破戒僧、再び

 顕如が雑賀を訪れたその頃、天下の趨勢にかかわる重要な出来事があった。

 織田信長の、右近衛大将任官である。

 この月、信長は昇進して大納言の位にのぼり、右近衛大将へ任ぜられた。これはかつて、源頼朝が同様の任官を受けたことを先例とするもので、信長が名実ともに天下人として認められたことを広く天下に示すことになった。

 この任官に対する朝廷への信長の返礼は贅を尽くしたもので、砂金や反物などだけでなく、公家衆には知行まで与えられ、多くの公家を喜ばせた。これらの朝廷への献身ともいえる信長の対応は、大きく天下に面目を施したといっていい。

 しかし、この任官を信長以上に喜んだのは、朝廷そのものであろう。

 かねてから、朝廷の重職への昇進要請を固辞していた信長に対して、朝廷はその真意がつかめず、不信を抱いていた。そこには、朝廷をないがしろにし、その存在すら否定するのではないかという、恐怖心があったのかもしれない。

 しかし今回の任官によって、その信長に対する不信が大きく取り除かれ、さらにその贅を尽くした返礼は、朝廷の人々の溜飲を下げ、多くの公家が信長になびくことになった。

 このとき朝廷は、信長を「傘下」に収めたと思っていたのである。


 また同月、信長は織田家の家督を、嫡男信忠に譲り渡した。

 これにより信長は、織田家という枠から離れ、いよいよ天下、即ち畿内を静謐する事業に没頭していくことになる。

 その信長にとって、最大の敵はやはり石山本願寺であった。

 この時、一応の和議によって停戦されていた両者ではあったが、大坂という要衝の地と、一向宗門徒という武家にも引けを取らない、強力な軍事集団を抱える石山本願寺が、信長の統一事業にとって最大の障害であることは、誰の目にもあきらかであった。

 織田信長と、本願寺顕如。

 両者は再び、決定的な敵対状況に突入しつつあった。



 天正四年(1576年)の年が明けた石山本願寺は、表面上は平穏を保っているように見えた。

 信長の右大将任官は、本願寺上層部のみならず末端の門徒衆にも広く伝わり、彼らを大きく失望させた。

 足利義昭追放後、その庇護者という立場から解き放たれた信長は、ついに朝廷からの後ろ盾によって、天下人として君臨する大義名分を得たと、一般に理解されていたからである。

 しかし、それによって一向宗門徒が皆悲観的なったかといえば、決してそうではない。

 伊勢長島でも越前でも、徹底した根切り、すなわち皆殺しをした仏敵信長の伸張は、門徒衆の敵愾心を否が応でも燃え上がらせ、その士気は旺盛であった。

 石山本願寺の周囲の支城や寺内町には、物資だけでなく全国から門徒も集まりつつあり、いざ合戦となれば、相当数の門徒が石山本願寺に入り、いつでも防戦できる体制が整いつつあった。

 末端の門徒衆の中でも、和議がいつまでも続くとは考えられていなかったのである。


 

 年が明けて情勢が変わっても、三郎の生活は朝夕のつとめや、定められた写経以外の時間は比較的自由であり、以前とあまり変化はなかった。

 しかし、その健脚を生かした頼廉の使いとしての役目は増えつつあった。

 三郎は日々、石山本願寺寺内町だけでなく、他の寺や支城、さらに雑賀へと派遣されることもあり、寒風吹きすさぶ中、遠方へ足をのばすことも多かった。そうして彼は役割を一つずつこなす度に、信頼を得ていったのである。

 この日も、近くの寺まで使いに走っていた三郎は、石山本願寺寺内町まで帰ってきた。

 曇天の下、寺内町を歩く三郎は、己の不思議さを思う。

 頼廉から役目を与えられ、苑也として過ごすうちに、そこにわずかながら心地よさを感じはじめていることは、否定できなかった。ここにいる三郎は、石山本願寺坊官、下間刑部卿法橋頼廉の甥であり、身分の低い滝川家奉公人の三郎とは、雲泥の差があった。

 一益から受けた恩義を思いだし、日々自らを戒める三郎ではあったが、潜入が長くなってくると、多少心の揺れがでてくるのも無理からぬことであろう。

 頼廉の人柄も、それに拍車をかけていた。

 しかしその頼廉の顔を見る度に、三郎は心苦しさとともに役目を思い出す。

 三郎は、苑也を殺しているのである。

 その事実があるかぎり、頼廉とは永遠に敵同士であった。


(私が苑也を殺したと知ったら、伯父上はどんな顔をなさるだろうか……)


 その想像は、胸を締め付けられる想像であり、恐怖であった。冷酷な見方をすれば、わざわざ三郎に苑也を撃たせたのは、一益が三郎に枷を付けたかったからかもしれない。


(殿も酷なことをなさる)


 三郎はそう思いながらも、一益に対しての忠誠心も揺らぐことはなかった。その点、三郎という若者は素直であった。


「おお……これは、下間の苑也殿ではありませんか」


 不意にかけられた声に振り返った三郎は、その声の主を見て仰天した。

 そこには昨年、三郎に問答をしかけ、堀にたたきこまれた男の姿があったのである。


(……!なぜこの男が!)


