禁断の味
目的地は、南町屋の一角にある店であった。
少し入り組んだ裏路地にあるその店は、看板が掲げられておらず、三郎には一見して、なんの店かはわからなかった。
「これは、雑賀様。ようこそおいでくださいました」
そう挨拶する店の主人に、但中が担いでいた荷物を渡す。
「少し食わせてもらおうか?」
「もちろんでございます。さあ、どうぞこちらへ」
一番奥の部屋に通された一行の前には、囲炉裏があり、すぐに店の人間がやってきて、炭火をおこした。孫市にうながされ、一行は囲炉裏をかこんで腰を下ろす。
やがて、主人が出汁の入った器を持って現れ、鍋にゆっくりと注いだ。ほどなくして、少し湯気が立ってくる。
「寒い時は、これがいいのだ。すぐに体が温まるぞ」
そう笑顔を見せる孫市は何度か手をすり合わせる。
しばらくの後、野菜が盛られた器と共に、赤と白の鮮やかな色の肉が運ばれてきた。
「ほうこれは……猪でござるな。先程、お連れの方が主人に渡していた物はこれですな」
日信は猪肉を見て、目を輝かせた。
「おい破戒僧、おぬしは食ってはならんぞ」
「また無体な! 拙僧の空腹を御存知であろう、何故でござるか?」
「そもそもおぬし、どこの宗派の坊主なのだ。町で問答をふっかけて歩いていたらしいが、問答やら宗論を得意とするなら、大方、法華宗あたりではないのか?ならば、肉食はならん」
意地の悪い顔をして建前を言う孫市に対して、日信はにやりと笑う。
「迂闊なことをおっしゃいますなあ、孫市殿。それはすぐに論破できますぞ。なぜならいつも孫市殿自身が、拙僧を破戒僧とおっしゃるではありませんか。つまり孫市殿は、拙僧が肉を食らうことを認めているということでございましょう」
「そうか、ならば食って無間地獄へ落ちるがよかろう」
「では遠慮なく、念仏を唱えていただきまする」
日信は、そう言ってしたり顔で念仏を唱え、大げさに合掌した。
孫市は舌打ちをしながらも笑みを浮かべ、自ら鍋に味噌をまぜ入れ、酒をまわし入れる。
「こうやって獣の肉を食えるのも、一向宗門徒の特権というものだ。まったく、素晴らしい教えだな。しかし苑也殿、刑部卿殿の屋敷ではこんなものは食えまい」
「……確かに、獣肉など見たこともございません」
「刑部卿殿は、尊崇に値する素晴らしい方だが、惜しむらくは少々頭が固い。聖人がよいと言えば、遠慮なく食えばよいのだ」
一向宗は、肉食を認められた数少ない宗派だったが、僧侶の中ではそれを避けようとする人々も多かった。ことに頼廉などは、酒も滅多に口にしなかった。
孫市が鍋の味をみた後、但中が薄く切られた猪肉や野菜を入れて、しばらく煮込む。やがて、味噌と猪肉のえも言われぬ匂いが、湯気と共にただよってきた。
「苑也殿、おぬしは食わんなどと言ってくれるなよ。遠慮はいらん、おぬしに食わせるために仕留めたようなものだからな」
「……は、いただきます」
三郎も久しく、獣肉など食べてはいなかった。
しかし、その煮込まれた猪肉を見ると、その旨味が舌の上に蘇る。なにより、この鼻腔をくすぐる味噌の匂いには、抗いがたい。
但中が鍋から器に盛った猪肉を差し出すと、三郎も一度合掌し、両手で包み込むように受け取った。冷えていた手先がじんわりと温まる。
三郎は躊躇することなく猪肉を口に入れ、ゆっくりと咀嚼した。口腔に少し独特の獣臭さと油が広がる。
「どうだ?」
「……五臓六腑が生き返る心地でございます」
素直にそう答える三郎に、孫市は満足げに頷いた。そんな三郎を見て我慢できなくなった日信も、湯気の立つ猪肉を頬張る。
「おおこれは……拙僧も、生き返りますわい」
「やれやれ、この破戒僧の生き様よ!」
そう言って破顔した孫市も、ゆっくりと肉を食らう。
しばらくは一同でひたすら口を動かし、猪鍋に舌鼓を打っていたが、やがて孫市が口を開く。
「俺が理解できんのは、信長が酒も飲まず、味気ない湯漬けばかり食っているということだ。飯の楽しみがないから、暇のあまり天下を平らげようなどと考えつくのではないか」
孫市はどこから仕入れたのか、そんな話を口にした。彼は、三郎が驚くほどに信長の話を知っており、織田方の三郎ですら知らないことも知っていた。
