狙撃地点
石山本願寺の周辺は、大坂湾に流れ込む無数の川が入り組んで、陸地が島のように隔離され、多数の橋によって繋ぎ止められている。
それらの陸地には、支城や砦が築かれており、中央にある石山本願寺を取り囲む防御網として機能していた。
大坂本願寺城が堅城たるゆえんは、中央部本願寺本山の強固さだけでなく、周辺の支城や砦、入り組んだ川など地域全体が要塞化していることであった。その上、この地がこの国の東西を繋ぐ要地であるというのだから、時の権力者がこれを見逃すはずはない。
そんな支城や砦の間にも、のどかな農村は広がっており、人々の生活の息吹を感じさせる。
いざ合戦となれば、一向宗門徒の村人たちも石山本願寺に入城し、籠城することになるはずだが、戦が長引けば村は荒廃し、その後の生活にも影響がでるだろう。
そういう意味では、彼らにとって戦は好ましいものではないはずであったが、それでも石山本願寺が戦の道を選ぶなら、念仏を唱えて従うのが門徒衆であった。
その石山本願寺の南方に、聖徳太子が建立したとされる寺、四天王寺がある。
この寺の周辺の地域は、古来よりこの寺の略称である天王寺という呼称で呼ばれており、元亀元年(1570年)の野田城・福島城の戦いで、織田方の本陣が置かれた場所でもあった。
その天王寺の街道を、孫市を先頭とした一行が歩いている。冬の寒風は容赦なく彼らの頬をたたき、孫市の後ろに隠れた小雀が赤い鼻をして、手をすり合わせていた。
「おい、無二。なんだこれは?」
孫市は、珍しく苛立たし気な様子で、隣の無二に言葉を投げる。
「なんだ、とは?」
「遊びじゃないんだぞ。なんで女子供までいるんだ」
一行は無二や但中、発中だけでなく、蛍や鶴、さらに小雀までいた。彼らは寒空の下、遊びにでも行くかのように和気あいあいとしている。
「常日頃、雑賀の鉄砲撃ちに、男も女も子供も老人もないと言っているのは、お頭じゃあありませんか。それに、たまには小雀に雑賀の外を見せてやっても罰は当たらんでしょう」
その無二の返答に、孫市はしかめっ面をして、後ろ頭をかいた。
「おい、お頭!じゃあそれはなんだ。その坊主は!」
発中がそう叫んで、日信の伸びた坊主頭を、指さす。
「これは一応、本願寺の坊主らしき奴だ。発、何か問題があるのか?」
「俺に少し似てるじゃねえか!」
発注はそう言って、自分の頭をかきむしる。
「発、もういい、黙っとけ」
発中の隣にいた但中が、その口を手でふさぎ、なおも何か叫ぼうとする発中を黙らせた。
一行は、孫市のいう次の戦の下見のため、この街道を歩いていた。
先程までは、孫市と三郎、そして日信の三人で石山本願寺の西側、海岸沿いの砦を見て歩いていたのだが、ここ天王寺で彼らと合流し、南東に続く街道を進んでいた。
孫市が不機嫌になったのは、おそらく小雀らの身を案じてのことだろう。ここはすでに、石山本願寺の支配地域とは言えない場所であり、いつ織田勢に出くわすかもわからない。和議が未だに有効であるとは言え、油断がならない状況であった。
刈畠、つまり敵方の領土の麦を刈り取る行為は、戦の直前に行われることが多く、この辺りの農村も狙われる可能性があったのである。
「戦になれば、信長はここ天王寺に再び砦を築くだろう。この辺りは、激しい戦になるぞ」
ここから西側にある海岸線には、石山本願寺方の多数の砦が築かれており、これが海上補給のための水路を守っていた。
織田方がこの補給線をたたこうと考えれば、やはりここ天王寺に砦が築かれ、最前線となるだろう。
街道をしばらく南下すると、西に木々に覆われた小高い丘が見えた。
孫市は、急に立ち止まって手で庇をつくり、その丘を眺めた。後ろをついてきていた小雀が、その尻に顔をぶつける。
「やはり、あそこがよかろう」
孫市はそう言うや否や、猛烈な勢いで駆け出し、丘に続く道を走り始めた。
慌てて一行も後を追うが、大股で走る孫市の姿は、あっという間に木々の中に消えた。
(……なんという足の速さだ)
しばらく後を追っていた三郎だったが、あまりの孫市の足の速さに、半ばついて行くことを諦め、歩を緩めた。
