雑賀の潮風

 寒さが日増しに厳しくなる十一月のこの日、石山本願寺法主、顕如が石山本願寺を発ち、雑賀へ法会におもむくことになった。

 もちろん、石山本願寺の最重要人物の移動には、すべておいて万全の体制が必要となる。

 そのため、戦時でないにもかかわらず、石山本願寺からは、数百人の僧兵が護衛に付き従い、途中からはそれに出迎えの雑賀衆も加わるという、大規模なものとなった。

 行路もまた、織田方の勢力圏を避けた道でなければならない。

 一行はまず、大坂を出て南に向かい、船で川を下り、木津の河口から一旦海へ出た。そこから陸沿いに進んで、紀ノ川河口の港に入るのである。

 三郎は、一番先頭の船に乗り込んでいた。

 顕如や頼廉の乗る船は、中程を進んでおり、海に出てからすぐ、雑賀衆の安宅船が護衛に出てきた。

 三郎は、青い海を眺めながら胸いっぱいに息を吸い、潮の香りを嗅いだ。その香りに、馴染みのある伊勢の海を思い出す。

 そうこうしているうちに、周りは多数の雑賀衆の船によってかためられ、巨大な船団となって進んでいた。

 このあたりの海域は、完全に雑賀衆の勢力圏内であり、その強力な水軍は、伊勢方面からまわってくる織田の水軍を、まったく寄せ付けなかった。

 信長の配下には、九鬼氏が率いる有名な九鬼水軍があり、また三郎の主、滝川一益も水上戦に長けていたが、この強力な雑賀水軍に対しては分が悪く、陸地での戦いほどに優位に立ててはいない。

 陸を封じられつつあった石山本願寺にとって、この海域を支配する雑賀水軍は、まさに生命線であると言えた。

 途中で何度か陸地へ接岸して、休息を挟みながら、やがて船旅の終わり、紀ノ川の湊が見えてきた。

 巨大な河口には、大小様々な島が浮かび多数の船が行き来しており、三郎が乗る船からも、湊の大きさは見て取れた。

 船は、河口南岸の湊にゆっくりと近づいていく。そこには、多くの雑賀の人々が一行を出迎えようとしていた。

 港に接岸した、三郎の乗った船から一人の僧が上陸する。それを出迎えた男が挨拶を交わすと、三郎たち僧兵たちも次々に上陸した。長く船に乗っていたせいか、足元がふらつく。

 陸に上がった三郎は、周囲を見渡した。湊は広く、その規模はかなりのものである。雑賀は、ここから異国にまで交易路を広げているらしい。


「……?」


 三郎が不意に顔を上げたのは、何かの鳴き声が聞こえたような気がしたからである。おそらく烏であろうか、しかし、その姿は三郎の目には入らなかった。


「苑也様!」


 遠くからかけられたその声に、三郎は顔を上げた。今度は、人の声であった。

 その声の主、蛍が遠くから駆け寄ってくる。その後ろにいた孫市は、数名の配下を引き連れてゆっくりと歩いてきた。


「お頭、早く!」


 先に三郎の元へ来た蛍が、そう叫ぶ。


「騒がしいやつだ……別に苑也殿が、どこぞに逃げるわけでもあるまい」


 少し遅れてやって来た孫市は、蛍にそう言いながら三郎を見て、にやりと笑う。三郎は、孫市を見て会釈した。

 そんな三郎と一行の後ろでは、次々と船が港に入り、石山本願寺の人々が上陸して行く。


「よく私がいること、気づかれましたな」


 陸に上がってすぐに声をかけられたことに、三郎は驚いた。


「なに、目が良くなければ鉄砲撃ちは務まらぬ。苑也殿も、そうであろう?」


「……私が、ですか?」


 三郎は一瞬、孫市が何を言いたかったのかわからなかった。


「いや先日、寺内町で的を木に刺してもらった時、節穴から俺の目が見えたであろう。その目があれば、おぬしもいい鉄砲撃ちになれるぞ」


 孫市は今日も肩に銃を担いでいた。どうやら、これは平素のことであるらしい。


(やはりあの時、私の目を見ていたのか)


 三郎は、あの寺内町でのことを思い出した。しかし、まるで三郎の正体を知っているかのような口ぶりに聞こえたのは、考えすぎであろうか。なんにしても、孫市の洞察力は恐るべきものがあり、慎重に行動しなければならないだろう。


