十ヶ郷の朝

 翌朝、目覚めた三郎は、久しぶりに悪夢をみることもなく熟睡できたことに、複雑な気持ちを抱いた。

 間者として潜入していることを考えれば、油断とも言えるのだが、肝のすわった図太い行動は、成長の証であるとも言える。しかし、その背景に旅の疲れがあったとすれば、成長とは言えないであろう。 

 三郎は今、鈴木氏の本拠地十ヶ郷にいる。

 この織田の間者は、朝のまどろみの中で、昨日のことを思い出していた。

 あの後、程なくして雑賀御坊に到着した孫市達一行は、法主顕如ら僧達と、他の雑賀衆が御坊に入るのを見届けたのち、本拠地である十ヶ郷への帰路へ着こうとした。

 しかし、頼廉ら本願寺の重臣達が、法主の警護を理由に孫市らを御坊に留めようとしたのは、昼間の襲撃からして当然のことであった。


「刑部卿殿、我々も鳥居殿にあそこまで言われては、思うところもある。なにしろ俺の部下は短気な奴ばかりで、同じ屋根の下におっては、鳥居殿の安全も保障できん」


「孫市殿、小四郎には今一度儂から厳しく言っておく。おぬしが警護に加われば、皆が安心し、御法主様も枕を高くして寝ることができるというものじゃ。御再考願えんかの?」


 頼廉は、説法をして諭すときのように、穏やかに言う。


「……御心配には及びますまい。若太夫にも意地があろう、同じような失態はないと存ずる。むしろ、我々のことを鳥居殿は警戒しておられるようで……」


 孫市は、そう言ってわざとらしく大声で笑った。そして頼廉に近づき、


「それに何より、御法主には仏の加護がおありであろう?」


 と、声をひそめて意地悪く言った。頼廉は、苦笑いをするしかない。


「さて、苑也殿……おぬしは我々と共に十ヶ郷に来てはどうか?どうせ、やることもなかろう」


 孫市は、遠慮なしにそう決めつける。


「……ありがたいお申し出でございますが、私の一存では……」


 三郎はそう言って、頼廉の様子をうかがった。

 二人を交互に見ていた頼廉は、頭を撫でながら三郎に近づき、懐から細長い箱を取り出した。


「……この中には、十ヶ郷にいる御隠居にあてた書状が入っておる。向こうに着いたら、できるだけ早く御隠居に渡しておいてもらいたい」


 頼廉はそう言って、その箱を三郎に手渡した。どうやら初めから、三郎を自らの使いとして十ヶ郷に送るつまりだったらしい。


「孫市殿、儂も近いうちに御隠居にお会いしたいが、今日のところは、この甥を使いとして出すことといたそう。御隠居には、よしなにお伝えくだされ」


「承知した。では、参ろうか」


 孫市はそう返答して、早々と歩きはじめた。その後を、笑顔の蛍を先頭にして一行が続く。


「では、いって参ります」


 そういって、一行の後を追って歩き出そうとする三郎を、頼廉が呼び止めた。振り向いた三郎に近づき、声を落とす。


「……おぬしも気がついておろうが、我ら石山本願寺と雑賀衆の間は、決して盤石とはいえないところもある。儂は、孫市殿には全幅の信頼をおいておるが、立場上、それだけで雑賀衆すべてを信頼するわけにもいかぬ」


 頼廉は、固い表情でそう呟く。


「それでな、十ヶ郷に入ったら、それとなくでよい。雰囲気だけでもみておいてくれぬか?」


(間者をする、ということか)


 三郎はそう思い、その複雑で不思議な自らの立場に心の中で苦笑した。

 つまりこれは、二重に間者をするということに他ならない。


「なに、間者をしろといっているのではない。我らと雑賀衆の友誼のため、彼らに石山本願寺に対する不満のことあらば、こちらも心配りをしなければならぬ。おぬしに対する、郷の空気を感じてくるだけでよいのだ」


