾きかけている夕陽に照らされた石山本願寺本堂を眺めながら、滝川一益は感嘆の声を上げた。

 西に目を向けると、巨大な川の向こうにいくつかの砦が見え、さらにその向こうは大坂湾である。その光景もまた、雄大であった。


「……まさか殿が、御自らお越しになるとは思いませなんだ。しかも、剃髪までなさって……」


 三郎は、一益を目の前にしても、未だ狐につままれたような心持であった。


「……戦が近かろうことは、おそらくおぬしも感じておろう。その前に一度、どうしても自分の目で石山本願寺を見ておきたくてな……髪なんぞは、放っておけばまた生えてくるわ」


 一益はそう言って高らかに笑う。

 二人の周囲には人影はなく、見通しもいい。人が近づいてきても容易に察知することができるため、気兼ねなく話すことができた。


「しかし、あまりにも危のうございます」


「なに、儂も若いころは自らの足で歩き、諜報したものよ。そう言った働きもあって、今の地位もあるのじゃ。もっとも、外からここに来れるのも今の内であろう。もうすぐ、それどころではなくなる」


「……やはり、戦になりましょうか」


「毛利の出方次第、ではあるが」


「では……お味方にも石山本願寺と毛利のことは、知れ渡っているのですか?」


「表向き、毛利は認めてはおらんが、上様はすでに、毛利との手切れは避けられんとお考えじゃ。どうやらおぬし、何か掴んでいるようじゃな」


 一益は三郎の顔を見て、笑顔を見せた。三郎は、孫市の話や自分自身が見てきた毛利の情報をかいつまんで説明する。


「そうか、毛利から物資が来ておるか……そして、おぬし孫市を見つけたか」


 そう満足気に頷く一益に、三郎はここに来て、孫市と出会い交流してきたこと、雑賀の地にも足を踏み入れたこと、そしてどうやら、それなりの信頼を得ているであろうことなどを説明した。

 三郎はそうした話をするだけで、少し肩の荷が降りた気がした。


「……孫市の射撃の腕前は、驚異的でございます。ただ、福島城の狙撃のこと、そしてその射撃の間合いがいかほどかは、いまだ掴めてはおりませぬ。面目次第もございませぬ」


 三郎はそう言って頭を下げながら、着物の袖をわずかに破き、忍ばせていた紙類を取り出し、一益に手渡す。その紙には、これまで三郎が調べてきた事柄や、石山本願寺の見取り図などが書き記されていた。


「いや、まったく恥じることはないぞ、三郎。初めての役目にしては上々じゃ、ようやった」


 一益は、三郎から受け取った数枚の紙に目を通しながら、そうねぎらう。

 三郎はその一益の姿に、無意識に頼廉の姿を重ね合わせていた。

 それはこの日、同じ言葉で頼廉からねぎらわれていたからであろうか?


(……私は一体、誰なのだろう?)


 そんな疑問も、無意識から出たものかも知れなかったが、現実の己は、身分の低い滝川家の間者の一人にすぎない。


「三郎、よう聞け」


 一益は、頭を下げたままの三郎に視線を注ぎながら、手にしていた紙を懐にしまい、語り掛ける。   


「儂は若い頃、諸国を巡って武者修行し、鉄砲の腕を見込まれて、上様に召し抱えていただいた。

 それ故に、尾張から上様に付き従う方々と違い、信頼できる一族郎党も少なく、昔から難儀をしておった。近頃は、恐れ多くも伊勢五郡の守護を命ぜられ、家臣も多く付けていただいたが、何分、股肱と呼べる臣が少ない。城の数ばかり増えて、それを任せられる者がおらんのじゃ」

 信長の家臣への評価基準は、個人の能力主義を基本とするものではあったが、やはり尾張出身の人間が、家や由縁で重用される傾向にあった。

 そんな中でも、重用される滝川一益や明智光秀は、個人の能力で評価され、出世してきた外様である。特に一益は、信頼できる一門と直臣が少なく、領国経営に苦慮していた。


「それ故に、伊勢に入ってからは忠功著しい者には滝川を名乗らせ、養子に迎え、一門衆に加えてきた。しかし、まだまだ足りぬ。織田家はさらに大きくなる。我が滝川家も、大きくならねばならぬ」


 織田家中は今や、出世競争の真っ只中であった。滝川家がその競争を勝ち抜くには、戦功だけでなく、領国経営から今回のような諜報まで、ありとあらゆることで信長に認められなければならない。そのための人材を得ることは、急務であった。

 事実一益は、幾人かの家臣に滝川の名を与え、一門の強化を図っていた。


「三郎、儂はな……ゆくゆくはおぬしにも滝川の名を与え、養子に迎えてもよいと思っておる」


「なんと……恐れ多いことでございます。私なぞ……」


「おぬしの忠節は、家中の誰もが知るところである。儂の嫡男、一忠とも幼馴染で親しい。故に将来、滝川家を支える家臣の一人になるであろうと皆思っておるし、儂もそう考えておる。さらに此度の間諜の功が加われば、上様もお許し下さるであろう。将来は城持ちも、夢ではないぞ」


 一益のその言葉に、三郎は身が震えた。


「なんと……この私が……」


 士分として取り立てられることを目標にしていた三郎にとって、それはまさに夢のような話であった。

 侍どころか、城持ちである。

 一益の言葉は、石山本願寺に来て迷いを生じていた三郎の心を、一瞬で晴らしたのだ。


「よいか三郎、おぬしはまだ若い。この石山本願寺にて様々な事柄を目にし、人々と触れ合えば、心が揺らぐこともあるかもしれぬ。しかし、役目を忠実にこなし、生きて帰ってくることができれば、決して悪いようにはせぬ。今一息、辛抱するのだぞ」


