堺の商人

 雑賀に滞在して数日、顕如が石山本願寺への帰路に就く日がやってきた。

 この日、頼廉が十ヶ郷を訪れ、隠居や国人たちと会見した。

 そもそも、この頼廉の十ヶ郷訪問は、予定になかった。

 頼廉の狙いは、雑賀荘から石山本願寺に帰還する顕如とは別に、十ヶ郷の湊から帰還することで、その経路を確認することであった。そしてその頼廉と共に、三郎も十ヶ郷から帰ることになっていた。

 十ヶ郷の湊を案内されていた三郎は、多くの船が着岸する姿を見渡せる場所で、頼廉の到着を待っていた。

 その湊は、対岸の雑賀荘の湊に勝るとも劣らず、多くの商人らで賑わっている。


「いや、いつ見ても、この湊はよろしゅうございます。湊の方角から建物の配置、船が入ってくる経路、すなわち金の道まで……儂は長きにわたり諸国を巡って参りましたが、この様な霊験あらたかな土地は、そうそうありませんぞ。この湊は、未来永劫栄えましょうな」


 そう言って嘆息したのは、月の翁と呼ばれている老人である。


「月の翁は、諸国を旅しておられたのですか?」


 三郎は、しわがれた声の翁にそう尋ねた。


「苑也様、儂はこの十ヶ郷では新参者でしてな。世捨て人同然で旅をしておったのじゃが、一年ほど前、船の積荷にまぎれ、行き倒れ同然でこの湊に倒れておったところ、お頭に拾っていただいたのじゃ」


「月の夜に行き倒れていたから、月の翁だ」


 孫市は、独り言のようにそう呟いた。この場には、孫市と月の翁、三郎の三人しかいない。


「それ以来、ここで占卜なんぞをしながら世話になっておるのですがな。いやしかし、ここの暮らしは実に面白い。ことに鉄砲を教えていただいてからは、山でタヌキ……いやここではムジナでしたな。ムジナを撃ち、その汁物をいただくのが残り少ない人生の楽しみですじゃ」


 翁はそう言って孫市を見て、かかと笑った。孫市が間違いを認めず、ここではムジナとタヌキがあべこべであることは、広く知れ渡っている話のようであった。

 翁の笑いを受けた孫市は、ばつが悪そうな様子で頭をかき、視線を船着き場へ移したが、ふとその視線が止まった。

 三郎が、その視線の先を追いかけると、船着き場の人々の中から一人の男が歩いて来る。その動きを確認した孫市は三郎に身を寄せ、耳打ちをしてきた。


「……堺の、天王寺屋の奉公人だ」


 そう言われた恰幅のよい男は、笑顔を浮かべてやってきた。


「これはこれは孫市様、お久しゅうございます。大変ご無沙汰をいたしておりまして……」


「……俺は、おぬしの音沙汰なんぞどうでもよいがな」


「これはなんとも……相変わらず手厳しい。しかし手前どもは、御隠居様や御先代様から御依頼を頂戴いたしまして、こうして商いに来ておるわけでございますからな。是非ともお手柔らかに願いたいものですが……おや、こちらの御方は?」


 男は苦笑いをしながら、僧体の三郎の顔をうかがう。


「……石山本願寺坊官、下間家に連なるお方だ」


 三郎が、答えていいものか考える間もなく、孫市がそう答えた。

 やむなく三郎は、


「……苑也と申します」


 と名乗る。


「おお、これはとんだご無礼を……手前は堺の商人で、天王寺屋の番頭をしております喜兵衛と申します。いやあ、下間家の方々には、実に長きにわたりお世話になっております。今後とも、是非ご贔屓のほどを」


 喜兵衛と名乗った男はそう言って、深々と頭を下げた。

 天王寺屋の主人は、津田宗及という会合衆の一人で、堺の商人の中でも豪商として名高い。その天王寺屋は、石山本願寺とも長い付き合いがあった。

 そんな天王寺屋の番頭の言葉を聞いた孫市は、厳しい顔で舌打ちをしながら喜兵衛の元に詰め寄る。


「ほう、贔屓にか……しかし、堺は今や信長の支配下にあるではないか。ならば織田と手切れして本願寺に付くのか?」


「孫市様、手前どもは商人でございますれば、敵も味方もございません。御用命とあらば、どのようなお方にも品物を用意して、お売りするだけでございます。それが、堺の商人でございます」


「それで、どちらにも武器を売るわけだな。他人の流す血で金儲けか」


「……そのお言葉は、心外でございます」


 その孫市の言いように、さすがに喜兵衛の顔からも笑みが消えた。


「孫市様は、我々をお嫌いのようですが、我々には我々の商いの義、というものがございます。商いの基本は、売る側買う側の双方が、利を分け合うことにございます。今、本願寺の方々にも雑賀の方々にも、我らとの取引は有益であると存じますが」


「そうやって商人のみが肥え太るわけか?」


「……孫市様、今この日本を取り巻く環境を御存知ですかな?諸外国、とりわけ南蛮人は貿易の名のもとに、この国の富を一方的に搾取しようとしているのですぞ。

 世界中の国々が、南蛮人との不利益な貿易を強いられております。それは、南蛮人に比べて、商いが未熟であったからにほかなりません。諸外国の交易事情にあかるい我々なくして、彼らと対等の交易はできないのです。我々の大義は、この国の富、すなわち人々を守ることにほかならず、そのためには、商人が力を付ける必要があるのです」


