孫市と苑也
三郎が、食事をすませて身支度を整え部屋を出ると、そこにちょうど孫市と蛍が現れた。
「おはようございます、苑也様。昨夜は、ゆっくりお休みになられましたか?」
蛍がそういって、笑顔で駆け寄ってきた。
ここは、雑賀にいくつかある、道場と呼ばれる一向宗布教の施設であった。道場の廊下は、陽が昇ったあとでも、ひんやりとした冷気を残している。
「おかげで、ゆっくりと寝ることができた。朝餉もうまかった。かたじけない」
三郎も笑顔をつくり、蛍にそう返す。
「お米も、海の魚も、野菜も……みんな雑賀の自慢のものでございます。そういっていただけると、私も嬉しゅうございます」
蛍は両手を合わせて喜び、なおも話を続けようとしたが、後ろにいた孫市に呼び止められた。
「蛍、苑也殿を親父のもとへ連れて行く……支度をしろ」
孫市にそういわれて、蛍は一瞬不満げな表情をみせたが、すぐに笑顔に戻り、三郎に会釈をして廊下の向こうへ消えていった。
「……随分と蛍に気に入られたな?」
蛍を目で追っていた孫市が、三郎に顔を近づけてそう言った。
「……そうでしょうか?」
三郎はそう答え、孫市から少し後ずさる。
「そう見えるな。普段はがさつなあの女が、しおらしいことだ。しかしな、気をつけたほうがよいぞ」
孫市は、ひどく神妙な顔つきでそういった。
「どういうことで?」
「あいつはな、自分の身分も考えず、それなりの家の女房におさまりたい、などと願っている女だ。あれに手をつけて孕ませでもしたら、おぬしと下間家の将来に、禍根を残すことになるぞ。いや、あぶない、あぶない」
孫市は、冗談とも本気ともとれない様子でそういった。
三郎は間者として下間家に入っている。役目のことに手いっぱいで、女のことなど思いもよらない。役目を果たすこと以外は、何が命取りになるかわからないのである。
「そんなことはないと思いますが?」
しかし、三郎がわざわざそう返したのは、孫市の反応をみてみたいとも思ったからである。そしてそれは、身内をあしざまにいう孫市に、多少の反感を抱いたからでもあった。
「苑也殿、そんなことはどうでもよい。それより、昨日のことだ」
(……自分で言いだしておいて)
さすがの三郎も、孫市の調子にあきれてしまった。会話というより、思いつきを口にしているだけのようにみえる。
「……昨日のこと、とは?」
「もちろん、御法主を狙った賊のことだ」
孫市は、ひどく神妙な顔つきで、今度はその表情に見合ったことを口にした。そのまま廊下にあぐらをかいて座り、三郎にも手で座るように促す。どうやら、長く話すつもりらしい。
「おそらく今ごろは、石山本願寺の僧侶たちも、血まなこになって賊の背後を探っておろうが、奴らが一人残らず死んでいる以上、決定的なものは出てこんだろう。でな、苑也殿……おぬしの正直なところを聞きたいのだ。腹を割って、な」
孫市はそういって、三郎の目を見つめた。雑賀衆と石山本願寺という立場を超えて、肝胆相照らしたいということであろう。
「そういうことであれば……先にひとつ、お伺いしたいことがございます」
この二人にしては珍しく、三郎がそう注文をつける。
「……何かな?」
「孫市殿には不快なことかもしれませぬが、昨日、御法主様の右筆、鳥居小四郎殿が申したことでございます。正直なところ、私も同じことを感じたのです。あの賊が、無礼にも御法主様に銃口を向けたとき、孫市殿に賊を撃つ気配を感じたのですが、結局撃たなかった……そのことをお伺いしたかったのです」
三郎は、懸念が払拭されなければ垣根を超えることはできないことを、その言葉で暗に示す。
「……なるほど」
孫市はそう頷いて、顎に手をあてた。
「そうだな……理由は二つある。一つは、確実に一撃で賊を仕留める自信がなかったことだ」
「孫市殿が?」
その理由は、三郎には意外であった。