「それにしても、大きな湊でございますな。なんでも雑賀は、遠く海外とも交易していると聞いたことがございます。孫市殿も、ここからの交易に関わっておられるのですか?」


 三郎は、話題を変えようと、周囲を見渡しながら尋ねる。

 それに対して孫市は、一人の男を顎でしゃくってみせた。それは、はじめに上陸した僧を出迎えていた男であった。


「ここは、俺達の湊ではない。ここはあの男、土橋若太夫一党の縄張りだ」


 その孫市の顎の先にいた男、土橋若太夫は、次々と船から降りてくる僧侶達を出迎えている。

 紀ノ川流域の湊群は、紀ノ湊や雑賀湊と呼ばれ、それぞれ湊衆の縄張りが存在していた。

 ここは雑賀衆だけでなく、上流にある根来衆や高野山の湊にもなっており、その勢力図は複雑で、すべてを把握するのは難しい。


「俺達の湊は、あの川の対岸にある。おぬしが十ヶ郷に来るつもりがあるなら、案内しよう」


「是非、お願いいたします」


 三郎の本音としてはもちろん、時間のかぎり雑賀と、この孫市という男を見ておきたい。この男の、射撃の秘密を探らなければならないのだ。


「困ったことがあれば、なんでもこいつらに言ってもらっていい。この蛍は知っておるな?こっちの男は無二、こっちは但中だ。後ろの女は鶴」


 紹介された孫市の配下達は、三郎に頭を下げた。無二と鶴の二人は、先日下間屋敷に、孫市を迎えに来ていた二人であった。但中という恰幅のよい男は、初めて見る者である。


「しかし苑也殿、大坂からの船旅はどうだった?船酔いなんぞはしなかったか?」


「おかげさまで、実に気持ちのよい船旅でした。しかし、意外でした。雑賀には、てっきり山を越えていくものと思っておりましたが……」


 この辺りの事情を知らない三郎は、陸路を行くと短絡的に思っていたのである。


「御法主の輿を担いで、和泉の山々を越えるのは、中々難儀なことだ。その点海路は楽だし、我ら雑賀も護衛しやすい。第一、銃での狙撃を気にしなくてよい、山だの峠だのは、狙撃に適した場所がいくらでもあるからな」


「千草峠で信長を撃った、杉谷善住坊のようにですか?」


 杉谷善住坊は、信長を撃ったことで有名な人物であったが、結局狙撃に失敗し、鋸挽きの刑で処刑された人物である。巷間の噂話として、信長を撃った人物の名をあげるとすれば、孫市と共に名があがる人物であった。


「ほう、よく知っているな、苑也殿」


 孫市は少しおおげさに驚いてみせた。


「巷では、有名な人物でございましょう。雑賀とのつながりがあった、という噂もございます。孫市殿は、会ったことはおありですか?」


 その苑也の問いに、孫市は少し考える素振りを見せて、


「……俺は、知らんな。雑賀より根来に近かったのではないか」


 と、ぶっきらぼうに答える。善住坊にはまるで興味のない口ぶりであった。


「苑也殿、何も山を避けるのは狙撃のためだけではないぞ。蛍、あれの真似をしてみろ」


 孫市は蛍にそう言って、話を切り替えた。


「……いやです。私も、もう子供じゃありませんから」

 蛍はそう言って断ったが、孫市は何を言ってもきかない。蛍は仕方なく、両足を肩幅にひろげて、しぶしぶ両手を上げて消え入りそうな声で、がおー、と言った。


「……はあ……」


 十郎はよくわからず、首をかしげた。


「……恥ずかしい……」


 蛍は赤面して、上げていた両手をおろして顔をおおった。


「……苑也様、熊でございます」


 そんな蛍と嬉し気な孫市を見て、やれやれと鶴が助け舟をだす。


「ああ!……熊でございますか……あの山々では、熊がでるのですか、それは危のうございますな」


 三郎も蛍に気を使って、少しおおげさに驚く。


「苑也殿、我らからすれば、熊がでようが猪がでようが問題ではないが、石山本願寺の僧侶方からすれば、御法主に万一のことあらば、ということであろう。むしろ俺は、御法主の御前で獣を仕留めて、その肉を献上したいところであったがな」