「詭弁だな。そうやって外国からの危機をあおり、武士も公家も、たぶらかすか」


 孫市は聞き耳持たぬ、といった様子で首を振った。おそらくこのまま話しても、彼が喜兵衛の主張を認めることはないだろう。


「孫市殿、それぐらいにしてやってくれぬか」


 不意にかけられたその言葉に一同が向き直ると、近くの建物の陰から下間頼廉が現れる。

 頭を撫でながら、ゆっくりと孫市と喜兵衛の間に入ってくると、喜兵衛は慌てて深々と頭を下げた。


「孫市殿、信長の支配下である堺から、本願寺や雑賀に物資を運んでくることは、たやすいことではなかろう。その天王寺屋の骨折りは、感謝してやってもよいのではないかな?」


「甘いことですな。この際、脅してでも織田と手切れさせて、我々のみと取引させるべきでは?」


「天王寺屋の意が、堺会合衆の総意でもあるまい。ましてや番頭を問い詰めても、その主人の意向があろうて。おぬしにしても、御隠居や御先代が認めている以上、納得するしかないのではないか?」


「……然り」


 孫市は短くそう言って、ようやく笑顔を見せた。しばらく頼廉と三郎の顔を交互に見て、喜兵衛の手を取る。


「いや、すまなかったな。俺はどうも偏屈なところがあってな……いや、今後ともよろしく頼むぞ」


 孫市が軽く頭を下げると、喜兵衛は、それ以上に頭を低くした。


「とんでもございません、手前も分をわきまえず、御無礼いたしました。御容赦くだされませ」


 喜兵衛は孫市にそう許しを請い、頼廉に向き直る。


「下間刑部卿様、御無沙汰をいたしておりました。いや、下間家の方々には、いつもお助けいただくばかりでございまして……」


「なんの、主人は息災か?今後ともよしなにと、伝えておいてくれ」


「心得ております」


 喜兵衛はそう答えて深々と頭を下げ、孫市や三郎にも礼をして仕事に戻っていった。


「刑部卿殿、一つ伺いたいのだが……御法主の右筆、鳥居小四郎は、天王寺屋の口利きで本願寺に来たと聞いたことがあるが、まことですか?」


 孫市は口をへの字にして喜兵衛の後ろ姿に視線を送り、頼廉に尋ねた。


「別に誰の口利きというわけではない。あれは御法主様の御希望でな、本願寺の財貨の管理に算術にあかるい者が必要でのう、堺に人材を頼んで、右筆の肩書で来てもらったのじゃ」


「平たく言えば、堺から流入する金銭を管理しているということでござろう。そして今や、その男が表向きのことにも口をはさんでいる。俺には、由々しきことのように思われますがな?」


「堺の支援なくして、信長に対抗はできぬ。それに会合衆とて、それなりの危険を背負いながら我々に協力してくれている以上、彼らの意も多少はくんでやらねばなるまい」


 堺を事実上屈服させている信長が、石山本願寺への物資横流しのような会合衆の行為を許すはずもなく、もし事が露見すれば、堺もただではすまない。会合衆も商人としての覚悟をもって支援している以上、石山本願寺に対しても、利己的にならざるをえない部分も出てくるということだろう。


「……刑部卿殿、この際だからはっきりさせておきたい。近頃、俺の信心が、石山本願寺の内部でも疑われているのは、百も承知している。しかし、俺には御法主に対して誰にも負けないと自負しているものがある」


 孫市はそこまで言って、一度息を吐く。


「忠誠心」


 続けて出てきたその孫市の一言は、三郎の抱いてきた孫市の印象とは異なっているといっていい。


「俺はこの銃に御法主の念仏を頂いたときから、この御方のために命を懸けようと心に誓った。その上で申し上げる。堺の会合衆の息のかかった者を、御法主に近づけるべきではない」


 孫市は、体の一部のように親しんでいるであろう銃を愛おしそうに眺めながら、再び自らの懸念を述べた。その銃の台座に見える南無阿弥陀仏という念仏は、顕如自身の手によるもののようであった。


「孫市殿、おぬしの気持ちは、御法主様も儂も、ようわかっておる。しかしすべては、御法主様御自身がお決めになったことである。再び織田方と手切れとなれば、前よりさらに厳しい状況になることは、間違いなかろう。すべてが綺麗ごとではゆかぬ。その清濁併せのむ御決意を、儂は尊重して差し上げたいのだ。わかってくれぬか?」


 頼廉のその言葉に、孫市は顔を両の手で覆い天を仰いだ。しばらくそのままでいたが、不意にその手で大きな音が出るほど自らの頬を叩き、頼廉に向き直った。


「……納得はいたしかねる。しかし、御法主には従おう」


(雑賀孫市という男は、鬱屈している)


 三郎は、答えを返した孫市の表情を見て、そう感じた。

 謀略を得意とする間者であれば、離間の計を仕掛ける絶好の機会と捉えるかもしれないが、三郎はそんな密命を受けているわけでもなく、またそんな手練もない。

 ただ、この鬱屈を晴らすための矛先は、銃弾として信長に向かうかもしれず、それを許すことは、三郎の面目にかかわることであるだろう。


「……やれやれだ。翁が羨ましいぞ」


 孫市は頭をかき、月の翁の曲がった背中に声を投げかけた。


「……人には生まれ持った宿命がございます。お頭は、孫市になるべくして生まれたお方じゃ、快楽も苦労も人一倍でござろうて。この爺なぞは何も背負わずに生まれ、この齢にして花鳥風月を愛で、獣肉を食らい、少しの占いだけで好き勝手に生きておる。実にありがたいことですな」


 そう言ってからからと笑う月の翁の隣で、孫市も自棄になったように笑う。しまいには三郎の肩をたたきながら笑うので、三郎もやむを得ず、少し引きつった笑いを浮かべるしかなかった。

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