「人間を撃つということは、風に揺れる節穴を通すより難しい。人は、自然の理に反した動きをすることがあるからな。あの時引き金を引けば、十中八九仕留める自信はあった。しかし、八九では俺は撃たぬ。もし外せば、そのときこそ御法主がどうなっていたかわかるまい」
孫市は、はっきりとそういった。つまりこれは、一撃必殺でなければ、引き金を引くことはないということであろう。それは、孫市なりの射撃への美学といったものなのかもしれない。
「もう一つは、言葉で説明するのはなかなか難しい。なんというか……あの賊の銃には、人を撃つという気概が感じられなかった。銃が暴発する兆しというか……これは、理屈ではなく、長年銃と共にあった俺の感、のようなものだ。仏の加護と申せば、そうであるやもしれぬが……」
それは、この男にしては少し歯切れの悪い言葉であった。
「まあ、撃たなかった理由は、そんなところだ。御納得いただけたかな?」
その明快さにかける銃の気概という言葉は、腹を割って話すというには、少々物足りない。
しかし、本当に腹の底を見せることができないのは、間者である三郎の方で、突き詰めた話が続くことは、三郎のほうが避けたい心情であった。
「……納得いたしました。孫市殿の御法主様に対する献身、でございますな」
曖昧なものは曖昧なままがよい。三郎は、一つ目の理由でもって納得した素振りを見せた。
「ならば、話を続けようか」
孫市は、三郎の返答を聞いてにやりと笑う。
「俺が聞きたいのは、昨日の賊の様子だ。何か、違和感を感じなかったか?」
「違和感、でございますか?」
「ん……違和感というか、疑問というか……要するに、奴らの目的よ」
孫市は、自らの疑義を明確に語った。
「……それはやはり、御法主様のお命では?」
「果たしてそうかな……第一、妙だとは思わんか?御法主を殺すのが目的なら、襲撃して輿が地に落ちたときにでも、すぐに撃てばいい話ではないか。確実にしとめたいのなら、輿に乗り込んで至近距離で撃てばよい。それをわざわざ時をかけて輿の周りにいただけで、その挙句、我らや三緘衆に追いつかれて包囲され、確実に御法主を殺せる時を逃した。馬鹿な話だと思わんか?」
確かにあのとき、孫市達が輿に追いつくまでわずかながら時間があった。もちろん、引き金を引くには十分であろう。襲撃者たちが輿を担ぐ従者を切って、輿を地面に落としたのならば、刀で斬りかかることすらできたはずである。
「つまり、目的は別にあったと?」
「最終的に引き金を引いたのだから、殺すつもりはあったんだろうよ。だが、腑に落ちん。もし仮に、他の目的があったとしたら……なあ、苑也殿。何か気づいたことはなかったか?」
孫市にそう言われ、三郎はあの時の光景を脳裏に浮かべた。
その記憶は新しいためか、はっきりと思いだすことができたが、漠然と気づいたことといわれても、雲をつかむような話でもある。
「気づいたことと言われましても……」
「何でもよい……何か思い出してくれ」
そう言われてもう一度頼まれた三郎は、腕を組んで思案した。しばらく時が流れる。
「……そう言えば」
しばらく思案していた三郎が、口を開いた。
「そう言えば?」
何か思い浮かんだ三郎の様子を見て、孫市は身を乗り出す。
「我々が急報を聞いて追いついた時、賊どもは多少興奮しているようでしたが、まだ冷静さがあるように見受けられました。しかし、御法主様が輿からお姿をお見せになられたときから、ひどく動揺したように感じたのですが」
「……確かに、あの時を境に様子が変わったように思えるな」
孫市はそういって、乗り出した上半身を少し戻した。
「奴らの目的が御法主様のお命ならば、渡りに船といった状況にも見えます。銃の目の前にお立ちになられたのですから。しかし、思いだせる賊の様子は、好機を得たという感じはしなかったのですが……」
「……御法主の姿に呑まれたのかもしれん。なにせあの威厳は、尋常ではないからな」
孫市のその言葉に、三郎もあのときの顕如の美しい立ち姿を思い出した。
しかし、それだけであろうか?