 三郎は意外な男の姿に驚き、その場を去ろうと踵を返して、走りだそうとした。


「あいやしばらく、しばらく!」


 男は慌てて三郎に追いすがり、進路をふさいで半ば強引にその足を止めようとした。三郎は、やむなくその場で立ち止まる。


「……御坊、よくもまあここに足を踏み入れられましたな」


「いやいや、苑也殿。どうか、警戒せんでいただきたい。拙僧は奥底から心を入れ替え、今ここにいるのです。まずは、話を聞いていただきたい」


 男は両手で三郎をなだめるような仕草をしながら、あらためて自らを日信と名乗り、語り始めた。


「いや拙僧は、石山本願寺の方々の寛大さに本当に心を打たれたのです。あの後、番所に引っ立てられたときは、さすがに拙僧も覚悟をいたしましたが、そのとき偶然番所に居合わせお方が、念仏を唱えて命乞いをする拙僧を不憫に思われ、お救いくだされたのです」


 日信はそう熱っぽく語り、目に涙をためていた。


「そのお方こそ、下間少進様でございます。拙僧はいたく感銘を受けまして、石山本願寺から追放された後も、なんとかその教えを請いたいと、お願いしておりました。先日、少進様はありがたくもそれをお許し下さり、今は、御屋敷に寄宿させていただいている次第でございます」


 下間刑部卿頼廉と同族の、下間少進仲孝は、頼廉と同じく石山本願寺の坊官であり、重臣の一人であった。

 歳は若年ながら顕如の信任厚く、頼廉や同じく同族の下間按察使頼龍とともに、教団の政の中枢にいる人物である。

 また猿楽など芸能をよくする風流人でもあり、石山本願寺の僧侶の中では一風変わった人物としても知られていた。


「では、今は少進様のもとで修行を?」


「拙僧のような者の性根をたたき直すことも、仏の道であるとおっしゃられておりますな」


 日信は晴れやかな表情でそう呟いた。この男が今、下間少進のもとにいるという事実は、三郎の警戒心を多少緩めさせた。


「そういうわけで苑也殿、貴方様のことは少進様にお教えいただきました。貴方に堀にたたきこまれたおかげで、拙僧は目が覚めたのです。今後とも、仲良うしようではありませんか」


「……はあ、まあそうですか」


 三郎は、なんとも言えない言葉を返した。


「おい、苑也殿を困らせるなよ、破戒僧」


 聞き覚えのある野太い声が三郎の耳に響く。

 そこに現れたのは、いつも通り銃を肩に担いだ孫市であった。隣にいるのは、いつもいる蛍ではなく、大柄で荷物を背中に担いだ、但中であった。


「おお、孫市殿ではござらんか!」


 日信は孫市の姿を見て、そう声をあげた。


「……お知り合いだったのですか?」


 三郎は驚いて、孫市を見上げる。


「逆だ、苑也殿。おぬしが堀に投げ込んだ破戒僧がいると聞いてな、面白そうだと探してみたところ、少進殿のところにおったのだ。まったく、少進殿も変わった御人だな。俺はこの男、どこぞの間者かも知れぬから、追い出した方がよいと言ったのだがな……」


「無体なことを申されるな、孫市殿。おかげで拙僧は屋敷の奉公人に疑われて嫌われ、飯を減らされた。少進様は、それも修行だという。おかげで毎日空き腹じゃ」


「追い出されんだけでもありがたく思え。苑也殿も、この男には気を付けたほうがよいぞ」


「心得ております」


「苑也殿までそんなことを……なんと無体な」


 間髪入れずに言葉を返す三郎に、日信は額に手をあて天を仰いだ。

 そんな日信の様子を見て、孫市は大声で笑う。どうやら言葉とは裏腹に、孫市はこの男のことをそこそこ気に入っているらしい。そんな孫市を見ていると、三郎の日信への印象も幾分か、好転することになった。


「そうだ、ちょうどよい。苑也殿、ちょっと付き合わぬか?」


 ひとしきり笑った孫市は、思いだしたように三郎を誘う。


「なんでございましょうか?」


「なに、ついてくればわかる」


 孫市は、三郎の返事も聞かずに但中を連れて歩き始めた。慌てて続く三郎に、日信も続く。


「……おぬしは別に、呼んでおらんぞ」


「なにをおっしゃる……我々はもう気心の知れた者同士ではござらんか。ささ、参りましょう」


 そんな調子のいい言葉を吐きだす日信の背中を、孫市は平手で音がでるくらいたたく。

 思わずむせる日信の顔を見て、大笑いした孫市は、日信と三郎の首を両脇に抱えて、寺内町を歩き出した。

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