 孫市は、蛍の様子などまったく気にすることもなく、そう言った。

 浄土真宗は、一般的な仏教徒が守らねばならないとされる厳しい戒律がなく、僧侶にも肉食妻帯が許された数少ない宗派であった。

 そしてそれがこの時代、その浄土真宗の教えを母体とする、一向宗が大きく勢力をのばした要因の一つであり、他力本願という教えとともに、他派と一線を画す部分でもあった。

 もっとも、信長が延暦寺焼き討ちの際に、僧侶の堕落を大義名分にしたことでもわかる通り、この時代の寺社では、戒律が有名無実と化していることも多く、すべての宗派において戒律が厳しく守られていたわけではなかった。

 そんな話をしているうちに、三郎の視界に見知った人物が映る。

 下間刑部卿頼廉であった。

 その頼廉が歩いてくる遥か後ろに、紫色の輿が見える。姿は見えなかったが、おそらく顕如が乗っているのであろう。


「これは刑部卿殿、お元気そうでなにより」


「……最近よく会っておるではないか。すぐに具合の悪くなる歳でもないぞ」


 頼廉は苦笑した。こうしたやりとりは、この二人の親愛の情の現れであろう。

 孫市の配下達が頼廉に深く礼をしていると、頼廉が来た方向から、もう一人男が近づいて来た。その姿を見て、孫市はあからさまな舌打ちをする。


「やれやれ……刑部卿殿は、俺の苦手な者も連れてきたようだな」


 そう言って軽く首を振る孫市の前に、その男はやってくる。


「孫市殿、御法主様がお呼びである。御同道願おう」


 歩いて来た男は、会釈もせず開口一番そう言った。その不遜な態度だけでも、この男の孫市に対する心証が見て取れる。


「あのお方は、どなた様でございましょうか?」


 三郎は、小声で頼廉に尋ねる。


「ん、あれか……あれは、御法主様の右筆の一人、鳥居小四郎じゃ」


 右筆とは、主君の文書管理をする秘書のようなもので、顕如にも複数の右筆がいるが、この鳥居小四郎の名は三郎も耳にしたことがあり、顕如が重宝する右筆とし知れ渡っていた。 


「心得た……すぐ支度して参る故、貴殿は先に行かれよ」


 孫市はそう言ったが、支度などない。ようは、一緒に歩きたくないのである。


「ならば、早々に参られるように……刑部卿法眼様も、お願いいたします」


「わかった」


 頼廉は短くそう答えた。小四郎は、孫市を横目で見ながら、戻っていった。


「……無礼ではありませんか、あんな……」


 蛍は、不満を隠そうともせず口を尖らす。


「蛍、およしなさい」


 鶴はそう言ってたしなめた。頼廉の手前である。蛍は少し口ごもり、結局何も言わなかった。

 そんな二人の姿は、姉妹のようにも見える。

 二人の様子を見て、含み笑いをした孫市は、ゆっくりと三郎の前に来た。


「苑也殿、あの男は随分と御法主に信任されている。新参者で、僧侶でもないあの男がなぜそこまで……わかるか?」


 鶴と蛍の会話などなかったかのように、孫市は三郎に尋ねた。


「私は、あのお方のことをよく存じませぬ故……わかりません」


 三郎が、鳥居小四郎を見たのは今日が初めてである。信任の理由など見当もつかないが、どうやら孫市には、何か心当たりがあるらしい。


「あの小四郎の後ろにいるのは、堺の豪商で会合衆の一人らしい。つまり、どういうことかわかるだろう?」


「つまり……どういうことでございましょうか?」


 三郎は何となく見当はついたが、頼廉の手前、言葉にはし難い。


「仏の慈悲も金次第、ということだ」


「孫市殿!」


 珍しく声を上げた頼廉は、苦虫を噛み潰したような顔をした。


「これは……失礼した」


 孫市は素直に頭を下げる。しかし、しばらくして上げた顔は、もう清々しい表情であった。


「……では、御法主の御尊顔を拝しに参るとしようか……お前達、先発する僧兵達に交じって、苑也殿を案内いたせ」


 孫市は配下達にそう言い含める。すでに僧兵達は隊列を組んで、街道から東に向かおうとしていた。


「伯父上様、よろしゅうございましょうか?」


「先発する者達は、もう出立の時刻じゃ。此度おぬしには決まった任もない、雑賀の方々に案内してもらえ。道々この地のことなど、教えていただくがよい」


 頼廉は、三郎に笑顔でそう答え、隣にいる孫市を促した。頼廉と孫市は、遠くみえる鳥居小四郎の方角へ向かい、連れだって歩いて行く。

 その二人を見届けてから、一行は僧兵達に交じって東へ歩き出した。

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