もう一人の間者
南町屋で猪鍋を堪能し、孫市らとわかれた三郎は、頼廉の屋敷への帰り道を一人歩いている。
どうやら、織田と本願寺の戦は避けられないようであった。
それは孫市の話がなくとも、石山本願寺の人々の雰囲気からも、日に日に強く感じられてきていることでもあった。そもそも和議が結ばれているとは言えども、大坂の地を明け渡せという、根本的な織田方の要求は宙に浮いたままであり、いずれその要求が再燃することは、火を見るよりもあきらかであった。
後は、どちらかが利ありと判断した時、戦端が開かれるだけの話であろう。
三郎にとっても、もはや時間は限られている。
戦が始まる前に、なんとしても孫市の狙撃のことを探らねばならない。先程の、戦場の下見をするという孫市に同行できることは、良い機会であった。
三郎は十ヶ郷で、孫市の銃をくわしく見る機会を得た。その美しさは、三郎が今まで見た火縄銃の中でも格別のものであったが、多くの火縄銃と構造的にも大き変わることはなかった。
そう考えれば、重要なのはやはり孫市の砲術、つまり射撃技術であろう。その射法から位置取り、あるいは引き金を引く時の心構えまで、同行でわかることがあれば、そのすべてを探りたいところであった。
そんな考え事をしていた所為であろうか。
三郎は、自分の後をつけてくる男の存在に気がつかなかった。
曲がり角を曲がり、人気のない路地に入って、男が間近に迫ったところで、初めてその存在に気がついた。
その眼前に迫る男は面識のない男であり、今までここ石山本願寺でも、見かけたことすらない顔であった。
「おい……どうだ、うまくやっているのか?」
男は周囲を見まわし、人気がないのを確認して、三郎に声を掛けてきた。周囲に人影はなかったが、男は声を潜めている。
「……なんのことでございましょうか」
三郎は、突然のことにぎくりとして、かろうじてそう呟いた。
「とぼけなくてもいい。間者としてうまくやっているのか、それだけ教えろ。報告しておく」
男は早口にそう言って、三郎の反応をうかがう。
(……この者は、殿の使いか?)
三郎は突然のことに狼狽し、相手の正体をはかりかねた。
男の言動から、三郎の正体を知っていることは間違いなさそうであった。
しかし、一益は三郎と別れる直前、石山本願寺で接触することはないと明言しており、その使いが送られてくるはずはない。
逡巡する様子を見せる三郎に、男はさらに近づいてきて言葉を続けた。
「俺は、別の役目でここに潜入してきたばかりなのだ。本来、面識のないおぬしと接触するつもりはなかったが、どうやら戦も近い。うまくいっているかどうか……それだけでいいのだ、教えてくれ」
男のその言葉に三郎は動揺し、逡巡したが、うかつな返事はできなかった。本願寺方の何者かが三郎の正体を疑い、鎌をかけている可能性もあるのだ。
反応がない三郎を見て、男はさらに口を開こうとしたが、不意に舌打ちをして、三郎から離れた。路地の向こうから人の気配がする。
数人の通行人がその路地に入って来ると、男は足早にその場を去っていった。
冬の寒さにもかかわらず、顔を上気させた三郎はほっと胸をなでおろし、その場を後にする。
動揺のためか、その足取りは速い。
(……今の男は、やはり殿の使いなのだろうか?)
歩きながら、徐々に平静を取り戻しつつあった三郎は、先程の男の顔を思い出した。
男の反応を見る限り、先程の男が、滝川家の間者である可能性は高い。
しかし、そうであるという証拠もなかった。一益の接触しないという言葉もあり、半信半疑にならざるを得ない。
しかし男がはっきりと、間者として順調なのかを聞いてきた事実は、やはり大きい。
(……もしやあれは、牧野甚兵衛様ではあるまいか?)
三郎の頭に浮かんだのは、滝川家家臣の牧野甚兵衛のことであった。
牧野甚兵衛は、諸国を巡って諜報活動をしている滝川家の間者の一人である。そもそも、苑也の存在を調べてきたのはこの甚兵衛であったが、三郎自身は甚兵衛と面識はない。先程の男がこの甚兵衛であったならば、予定外に三郎に接触する必要が出てきたことになる。
十ヶ郷で南蛮商人にあった後も、頼廉の三郎に対する態度は変わらなかった。
それどころか与えられる役目も増えて、信頼は一層厚くなっており、疑われている気配など微塵も感じられない。そう考えると、先程の男が三郎の正体を疑い、探りを入れてきた者とも思えなかった。
もしあの男が甚兵衛ならば、やはり戦が間近に迫っているとみているのだろう。早急に、孫市の情報が必要になったのかもしれない。
だがしかし、もうあの男の正体を探る術はない。今後再び男に出会うことがあれば、うまく甚兵衛なのかを確認する手立てを考えておく必要があった。
「やはり、戦は近いか……」
三郎は何となくそう呟いて、溜息をついた。
戦が始まることによって間者としての役割が終わり、今の生活が変わることに、三郎は一抹の寂しさを感じていた。
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