「……はっ、肝に銘じまする」


 三郎は潤んだ瞳を隠すように、深々と頭を下げた。石山本願寺に、少しでも心惹かれた自分を恥じる気持ちが奥底に広がり、涙をこらえた。


「しかし、おぬしは良い経験をしておるぞ。一忠がうらやましがっておった」


「若殿が、でございますか?」


「儂が若い頃、諸国を巡って修行していた話は、よくしておったからな。あやつも若いうちに、そういった経験を積みたいのであろう。しかし、滝川家も大きくなった。もはや嫡男を間者にはできぬ。じゃから、おぬしや牧野甚兵衛のことを、うらやましがっておるのよ」


 その一益の牧野甚兵衛という言葉で、三郎は重要な事柄を思い出した。


「実は先日、甚兵衛様らしきお方にお会いいたしまして……」

 三郎はそう言って、先日接触してきた得体の知れない男のことを話した。その男は、三郎が間者であることを知っており、その口ぶりから、それが牧野甚兵衛だったのではないかと思い当たったことを説明する。


「……その男、名乗ってはいないのだな?」


「名乗ってはおりません。確か、別の役目で来たとか……」


「ふむ……」


 一益は、三郎の話を聞きながら何度か頷き、しばらく思案してから口を開く。


「……確かにそれは、甚兵衛かも知れぬ。儂もしばらく、甚兵衛には会っておらんのだが、あやつの情報をもとに、おぬしが石山本願寺に潜入していることは伝えてあった。もし余裕あらば、様子を見ておいてくれ、ともな。しかし、直に接触するとは、あやつも己の情報が使われている以上、気になっておったのやも知れんな」


「お味方は、この寺内町に何人ほど入っておられるのですか?」


「……儂の手の者は、おぬしだけじゃ。甚兵衛には、己の判断で自由に動けと言ってあるが、先程の話の男がそうならば、二人ということになる。

 しかし、羽柴殿や明智殿など、他家の手の者まで考えれば、織田の間者は幾人いるか見当もつかんな。いずれにしろ、近々和議が破棄されるとなれば、おぬしのような素性のはっきりしている者以外、ここにとどまるのは危険であろうな」

 和議の破棄は、戦の始まりを意味する。そうなれば、この寺内町にも外部から潜入するのは、困難になるだろう。そして内部にとどまることもまた、素性が明らかでなければ、危険がともなうことであった。

 その点、苑也に成りすましている三郎は、今少し諜報の猶予があるだろう。


「そう言えば……」


 苑也のことが頭に浮かんだ三郎は、雑賀で出会った南蛮人のことを思い出した。


「なに、苑也が南蛮人の血を?」


 三郎の話を聞いた一益は、低くうなって腕組みをする。


「ううむ……儂も顔をはっきりと覚えているわけではないが、あの時特段の違和感を感じた覚えもない。亡骸は伊勢まで引き取って寺に埋葬したが、もはや確認する術もなかろう」


 どうやら一益は、苑也を手厚く葬ったようだった。


「しかし、この後に及んでは、もはや気にすることでもあるまい。戦まで今少し、おぬしの役目が終わるのもそれまでじゃ」


「……戦までにはかならず、孫市の射撃の間合いを探って参ります」


「気負うな、三郎。儂は別に、おぬしに発破をかけにきたのではない。石山本願寺を、実際にこの目で見るために来たのじゃ。まあ後は、私用のようなものもあるがな」


 一益はそう言って、両手で何かを持ち、それを飲むような仕草をする。


「……お茶、でございますか?」


 織田家中で茶の湯を嗜み、茶会を開くには信長の許可が必要であり、それを許されることは、この上ない名誉であった。

 それは信長に信任された重臣の証であり、一益もその一人であった。


「近頃はどうも、これにはまり込んでしまってな。唐物の茶器に目がないのだ。聞くところによれば、堺やここ大坂の寺内町には、交易で多くの茶器が流れ込んでいるという。そこいらの店に並んでいるのは、二束三文の茶碗ばかりだが、それでも一流の茶人に認められれば、何千貫の値がつくこともある。おぬしの所に行く前に一通り見て回ったのだが、見目の良い掘り出し物は、なかなかないものじゃな」


 一益はそう言って、屈託なく笑う。

 名物呼ばれる茶器は、それ一つで一国に匹敵する価値を持つとされていた。

 その価値観を作り出したのは織田信長で、その根本には名物を献上してきた堺の豪商、会合衆の茶人たちの存在があった。信長は、その一部の人間の価値基準を政治に取り込み、統治に利用していたのである。

 そういった名物の目利きは、高名な茶人が行い、それがまた堺の会合衆の名声と巨利になっていた。名高い茶人はそのほとんどが、堺会合衆だったからである。


「昨年、本願寺との和議の際にも、上様に名物が献上されたと聞く。今や名物は政を動かす。二束三文の茶器から名物を探し出すことは、金を掘り起こすより良い博打かとも思っておったが、良い茶器は、もう粗方出尽くしているのやも知れぬな」


「茶器……でございますか」


 三郎はそう呟きながら、ある物を思い出していた。


「……実は、ここに来てから一つ茶碗を手に入れておりまして……よろしければ、それをお持ち帰りになっては?」


「ほう?」


「良いものかはわかりませんが……少々お待ちいただけますか」


「もう日暮れも近い。儂ももう今日中には、ここを去らねばならん。南町屋の橋のたもとで落ち合おう」


 こうして主従は、のちに再び落ち合うことになった。

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