紀ノ川を上る

 湊から続く東の街道は、紀ノ川に沿って続いている。

 川沿いの道はよく整備されており、多人数の通行にもまったく支障はなかった。川には小型の船が多数浮かび、漁業も盛んなことがわかる。その道を隔てた南側には、農耕地が広がり、その向こうに多くの集落が見えた。

 僧たちに交じって歩く一行は、但中という大柄な男を先頭に歩いている。

 その後ろを歩く三郎の隣には、鶴と蛍がいて、一番後ろを無二という痩せた男が歩いていた。


「さきほど孫市殿は、土橋殿と言っておられましたが……では、ここが雑賀荘ですか?」


 三郎は、隣を歩く鶴の美しい横顔に話しかける。その年の頃は二十代半ばであろうか、楚々とした美しさがあった。


「そこの紀ノ川と、南からつながる和歌川に囲まれた地域は、すべて雑賀荘になります。御法主様が御説法なされる、雑賀御坊のある場所も雑賀荘ですから、ここから御坊まではずっと雑賀荘です。和歌川を隔てて東側が中郷、宮郷、南郷になり、紀ノ川の対岸、北側が孫市様や私たちの郷、十ヶ郷になります」


 鶴の言うこの五つの地域、五緘の人々を称して雑賀衆と言う。

 この中で、積極的に石山本願寺に協力しているのは、十ヶ郷と雑賀荘で、残りの三地域、三緘は地理的要因や、内部に宗派対立もあって、完全に一向宗と共闘しているわけではない。

 今回の顕如の法会のねらいは、これら五緘の結束を再び強め、反信長で束ねるために、頼廉と十ヶ郷鈴木党の思惑で実行されたもののようであった。裏を返せば、雑賀衆の分断を画策する織田方の調略が、成功しているとも言える。


「しかし、雑賀荘の湊は立派なものでございましたな。確か、薩摩や遠く明とも交易しているとか。おおそうだ、確か、弾薬のもとになる硝石も、交易で得ているとか。十ヶ郷の湊でもそうなのですか?」

 硝石とは、弾薬のもとになる物質で、国内での製法では大量の生産が難しく、急速に広がる鉄砲の運用に追いつくには、輸入に頼るしかなかった。

 織田方は、その大半を堺に依存していたが、雑賀衆の鉄砲運用にも、当然のことながら大量の硝石が必要になるはずである。

 織田方の予想では、雑賀衆は独自に異国から輸入しているのではないか、と見られていた。堺とは大っぴらに交易できないからである。


「硝石は……そうですね、昔はすべて異国からの交易で得ておりましたが。今は、どのくらいだったかしら?」


 鶴はそう答えながら、振り返って後ろの無二に尋ねる。


「今は……異国からは少のうございますな。大半は堺から来ておりますから、全体的な硝石の量は、かなり減っております」


 無二は、顎に手を当ててそう答えた。


(堺か……やはりまだ、つながっているのか)


 堺は、二万貫の矢銭を信長に支払って以来、表向きは信長に従っているように見えたが、どうやら裏では石山本願寺や、雑賀衆とも未だにつながっているようだった。

 寺内町でも孫市が言っていたが、どうも商いには敵も味方もないというのが、堺の商人というものであるらしい。


「しかし、堺から硝石を買うとなれば、当然、異国から直接仕入れるよりは高くつくのではありませんか?なぜ、すべてを直接仕入れないのですか?」


 三郎は、素朴な疑問を口にした。昔はすべて海外から得ていたというならば、今は直接交易できない理由があるということだろうか?


「……そこが、堺の会合衆のずる賢さよ」


 不意に発せられたその言葉に反応する前に、三郎は後ろから首を抱え込まれた。

 後ろを仰ぎみると、いつの間にか戻ってきた孫市の右手が三郎の首にまわり、左手は蛍を抱えていた。


「堺が商うのは、硝石だけではない。堺の商人は、硝石も含めてありとあらゆるものをまとめて買い取る。海の向こうの商人からすれば、すべての品物を取引できれば、利益も大きい。だから硝石の値段を安く交渉することができる。その点我々はなんでもかんでも取引はできん。それを商いする道がないからな。奴らはそうやって、南蛮との貿易を独占しようとしているのだ」


 孫市は、いつから聞いていたのか、三郎の疑問に、二人の首を抱えたままそう答えた。


「苑也殿、俺達雑賀衆ですら、硝石を異国から直接買い取れるのは、馴染みの南蛮商人に頼っても少量がいいところなのだ。それも、今後は難しい。このままでは、すべてのものが一度、堺を通らないと、手に入らなくなるかもしれんぞ。全国の湊が堺という大木の枝になるわけだ」


「まさか……それは信長が許しますまい」


 信長は、堺を手前勝手にするために武力で脅し、二万貫という軍資金を要求したのである。屈服した堺の勝手を、許すはずはない。


「信長は、堺の力を見くびっておる。二万貫という膨大な銭を支払わせて、飼いならした気になっているのかもしれんが、あの会合衆にとって二万貫など投げ銭のようなものだ。現に、石山本願寺を陰ながら支援し、我々とも交易しておるではないか。信長は、侮られておるのよ」


「しかし、堺は天下の名物茶器を、ことごとく信長に献上したと聞きました。それは、二万貫という銭以上に、信長に屈服している証拠ではありませんか?」


 今や名物と呼ばれる茶器の価値は、一国の領土に匹敵するほどの価値があり、堺の会合衆は、多数の名器を信長に献上していた。


「そもそも、唐物の器になんの価値がある?あんなものは、商人が勝手に値付けして、価値を釣り上げたものだ。信長もいずれ、目を覚ますであろうよ」


「二人とも……まるで織田信長の味方ね」


 三郎と孫市の言葉の間隙を縫うように、不意に蛍がつぶやいた。喋りすぎたか、と後悔した三郎は、不自然に口をつぐんでしまったが、幸いなことに、それは孫市も同様であった。


「……そんなわけがなかろう。つまらんことを言うな」


 孫市はそう言って、三郎と蛍の首を離した。そんな孫市の隣を、後ろに下がっていた鶴が、寄り添うように歩き出す。


「……孫市殿は、堺がお嫌いなのですか?」


 三郎はそんな孫市を見て、素直に感じたことを口にした。


「交易を横取りされて、好きなわけがなかろう。とは言え、堺との商いはせねば、もはや雑賀も成り立たぬ。商いはする、それだけだ」


 孫市は、苦虫をかみ潰したような表情でそう言った。どうやら堺への不信は、相当なものであるらしい。


「しかしお頭、ここにいていいんですかい?御法主様のもとから離れて……」


 先頭を歩く但中が、振り向いてそう尋ねる。


「ここ雑賀荘は、若太夫の領分だ。だから、土橋一党が御法主を護衛する。鳥居小四郎が決めて御法主が認めた……俺は知らん」


 どうやら孫市の不機嫌は、この話にもあるようだった。


「しかし、門徒である俺達を護衛から外して、そうではない土橋一党を護衛にするとは……お頭はそれでよろしいので?」


「良いも悪いも御法主が認めた。だから、この話は終いだ」


 孫市はいっそう不機嫌になり、その話を打ち切った。

 どうやら孫市の言うとおり、鳥居小四郎は、顕如の厚い信任を得ているようであった。おそらく、孫市の主張は通らなかったのだろう。

 その後も三郎は、雑賀のことを孫市達に尋ねながら、川に沿って北東に進んでいった。

 めざす雑賀御坊までは、まだまだかかりそうであった。

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