もっとも三郎の身分では、信長のことなど噂で聞く程度でしかないのだが。
「……なんでも信長は、琵琶湖近く安土山に、築城をはじめたそうだ。集めている人間と材料の量からして、空前の規模になるらしいが。なんにせよこの城が、例の天下布武の体現になるのは、間違いなかろう」
この年(天正四年)の正月、信長は重臣、丹羽長秀に命じて安土城の建設を開始させていた。五重の荘厳な天守閣を持つこの城は、この後三年あまりをかけて天正七年(1579年)に完成している。
「……孫市殿、少々お聞きしたいことがございまして。先頃、十ヶ郷でお話いただいたことなのですが……」
三郎はそう言って、少し日信を気にする素振りを見せた。
「おい、破戒僧。おぬしはなんだ?」
三郎の言葉を受けて、孫市は日信に乱暴に問いかける。
「拙僧は、置物でござる」
孫市は日信の答えを聞いて、三郎に次をうながした。
「……あの日は、御法主様の御威厳を貶め、雑賀衆の離反をうながすために、あの不埒者どもの行動があったのではないかと、推測しました。確か孫市殿は、その背後にいる者たちの目的は、戦を長引かせるためだとおっしゃっていたはずです。
しかしすでにあの時から、情勢は織田方へ有利に動いておりました。御法主様を害して、織田方に大きく助力することは、戦を長引かせることとは矛盾するように思えるのですが……」
三郎は日信の手前、すべて話してよいかわからず、少しぼんやりとした言い回しをした。
このことは、先々月雑賀から帰った後も残っていた疑問であった。
あの頃からすでに、情勢は織田方に大きく傾いており、顕如の権威の失墜は、その力の差をさらに広げる可能性があったからである。それは堺会合衆が、両者の力を拮抗させ戦を長引かせ、巨利をむさぼろうとしているという孫市の主張とは、矛盾するもののように思えた。
三郎の疑問に孫市は少し頷いて、再び日信を見る。
「おい、破戒僧。今巷間で言われている、石山本願寺の大きな話題はなんだ?」
「話題、でござるか……それはやはり、毛利とのことではありますまいか」
日信は、猪鍋をつつく箸を止めることなく、そう答える。
「苑也殿、今巷では、石山本願寺と毛利が手を結ぶのではないかと噂されている。そして結論から言ってしまえば、それは事実だ」
「盟約は、すでに結ばれていると?」
「去年おぬしが十ヶ郷に来た時、刑部卿殿から隠居への、書状を預かっていただろう。あの書状に書かれていた重要なことは二つ、毛利との盟約がうまくいきそうなこと、そしてそれにともなって、間を取り持った足利公方が、紀伊から備後に移るだろうという内容だ」
孫市は、日信の前でもはっきりそう言ってのけた。
「毛利と盟約を結ぶ、戦術上これほど有効な手はない。この大坂本願寺城は難攻不落で、補給さえ途絶えなければ、落ちることはないからな。その補給を毛利が受け持つことで、強固な仕組みができ上がる。瀬戸内海を通って海上から運び込まれる補給物資の護衛を、毛利、村上両水軍、そして我ら雑賀水軍が助力すれば、織田方は手出しできん。一向宗の強靭な結束とこの体制があれば、石山本願寺は永久に戦い続けることもできる。戦が長引けば、かならず織田家中は動揺し、裏切りも出るだろう」
瀬戸内に勢力を張る毛利水軍と、その傘下にある村上水軍は、当時最強の水軍と目されており、これに雑賀水軍が協力すれば、大坂湾から瀬戸内海まで、海上を封鎖するのは容易なことだと推測された。これを破ることは、織田水軍であっても難しいことであろう。
今、極秘裏に石山本願寺に運び込まれている堺からの物資も、戦になり包囲網ができれば、搬入が困難になることは間違いない。瀬戸内から海上を通っての補給路は、極めて合理的であった。
「それだけではない。公方は信長の背後を脅かそうと、天敵であった、上杉と武田の仲まで取り持った。特に上杉は、公方に呼応するだけで長年苦しめられた一向一揆の脅威から、御法主の一声によって解放されるのだ。もし上杉謙信が反信長の急先鋒として上洛しようとすれば、信長は進退窮まることになろう。今の状況は、表面上とは逆に、裏側では反信長に傾いている。そしてもちろん、堺の連中もそれに気づいているのだ」