 三郎のわずかな表情の変化を不安と取ったのか、頼廉はそう言って、軽く三郎の背中を叩いた。その顔に浮かんだ笑みは、気負わずにやれ、ということであろう。

 そういった昨日の出来事を思い出しながら、まだ寝床に横になったままの三郎の目の前には、頼廉に託された書状があった。

 書状はまだ箱に入ったままで、三郎の知らない紐の結び方で結ばれてあった。

 おそらく、中の書状も一度封を切れば、元には戻らないようになっているのであろう。これは三郎が警戒されているわけではなく、密書のやりとりとしては至極当然のことであった。

 とは言え、三郎としては当然書状を見たい。なんとか方法がないものかと頭をひねっている内に、結局いつの間にか眠りにおちて、今、横になってそれを眺めている。

 こんなことでは駄目だ、と己を戒めた三郎は、いまだ惰眠をむさぼる体に鞭うってのそりと立ち上がり、障子をあけて朝の空気を部屋に流し入れた。もう陽はとっくに昇っており、まぶしい光が三郎の瞳を刺激する。


「お目覚めでございますか?」


 不意にそう声をかけられ、三郎は視線を落とす。

 廊下には、声の主の女童が立っていた。おそらくまだ、十歳にもならない年の頃であろう。水をたたえた桶を小さな両手にかかえ、手ぬぐいを腕にかけている。

 女童は、三郎の隣をすり抜け部屋に入り、桶を置いた。


「お顔を、どうぞ」


 かたじけない、と返事をする三郎にぺこりと頭を下げた女童は、手ぬぐいを三郎に渡し、もう一度頭を下げてそのまま小走りで部屋を出ていった。そのせわしない動きは、いかにも子供らしい。

 三郎が桶から水をすくい、ゆっくりと顔を洗っていると、すぐに先程の女童が戻ってきた。今度は、自らの身の丈を超えるであろう長さの火縄銃をかかえている。

 女童は、また三郎に頭を下げると、床にぺたんと座って、持ってきた手ぬぐいで銃を磨きはじめた。

 女童の持ってきた銃には、台座に南無阿弥陀仏と書かれている。三郎には、その銃に見覚えがあった。


「おぬし……その銃は……」


 女童は、突然三郎から話しかけられ、一瞬驚いた表情を浮かべたが、


「あ……わたくしは、小雀と申します」


 と名乗った。


「小雀、か。その銃は、孫市殿の銃かな」


 三郎の問いに、小雀はにこりと微笑んで、はいと答えた。


「小雀は、こうやって毎朝、お頭の銃を磨いているのです。お頭が帰ってくるまでに、終わらせておかなければいけないのです」


 小雀はそういって、また銃をせっせと磨きはじめた。


(これは、絶好の機会かもしれない)


 まさに、またとない機会であろう。

 三郎は、手ぬぐいでしっかり手と顔を拭いて、小雀に向き直った。


「いや、さすが天下に名高い孫市殿の銃じゃ……そのような美しい火縄銃は、私は今まで見たことがない。よほど、おぬしの手入れが行き届いているのであろう。どうかな、ぜひ私に見せてくれぬか?」


 相手は子供である。三郎は、怯えさせぬようにつとめて笑顔でそういった。

 小雀は、一瞬考える仕草をみせたが、一度銃を見つめて、


「よろしゅうございます!」


 と言って、元気よく銃を差し出した。どうやら、三郎にはあまり警戒心をいだいていない様子である。それは、この女童に言い含めている大人たちからも、警戒されていないということであろうと、三郎は解釈した。


(……下間の名は、私の間者としての力不足を補ってあまりあるようだ)


 三郎はそう感じながら、差し出された銃を受け取り、食い入るように見つめた。

 小雀の身長を優に超えるその銃は、火縄銃の中でもかなり長い部類に属するものであろう。三郎の知る限り、その口径からすれば、十匁の弾丸を放つ、侍筒と呼ばれているものに分類されるように思えたが、一般的な侍筒よりはるかに長い銃身をもっていた。

 そして、なにより三郎を驚かせたことは、それだけの口径と銃身をもっていながら、圧倒的に軽いことであった。

 三郎は、その軽さと造形の美しさに圧倒されながらも、銃口からのぞいたり、火蓋を開けたりして、繰り返し観察した。

 しかし、その構造そのものは、三郎の知らない技術などが使われているようには見えない。


(この銃で、あの寺内町での狙撃技術があれば、その有効射程はかなりのものかもしれぬが、しかし……」


 この孫市の銃が、長距離を撃つことに関して優れていることは、容易に想像できるものであったが、百間を超えるともいわれた野田城・福島城の戦いの狙撃を可能にできるかどうか、確たる証はない。