しばらくして、日信が後ろからやって来る。雑賀の一行は、小雀の走りに合わせてその後から小走りでやって来た。
「……なんで突然走りだすかな、あの人は」
小雀の手を引きながらやって来た蛍は、そう口をとがらす。
「いや、とんでもない速さですな。あれなら馬などいらんでしょう」
日信がいかにも感心した様子を見せて、鶴にそう言った。
「お頭は、どんな馬よりも自分の方が速いとよく申しております。そもそも馬に乗ることも、あまり好きではないようで……」
少し困った様子でそう答える鶴の着物の袖を、小雀がつかむ。
「そんなことないよ。お頭、お馬さん好きだよ?」
「あら、そうだったかしら?」
鶴は笑顔でそう言って、少女の頭をなでた。
三郎はそんな二人を見つめながら、十ヶ郷の景色を思い浮かべた。
確かに彼の記憶の中でも、孫市が馬に乗っている姿は思い浮かばなかった。そもそも雑賀で馬に乗っていたのは、顕如の急を告げた雑賀荘の岡太郎次郎ぐらいのもので、馬は荷を運ぶ姿ばかりが印象に残っていた。孫市の性格からして、自分の好まないものは十ヶ郷から遠ざけているのかもしれない。
一行は、そのまま丘の頂上付近まで登って来たが、先にいるはずの孫市の姿は見えなかった。
丘の上は見晴らしがよく、四方の街道がよく見えたが、ところどころに、緑を残す木と枯れ木が生い茂り、枯草も相まって、身を隠せる場所はいくらでもあるようだった。一行はそれぞれ別の方向に進み、孫市を探す。
しばらく草をかき分けて三郎が進んでいると、北側の斜面近くに遠くを眺める孫市の姿があった。
三郎が声をかけると、孫市はその周りを見回し、手招きをする。
「いかがされましたか?」
三郎は足元を慎重に確認しながら、孫市に近づく。
「……蛍は、ついてきてないだろうな?」
「私一人でございますが……何か?」
「面倒くさいんだ、あいつは」
孫市はそう言って三郎の両肩をつかみ、その後ろを慎重にうかがっていた。
「……孫市殿、嫁取りの話はどうなったのですか?」
「別に……変わりはない。土橋に異存なくば、すぐにでもと言いたいところだ。しかし、戦も近いからな……輿入れは夏までずれ込むことになりそうだ」
孫市はそう言いながら、遠く空を見つめる。
「蛍殿には、あらためてお話を?」
「しているわけがなかろう。あいつは破談になったと思っている。ついでに、あいつら全員にも破談になったと言ってある。まあ無二や但は、信じてはおらんだろうがな」
孫市はちらと三郎を見て、笑みを浮かべた。どうやら、祭りのあの日から何も変わっていないらしい。
「……その夏がくるまで、偽り続けるおつもりですか」
「苑也殿、俺は面倒なことが嫌いなのだ。まあ、なるようになるだろ。いざとなれば、親父と兄貴に説得させればよい」
「……何やら、憐れな気もいたしますが……」
「まあ、そんなことはどうでもよいのだ。あれを見てみろ」
孫市はそう言って話を切り上げ、両手で街道を指さした。
その右手と左手は、それぞれ別の街道を指さしている。その道は、この丘を挟んでどちらも南から北へと延びており、天王寺方面へと続いていた。丘の北側にいる孫市と三郎からは、どちらの道も同じくらいの距離にある。
「……戦が始まれば、織田勢はここを通って天王寺方面に向かうだろう。そして戦が長引けば、かならず信長も左右どちらかの街道を通って、天王寺に向かう機会があるはずだ。その時こそ、最大の好機となろう。ここからならば、信長がどちらの街道を通ってきても、狙い撃つことができる」
確かに孫市の言うとおり、ここからならばどちらの街道を来ても、同じように狙撃することができるだろう。
しかし問題は、その距離である。
「苑也殿、右側の街道でここからの距離が一番近いのはどのあたりだ?」
孫市に言われた三郎は、右の街道に目を凝らす。
街道は少し曲がりくねっていたが、三郎の位置から概ね真っすぐ東に向いたあたりが、最短距離のようであった。おそらく百間ほどであろう。
三郎が目を凝らして見つめていると、そのあたりの枯草茂みに、何か焦げ茶色の物が見えた。
その物体は周りに同化してはっきりとは見えていなかったが、わずかに動きを見せている。
(あれは……ムジナか?)