孫市の言うことが確かならば、この戦略の中心にいるのは将軍足利義昭ということになる。
もちろんこの戦略は未だ計画段階であり、それが具体的な結果をもって世間に影響を及ぼしているわけではないが、その戦略計画が、水面下で反信長勢力に有利に働き、結果として今回の顕如に対する暴挙につながったというのが、孫市の言わんとすることのようであった。
「しかし、毛利もしたたかなものだな。この間の信長の右大将任官には、祝儀に随分と銀をはずんだと聞くが、裏ではこの盟約だ。どうやら毛利の小早川左衛門佐という男、噂に違わぬ知恵者らしいな」
毛利家の重臣、小早川左衛門佐隆景は、小領主に過ぎなかった毛利家を、その知略でもって中国の雄にまで押し上げた謀将、毛利元就の三男で、次男吉川元春とともに、現当主毛利輝元を補佐する立場にあり、智謀の士として名高い。
毛利家の外交戦略に、この隆景の意思が大きく反映されることは、間違いないことだろう。
(本当に、毛利との盟約はありえるのだろうか?)
三郎が孫市の話で疑問に思ったのは、そのことであった。
もともと毛利は、織田と一応の同盟関係にあり、今まで石山本願寺に対しても表立った支援はしていない。つまり大局的に見て、毛利が危険を冒してまで、信長と対立する必要性が、現状想像できないのが正直なところであった。
しかし、毛利と織田の間には常に将軍義昭の存在があり、その義昭が京を追われてからは、その関係に変化が表れていたのも事実であった。毛利と織田の手切れをもっとも切望しているのは、その将軍義昭であり、それに毛利が巻き込まれる形で事態が動くことは十分にありえた。
そういう意味では、孫市の言うように、小早川隆景が義昭や石山本願寺と共に、積極的に暗躍しているとは考えづらい。
つまり、義昭と本願寺が毛利を巻き込もうと画策しており、日信が巷で噂されている毛利との関係は、意図的に流されている可能性もあった。
そういった動きは裏を返せば、孫市が言った通り毛利の参戦が、戦局を劇的に好転させるものとして、門徒に広く望まれているということだろう。
この盟約が、実際成立しているのか否か、三郎にはわからない。なんにしてもその成功は、将軍足利義昭と、石山本願寺の外交力しだいということなのだろう。
「……孫市殿、再び戦になりましょうか?」
三郎はそう尋ねたが、もはや戦は避けられまいと思っていた。その時は滝川家の間者として、やるべきことをやらねばならない。
「間違いなくなる。信長は、大坂をあきらめてはおるまいし、御法主も絶対に引けぬ。そしてその時こそ、俺たちの出番というわけだ」
石山本願寺が最前線となる以上、激戦は避けられない。お互い、存亡をかけた一戦になるであろう。
「苑也殿、俺は次の戦のために、石山本願寺や砦の周りの地形を見ておこうと思っている。あらかた把握はしているが、確認の意味もあってな……どうだ、おぬしも来るか?」
「それは是非……お願いいたします」
それは、三郎にとって願ってもない話であった。孫市の指揮官としての戦術がわかるかもしれないのはもちろんのこと、鉄砲の運用や狙撃の位置など、探れることは多くあるだろう。
そんな話をする二人の目の前で、日信は変わらず鍋をつついている。
「よろしかったのですか?日信殿の前でこのような話を……」
三郎は今更ながら日信の顔色をうかがいつつ、そう言った。
「これは心外なことを……苑也殿まで、拙僧をお疑いあるか。御仏への忠勤は、決して苑也殿に劣ってはおりませんぞ」
したり顔でそう呟く日信を見ながら、孫市も同じような顔で口を開く。
「こやつは今、少進殿のもとにおる。つまり少進殿が、この破戒僧の身を保証しているということになる。もしなにかあれば、少進殿の責よ」
孫市がそう言って笑うと、日信も器に視線を落としたまま笑う。
しばらくの沈黙の後、一同は再び、次々と箸を鍋にのばした。
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