 三郎の主君である一益が、もっとも恐れていたことは、その狙撃を可能にする革新的な技術が銃に使われているのではないか、という懸念であった。

 しかし、少なくともこの銃を見たかぎりでは、根本的な部分において、一般的な火縄銃との差異は感じられなかった。

 ふと顔を上げると、小雀が不思議そうな表情で三郎の顔を見つめていた。

 三郎は、己の失敗に気がついた。おそらく、三郎のあまりに熱心に銃を観察する姿が、異様に映ったのだろう。


「……いや、実にすばらしい火縄銃だ。しかし、あまり真剣に眺めていると、すぐに飽きてしまうな」


 三郎は慌ててそう取りつくろう。

 万が一、この子の口からこの銃への執着が孫市に伝わっては、いらぬ疑念を抱かせる恐れがあったからだ。


「火縄銃には、飽きましたか?」


「ああ、少し飽きたかな」


「では、小雀がとっておきの技をお見せいたします!」


 小雀は、そういって元気よく立ち上がる。

 銃を食い入るように見つめていた三郎の様子は、あまり気になっていなかったようだった。そのまま両足を肩幅に広げ、両手を大きく掲げて、大きな声でがおーっと叫ぶ。


「これは……」


「熊の真似だな」


 三郎は特に意識することなく、何か言いかけた小雀の言葉を遮って、ぶっきらぼうにそう答えてしまった。

 銃に飽きたとはいいながらも、その視線は銃に釘付けである。しばらくして、小雀が黙ってしまったことに気づき、顔を上げた。

 小雀は、見る間に顔を紅潮させ、瞳に涙をためている。言葉を遮られたからなのか、返事が素っ気なく冷たかったからなのか、結局自分に興味がない様子が悲しかったからなのか……遂には、大粒の涙をぽろぽろとこぼし、泣き出してしまった。


「あ、いや、すまぬ。これは……」


「いえ、苑也様は悪くありません。小雀は、小雀は……」


 小雀はそういって、両頬の涙をぬぐった。

 女童は、ちゃんと苑也と言う名前を知っていた。その上で、楽しませようとしてくれたのだろう。その気持ちを思うと、三郎はいたたまれない気持ちになり、己を恥じるしかなかった。

 三郎がどうしようかと困っていると、廊下から人の気配があった。


「おはようございます、苑也様……あらあら、どうしたの小雀」


 そういって部屋に入ってきたのは、鶴であった。両手にもったお盆からは、朝餉がゆらりと湯気を立てている。


「いや、あいすまぬ。私が、この子に悲しい思いをさせてしまった」


「苑也様、お気になさらず。この子は泣き虫で、ちょっとしたことですぐ泣いてしまうんですから……しばらくしたら、なんで泣いたかも忘れておりますよ」


 素直に謝る三郎に、鶴はそういって笑い、運んできた朝食を三郎の前において、


「さあ、お口にあうかどうかわかりませんが、お召し上がり下さい」


 とすすめた。

 朝食は、飯と焼いた魚、味噌汁に漬物のようであった。それぞれの器から漂う匂いが、三郎の鼻腔をくすぐる。


「……孫市殿は?」


「今、所用で出ておりますが、もうすぐ帰って参ります。今日は、御隠居に会いに行かれるのでしょう?……お頭は、自分で苑也様を案内すると申しておりましたよ」


「それは、かたじけない」


 三郎はそう返して箸を持とうとしたが、自らがまだ孫市を銃を握っていることに気がつく。


「やはり孫市殿の銃は、美しいものだな」


 三郎はそういって、手に持っていた銃を小雀に手渡した。泣き止んで袖で涙を拭いていた小雀は、先程の泣き顔が嘘であるかのように、満面の笑顔をみせて銃を両手に抱える。

 どうやら、孫市の銃を誉められたことで、女童の機嫌は、直ったようであった。

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