三郎は記憶の糸をたぐり、その直前の様子を、慎重に脳裏に蘇らせる。
「確かに、それもあるかもしれません。しかし、その直前に賊が言った言葉が気になるのです」
「ふむ……何と言っておったかな」
「我々の動きを制したあと、輿がどうとか……確か、輿から?」
三郎の記憶が確かならば、そう言ったはずである。
「それは、輿から出るように言おうとしたのではないか?御法主を銃で……」
孫市はそこまで言って、にやりと笑みを浮かべた。
「……なるほどな、希望どおりに御法主が輿から出てきたのに、奴らの反応は妙ではあるな」
そもそも顕如を殺すためだけならば、襲撃者はそれまでにいくつもの機会を逃している。その上、決定的な状況ですら想定外といった彼らの様子を見れば、目的は他にあったとみるべきであろう。
孫市は、もう一度身を乗り出す。
「で、苑也殿はどう見る?」
「しかとは申せませぬが……」
三郎はそう前置きした上で、推測を続ける。
「……奴らの目的は、御法主様を銃で脅すことそのものにあったのではないでしょうか?」
「ほう……?」
孫市はそう呟き、自らの顎を撫でて思案する仕草をみせて、逆の手で三郎に続きをうながす。
「つまりなんと言うか、許されざることでございますが……銃で脅すことで、奴らの思うままにして、衆目に晒すことでその威厳を削ぎ、御法主様を貶めることこそ、真の目的だったのでは?」
もちろん三郎にしても、明確な裏付けがあっての話ではない。孫市に聞かれ、思いついたことを取りあえず言葉にしてみたに過ぎないのだが、いざ口に出してみると、十分にありえる話ではないかと思い始めていた。
「ところが、脅しつけて名声を貶めて撃つどころか、衆目にあの御威徳を見せつけられた。賊の狙いとは正反対の結果になったわけです。そして、進退きわまった賊は混乱し、引き金を引いた……」
三郎は、孫市の目を見つめながらそういって、その反応をうかがった。
その推論は、織田の間者という視点からでも、石山本願寺の門徒という視点でもなく、ただ感じたものを言葉にしただけであった。
孫市は、そんな三郎の視線を見つめ返しながら、腕を組んで、しばらく微動だにしなかったが、やがて面白くもなさそうな表情で口を開く。
「苑也殿、我ら雑賀衆が一枚岩でないことは、おぬしも知っていよう。そして、今回の御法主の来訪の目的が、本願寺か織田か、決めかねている者たちを懐柔するためのものであることも、知っているだろう。そんな今回の来訪で、もし御法主が醜態を晒して、その威信が問われることになれば、雑賀で離反する者も出てくる可能性はあった。そう考えれば、おぬしの推測は正しいのかも知れん」
孫市はつまらなそうな顔をしたわりには、三郎の推測に概ね同意したようであった。おそらく面白くないのは、襲撃者のやり方であろう。
「ただ殺すだけでは、極楽浄土に行って仏になる。だから徹底的に貶めて、それを衆目に晒した上で殺すというわけか……つまらんことを考えるものだが、わからんでもない。しかしそうなると奴らの正体は何者だと思う?」
「それはやはり……織田方の刺客、ということになりましょうか」
この問いに関しては、三郎もそう答える他ない。客観的にみて、誰もがそう思うところだが、孫市は意外な答えを返してきた。
「……それに関しては、少し異論があるな。この雑賀の地には、よそ者は入っては来れん。ましてや、あの人数の賊が雑賀荘の中心、雑賀御坊の近くまで忍び込むなど、あり得んな」
孫市は、自信ありげにはっきりとそう断言した。
確かに、雑賀御坊は雑賀の中心地であり、ここに火縄銃と刀で武装した賊が簡単に入り込めるとは思えない。事実、三郎の主である滝川一益は、雑賀への潜入を不可能と判断し、三郎を石山本願寺に送り込んでいるのだ。孫市の自信は、決して大袈裟なものではない。
「では孫市殿は、賊の正体は何者だと?」
「……可能性は二つあると思っている。一つ目は、根来衆だ」
根来寺を根拠地に活動する根来衆は、雑賀衆ともつながりの深い僧兵集団であったが、信仰の違いからか一部がすでに、織田方に通じているともいわれていた。
「しかし、奴らが根来衆であれば、すぐに我々にはわかる。今の、本願寺方とも織田方ともいえぬ根来衆の立場から考えると、すぐにばれるあぶない橋を渡って、本願寺を完全に敵にまわすとは考えられん。完全に、俺たち門徒を敵にまわすことになるからな……そう考えると、根来衆が一枚噛んだとするならば、賊を手引きした可能性だが……」