その姿をとらえることができたのは、その視力が並外れているからだと言っていい。
三郎は、孫市にムジナのいる位置が最短距離だと伝えようとしたが、ふと思い出したことがあった。十ヶ郷で蛍から聞いた、ムジナとタヌキを逆に言う話である。
「……あの十ヶ郷で言うところの、タヌキのいるあたりが、最短と思われますが」
三郎は少し揶揄するようにそう呟き、孫市の様子をうかがう。
「東の街道がそのタヌキの位置なら、西の街道の最短はあのあたりか。いや、しかし苑也殿も、十ヶ郷の言葉が良くわかるようになってきたな。もういつでも、雑賀の住人になれるぞ」
孫市はその遠くのムジナを一瞥して、満足そうに呟いた。三郎が己のわがままに従ったのが、嬉しかったらしい。
「……信長を撃てば戦局が変わる。たった一度の狙撃で天下はひっくり返るぞ」
孫市はそう言って、木に立てかけてあった銃をなでる。
「しかし……天王寺まで織田勢が進出している段階で、どうやってここまで?」
「無論、俺が一人でここに忍び込む」
「たったお一人で……しかしそれは、あまりに危険ではありませんか?孫市殿は、雑賀衆の頭領でございましょう」
「俺より足の遅いのは足手まといにしかならん。だから一人でやる。そもそもこの距離で、他に誰も撃てはせん」
「……孫市殿」
三郎は、ついに核心に迫る話の尻尾をつかんだ気がした。
「ここから先程言った最短距離まで、百間ほどはありましょう。私には、とても確実に狙撃できる距離とは思えませぬ。孫市殿はかつて、百閒を超える距離から、信長を狙撃したと噂に聞いております。そのようなこと、本当に可能でございましょうか?」
その三郎の問いに、孫市は腕を組んでしばらく思案していた。
三郎は、次に出てくるであろう孫市の言葉を、一言一句聞き逃すまいと神経を集中させる。
「その噂では……」
「はい」
三郎はうなずいて、固唾を呑む。
「俺の撃った弾は、信長に当たったのか?」
「いや、信長には当たらず、近くの馬廻を撃ち殺したと聞いておりますが……」
「……苑也殿、俺は必殺でない弾は撃たぬ。その弾が信長を殺さなかったのならば、それは俺の撃った弾ではない」
孫市は、つまらなそうにそう言った。
「つまり……噂に聞く野田城の狙撃は、孫市殿ではないと?」
「信長に当たったのなら、俺が撃った。当たっていないのなら、俺ではない」
(……何か、感づかれているのか?)
三郎はその孫市の反応に、一抹の不安を感じた。
今までの孫市は、三郎の問いにあけすけに答えていた印象があり、はぐらかすような言葉は、この男らしくないと感じたからである。
「さて、あいつらと合流するとしようか」
何とか話を続けようとする三郎の思惑を遮るように、孫市はそう言って、もと来た草むらを戻り始めた。どうやら最大の機会は、短時間で過ぎ去ってしまったようだった。
「あ……こんなところにいた」
孫市と三郎が草むらをかき分けて進んでいると、前方から蛍の声が聞こえる。しばらくして、小雀の手を引いた蛍の姿が現れた。どうやら、背の高い草からも頭一つ突き出ていた孫市の頭が遠くから見えたようであった。
「よし小雀、来い!」
孫市は二人に近づくと、両手を広げてそう叫ぶ。
小雀は笑顔で駆け出し、孫市の胸に飛び込んだ。そしてそのまま抱え上げられ、肩車されて喜びの声を上げる。
孫市は、小雀を肩車したまま叫びながら大股で走り出し、小雀も頭上で甲高い叫び声を上げて二人で草むらを突っ切っていった。
残された三郎と蛍は、目を見合わせる。
「……どうされました?」
目をそらした三郎の様子に、蛍は不思議な表情を浮かべる。
「いや、なんと申しましょうか……私は時々、孫市殿がとてもうらやましく見えるときがあります。あのように、自由な人間になりたい、と」
その言葉は、三郎の偽らざる気持ちであった。
「……多分、苑也様が思っているほど、あの人は自由ではないと思いますよ。今のお頭は己を殺し、雑賀衆のためだけに生きなければならないことを、周りから強いられています。自分の思い通りにできないから、鬱屈しているんです」
孫市らが走り去った方角を向きながら、蛍はそう言った。
その横顔を見ながら、三郎は驚かざるを得ない。この娘はそれを百も承知で、婚姻に反対する勝手を言っているのだから。
「……そこまでお分かりなら、あまりわがままを言うのは……どうでしょうか」
蛍はその三郎の問いかけには答えず、ただ笑顔を見せて、頭を下げたのみであった。
「……苑也様、私たちも行きましょうか」
そう言って、孫市たちの後を追う蛍の背中を見つめた三郎は、なんとなく薄ら寒いものを感じながら、その後をついて行く。
その感覚はもちろん、冬の寒さのためだけではなかった。
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