孫市は、少しいいよどむ。
「……根来衆の真ん中にいるのは、津田監物という男だが、俺はそいつのことを、よく知っている。知ってはいるが、はっきりいうと馬が合わん。しかしな、御法主の威厳を貶めた上に、果ては殺すといったつまらんことを、あの男が認めるとは思えん。根来衆もいくつもの僧坊にわかれてとても一枚岩とはいえないが、監物の意向は無視できんからな」
その孫市の言葉からは、馬が合わないといいながらも、根来衆の中心人物である津田監物のことをそれなりに評価していることがうかがえた。
三郎は、新しく得た根来衆の情報として、津田監物の名を心に留めておく。
「では、もう一つの可能性は?」
「……堺の商人どもだ」
孫市は、憮然とした表情でそう言った。三郎はすでに、孫市が堺の会合衆に対して、どんな感情をいだいているかを知っている。
「……堺の会合衆を、孫市殿が嫌っておられるのは存じておりますが」
「おいおい苑也殿、俺がただ堺憎しで言っているとでも思っているのか?」
孫市は、心外だと言わんばかりに目をむいて、邪推ではないかという三郎の推測を否定した。
しかし三郎からしてみれば、賊と商人という二つは、うまく結びつかない。
「俺は、根拠もなくそう言っているわけではないぞ。雑賀の湊でもっとも多いよそ者は、間違いなく堺の商人だ。奴らは、そのまま内陸まで荷を運ぶこともある。武器も人間も、うまく荷駄に隠すことができれば、潜入できる可能性も高い。というよりむしろ、それ以外の方法が俺には考えられん」
荷駄に偽装して潜入するという手口は、古今東西ありふれた方法ではあったが、それ故にもっとも使われる手段ではあった。そのことに関しては、三郎にも異存はない。
「しかし、もし堺の商人が裏にいるとして……彼らが主導して、御法主様を害しようする理由が私にはわかりませぬ。孫市殿も以前、堺は裏で石山本願寺も支援している、と言っていたではありませんか」
孫市は以前、初めて三郎にあった時に、石山本願寺と堺の繋がりを口にしていた。その後、三郎も石山本願寺でそれとなく探っていたのだが、どうやら堺からの支援は、間違いないようだった。
「……苑也殿、そもそも堺がなぜ石山本願寺を支援しているかわかるか?」
「なぜでございましょうか?」
「戦を長引かせるためだ」
孫市はそういって、再びつまらなそうな顔をしたが、まさかといった表情の三郎を見つめて、一瞬笑みを浮かべた。
「先頃、甲斐の武田が設楽原で、信長と合戦に及び、一敗地に塗れたことは、おぬしも知っておろう。俺は、この戦の状況を一目見ようと、三河まで行っていたのだが、信長が用意していた火縄銃の数は、優に三千丁は超えていたようだ。国友などの信長が支配する生産地だけでは、それだけの数はそろうまい。残りはどこから調達したと思う?」
「……やはり、堺でしょうか」
「そうだ。そしてこれは、織田方だけの話ではない。石山本願寺が決起して以来、伊勢長島に至るまで、根来と雑賀の銃だけでは、門徒衆の分まではまかなえん。残りをどうするか、それだけの銃を用意できるのは、堺しかない。銃だけではない、戦に関わる多くの物資を堺は提供する。特に硝石は、堺が独占しつつある。つまり戦が多ければ多いほど、長ければ長いほど、堺の儲けというわけだ」
その孫市の言いようは、まるで堺の商人が、死を呼ぶ存在であるかのようである。
「にわかには、信じられませんが……」
「信じようが信じまいが、それによって堺が莫大な利益を上げているのは事実だ。俺の考えが妄想であってもな」
孫市がそう言い終えて、顔を上げて振り向くと、いつの間にか支度を済ませた蛍が、孫市の後ろに立っていた。どうやら三郎だけでなく、孫市も会話に夢中で気づかなかったらしい。
「いつからいた?」
「……仲のおよろしいことで……」
蛍はそういって、なぜか不機嫌な表情を浮かべた。
孫市は蛍の言葉には何も答えずに、ゆっくりと立ち上がった。続けて、三郎も立ち上がる。
「では参ろうか、苑也殿。隠居が待っておる」
孫市はそう言って、歩き出した。
三郎は、孫市との会話の内容もまとまらず、少し虚ろになって立ち尽くしていたが、蛍にうながされて、慌ててあとに続いて歩き出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます