破戒僧

 ここ数日の間、三郎は同じ夢ばかりみている。

 その情景は、例の越前の街道で、苑也を撃った夕刻の風景であった。

 三郎に撃たれて、血だまりに沈む苑也の見開かれた瞳が、三郎の姿を映し出している。

 周りには誰もおらず、三郎は、必死で苑也のまぶたを押さえて閉じさせようとするが、何度やっても苑也の目は再び開く。

 永遠に続くかのようなその繰り返しに、三郎はついに念仏を唱えようとするが、喉の奥がへばりついたようになって、声が出ない。次第に呼吸が苦しくなり、まるで水中に沈んでいるかのごとくもがきながら、荒い息を吐き、目を覚ます。そんな朝が続いていた。

 あの日、死んだ苑也の顔は、夕陽がつくる木蔭に遮られ、よく見えなかった。そのせいだろうか、夢の中の苑也の顔は曖昧で、苦しげな表情だったり、能面のように無表情だったりした。

 三郎は、これまで得た情報や、寺内町の見取り図などを夜のうちにまとめ、紙にしたためて、それを着物の内側や、笠の紐などに縫い込んで隠していた。夜はそんなことをしながら、疲れて寝てしまうこともあり、朝めざめてから、青ざめることもしばしばであった。

 もっとも、そんな時にかぎって、悪夢にうなされ早く目が覚めるために、そうした書きつけが人目に触れることはなかった。

 そういう意味では、悪夢に助けられている面もあるのだが、感謝するには、あまりに苦しい夢であった。二助が起こしにくる前に、目が覚めるのは幸いだが、それも悪夢が続けば、気が滅入ってしまう。

 そんな三郎の心が、もっとも穏やかなのは、写経をしている時であった。

 初めのころは、頼廉に毎日必ず写すよう言われ、仕方なく書いていたのだが、ここ数日は無心で筆を走らす心地よさに魅せられて、一つの楽しみとなっていた。

 しかし、頼廉からその日に写経するものは決められており、楽しみとして写経をすれば、その日の割り当ては、あっという間に終わってしまった。

 この日も、あっという間に写経を終わらせてしまった三郎は、退屈になって畳に寝そべっていたが、ふと自分の境遇を思い出し、飛び起きた。やらねばならないことは、山ほどあるはずではないか。

 三郎は、とりあえず部屋から廊下に出た。

 廊下を少し歩くと、縁側があり、庭が広がっている。頼廉の屋敷の庭には、鑑賞するためのようなものはほとんどなく、芋類や根菜類、豆類などもっぱら食せるものが植えられていた。

 これは、いつ籠城戦になっても、食料品の足しになるようにとの考えからで、武家としての下間家をよく表している。

 下間家は、もともと摂津源氏の流れをくむ家柄で、その家風は武家そのものである。三郎はそのおかげで、日々の写経以外、滝川家との大きな違いはなく、とまどうことはなかった。


「写経は終わったのか?」


 三郎が、庭を眺めながら今後のことを思案していると、突然、背後からそう声をかけられた。三郎が振り向くと、そこには頼廉の父、頼康が立っていた。


「はい、終わりました」


 三郎は慌てて端によって、頭を下げる。頼康はそんな三郎を一瞥しただけで何も言わず、屋敷の奥へ消えていった。

 頼康はいまだ、かつて勘当した苑也の母を、許していないようであった。三郎がここに住むようになってからも、ほとんど顔を合わせることもなく、意識的に避けているようで、声をかけられたのも先程が初めてである。

 苑也ではない三郎が、頼康と和解することは、やはり心苦しい気持ちになることだろう。できれば今のままが良い、と三郎は思っていた。ただ、このようなことに心を痛めることが、間者として適切でないこともわかっている。一益への忠誠心でもって、すべてを乗り越える覚悟が必要であった。

 庭に面した廊下から門の近くまで行くと、二助が門の周囲の落ち葉をほうきで掃いていた。


「二助、何か手伝うことはないか」


「あ、苑也様、えっと、このあたりのことは大丈夫でございますが……そうだ、実は先程、奥方様から、南町屋で修繕に使う布地を買い求めてくるように仰せつかっております。後でご一緒にいかがですか?」


 二助は掃く手を止めることなく、三郎に提案した。


「それは丁度よい、奥方様からのお使いは、今から私が行ってこよう」


「とんでもない、私も一緒に参ります」


 二助は、慌てて掃く手を止めた。


「いや、おぬしはいつも忙しくしている、たまには少しゆっくりしたらどうだ。私も、そろそろ一人で町を歩いてみたいと思っていたのだ、まかせてくれないか?」


「……よろしいのですか?……ううむ、では、おまかせいたしましょうか……」


 二助は、残念そうな顔で渋々承知した。


「苑也様、近ごろ寺内町にも、色々な者たちが出入りしていると聞きます。随分と荒っぽい連中もいるとか……くれぐれもお気をつけを」


「なあに、大丈夫だ。まかせておけ」


 三郎はそう笑って、二助から店の場所を聞いてその代金を受け取り、屋敷の外に出た。


 すでに、町の見取り図をあらかた完成させていた三郎は、別段迷うこともなく、南町屋の目的の店にたどり着いた。

 代金を支払って布地を受け取りながら、三郎は下間家の人々の姿を思い出した。

 彼らは、華美な着物を好まず、古い着物も当て布で修繕して着ていた。信長が宗門の堕落を政治的に断罪していたこともあり、僧侶の堕落は、織田方の共通認識であったが、少なくとも下間家の人々はそれにはあてはまらなかった。

 むしろ、そういった質素倹約の家風は、滝川家に似ているところがあって、心地よかった。

 まだ滝川家を離れてさほどしかたっていなかったが、三郎には出立がもう随分昔のことのように思われ、懐かしい思いにかられる。


「そこな御僧、またれよ」


 南町屋から、帰路につこうと歩いていた三郎は、突然後ろから声をかけられた。

 三郎が振り向くと、そこには、見たことのない黒い僧衣の男が立っていた。その顔は無精ひげと日焼けで黒く、口元を歪ませて笑っている。僧衣も笠も薄汚れて破れ、その草履は、随分と年季を感じさせた。


「私でございますか?」


 三郎はそう答えながら、不敵な笑みを浮かべる男をまじまじと見つめた。しばらく記憶をたどってみたが、面識はない。


「左様、御僧じゃ。御僧にぜひ、拙僧と問答をしていただきたい」


「は・・・も、問答?」


 三郎は突然の事に、気の抜けた返事を返した。


「拙僧は、日信と申す者。この町にきて、僧侶とおぼしき人物には片っ端から問答をしかけてきた。しかし、誰一人としてまともに応じようとはせん。あまつさえ、拙僧を捕えようと番衆を差し向けてくる始末。あんな弱兵、なんのこともないが、今日こそは一向宗を論破して、この町ともおさらばじゃ」


 日信と名乗った僧は、そう大音声で息巻いた。

 問答とは、宗派の違う者同士が、教義や経文の解釈などの宗派間の優劣を論じるもので、宗論などとも呼ばれている。こういった宗論は、論破された側はその宗派の威信を傷つけることになるため、よほどの自信がなければ簡単に受けることはできない。


「私は、修行中の身でございます。問答など、とてもお受けできません、ご容赦ください」


 三郎はそう言って踵を返し、足早に歩き出した。問答もなにも、そもそも三郎は一向宗の教えなど、よく知らないのである。


「そうはいかん、拙僧もそろそろこの町にはあきた。問答に応じなければ、力づくということにもなるぞ」


 日信はそう言って三郎に追いすがる。

 その二人の様子に、町の人々も気づき始めた。


「おい、まちやがれ。どこの宗派の坊さんだか知らねえが、石山本願寺のお膝元で問答吹っ掛けてくるたあ、ふてえ野郎だ」


 三郎と日信の会話を聞いていた町家の若い男が、そう言って日信の肩に手をかけた。門徒からすれば、日信の行動は看過できない。


「おい、やめとけ!」


 別の男がそう声をかけた瞬間、日信の肩に手をかけた男の体が宙を舞い、地面に叩きつけられた。背中から落ちた男は息ができず、苦しそうに転げまわる。


「いわんこっちゃねえ、あの坊主、最近噂になっていた奴だ。やたら腕が立つらしいぞ。おい、番衆呼んで来い!」


 忠告した男は、叩きつけられた男を介抱しながら、近くの町衆にそう叫んだ。

 三郎はとにかくこの場から去ろうと、再び早足で歩きはじめたが、日信は再び追いすがってくる。そして、後ろからなかば強引に問答をしかけてきた。


(なんて奴だ)


 三郎は内心舌打ちしたが、そもそも、石山本願寺の寺内町で、僧侶に問答をしかけてくるのである。尋常な人間ではない。


「おぬしに問う。一向宗では、南無阿弥陀仏を唱えれば悪人ですら極楽浄土へ行けるというが、伊勢長島で信長に焼き殺された門徒たちは、皆、極楽浄土へ行ったのか?」


「私は、存じませぬ」


 三郎は、もはや走るようにしながら、言葉を返す。その後ろを行く日信の、さらに後ろを町衆がついてくる。


「彼らが極楽浄土へ行ったというなら、確かめるべきではないのか。この石山本願寺の僧侶、そして門徒全員、抜刀して念仏を唱えながら織田勢の陣中に突撃して、死して極楽に行ってこそ、伊勢長島の門徒衆も納得するのではないか。生きているおぬしらだけが現世利益を得るのは、随分と都合のいい話ではないか!」


(確かにそうかもしれぬが……)


 そもそも仏教の知識の少ない三郎は、日信の言うことに納得してしまった。本物の苑也は死んで、三郎は下間家でいい暮らしをして生きているではないか。

 そうこうするうちに、下間屋敷近くの堀にかかる、橋の所まで来ていた。

 もうこのまま、屋敷まで走って逃げ込むのが最上であろう、そう思った三郎が橋の中ほどまで行った時、日信の手が三郎の肩にかかった。

 三郎は、かつて何度も繰り返した組み手の修行のように、反射的にその手をつかんで引き込み、体を沈みこませた。その動きは意識したものではなく、反復した修行の賜物であった。

 日信の体は、大きく宙を舞い、橋の下へ消えた。後ろから来ていた町衆から、大きな声があがる。


(しまった!)


 三郎は、慌てて橋の上から堀をのぞきこんだ。

 大きな音と水しぶきが飛び、人影が堀に沈んでいくのが見えた。しばらくして、大量の泡とともに日信がもがきながら浮かんでくる。三郎と同じように橋からそれを見ていた町衆は、もう一度大きな歓声をあげた。

 三郎はその姿を見て、ほっと胸を撫でおろした。堀の側面には石垣が積まれており、飛んだ場所が悪ければ、命はなかったかもしれない。

 三郎は、やっかいなことにならないうちに屋敷に帰ろうとしたが、橋の下から情けない声が響いてくる。


「た、助けてくれ!拙僧は、泳げんのだ……!」


(手間のかかることだ)


 この状況で、日信を助けようとする町衆はいなかった。三郎はやむを得ず、堀の横の船着き場まで下りて、手をのばす。日信はもがきながらその手にしがみつき、土手に這い上がった。

 水を吐き、しばらく荒い呼吸をしていた日信は突然、両手で三郎の手を握り締めた。思わず三郎は身構える。


「いや、御僧は素晴らしい。儂を力づくで奈落に落とし、そして救った。まるで、仏の化身のようなお人じゃ……ありがたや、ありがたや」


 日信は泥だらけの顔で、額をすりつけるようにして礼をいった。三郎は、適当にうなずきながらその手を振り払い、船着き場から上がって足早に屋敷へ戻ろうとする。


「いや、たいした御方だ。あんな暴れ者を堀にたたきこむとは……」


「たしか、下間刑部卿様のところの御方ではなかったかな?」


 町衆の中から、そんな声が聞こえてくる。三郎はそんな言葉を背中越しに聞きながら、必死に頭を整理しようとしていた。


(……なぜこうなった?こんな騒ぎを……堀に投げ込むつもりなど、なかったのだが)


 三郎は何度も首をひねりながら、自分の行動に間違いはなかったかと自問自答したが、結局よくわからないまま屋敷に帰ってきた。


「お帰りなさいませ、苑也様……どうかされましたか?」


「いや……なんでもない」


 三郎はかろうじてそう答え、買ってきた布地を手渡し、部屋へと戻った。その手には、今までにないほど、完璧に人を投げ飛ばした感触だけが残っていた。

 その感触は、まるであの日信という僧に、羽でも生えたかのようであった。


(この一件、話が広がらねばよいが……)


 間者である以上、不必要に目立つことは、避けるのが常道である。

 しかし後日、この一件は、思いもよらない結果を呼ぶことになった。


 それから数日たったある日、三郎は頼廉に呼び出された。頼廉は、満面の笑みを浮かべて口を開く。


「何やら、大立ち回りを演じたそうではないか」


 どうやらあの堀での話が、頼廉の耳に入ったようである。しかし、少し大げさに伝わっているようでもあった。


「私はただ、相手に絡まれてもみ合いのようになって……相手が勢いあまって堀に落ちただけでして……」


「いや、ようやってくれた。実はあの男はここ最近、寺内町のいたるところで問答を吹っ掛けてくる迷惑者でな、番衆も探しておったのだが、何せ腕は立つし、逃げ足も速い。神出鬼没で困っておったのだが、あれを堀に叩き込むとは……いやあ、大手柄じゃ。なにより、寺内町の門徒衆の溜飲が下がったことは大きいぞ」

 一応和議は成っているものの、各地の一向一揆が信長によって鎮圧され、寺内町の門徒衆にとって鬱屈した日々が続いている。今回の痛快な出来事は、門徒衆の憂さを少し晴らすことになったらしい。


「あの僧は、どうなったのですか?」


 三郎は、堀に落下したあの僧のことが気になった。もし門徒衆に袋叩きにでもあって、死んでいては寝覚めが悪い。


「万が一、間者でも困るのでな、番所できびしく調べたらしいが……そういった形跡もなかったようじゃ。それであやつめ、泣いて御仏に命乞いをしたらしくてな。御仏の名を持ち出されては、門徒衆もあまり無慈悲なことはできぬ。御仏に、二度と問答せぬよう誓わせて、町の外にたたき出したとのことじゃ。しかしあの男、石山本願寺の寺内町で問答とは……その度胸だけは大したものじゃな」


 頼廉はそう言って少し笑ったが、その口からでた間者という言葉は、三郎を未だにひやりとさせる響きがある。


「ところでな、苑也……前に話していた、御法主様の雑賀御訪問の日取りが決まったのだが……どうじゃ、おぬしも行ってみるか?」


「……よろしいのでございますか?」


 これは、三郎にとって意外であった。

 石山本願寺に来て、まだ日の浅い十郎の信用が低いのは当然のことで、法主の旅に同行するのは今回はあきらめていたし、実際頼廉にもそう言われている。どうやら、何か事情が変わったようだった。


「実はな、此度おぬしが暴れ者を懲らしめたこと、御法主様の御耳にも達しておっての。腕の立つ者ならば同行させてはどうかと、御法主様が仰ってな」


「なんと、御法主様が……」


 これが巡り合わせ、というべきであろうか?まさか、あの破戒僧のような男に絡まれた結果、ことがうまく運ぶようになろうとは、三郎も、もちろん予想だにしていなかった。


「ただし、此度の随行は、数多おる護衛の雑兵の一人としてで、御法主様に、直に接することはできんぞ。おぬしのことは、御法主様にも側近連中にも、儂の屋敷に奉公する若者だとしか伝わっておらん。おぬしの母が南蛮人に関わって石山本願寺を出た経緯もあるし、我が父もまだおぬしのことを、認めておらんしな。しかし、此度のような御法主様の覚えめでたいことが続けば、いずれは我が一族の若者として、御法主様にも直にお会いできる日もこよう、精進せよ」


「心得ました、ありがたき幸せにございます」


 三郎はそう言って、深く頭を下げた。彼にとって重要なことは、雑賀に潜入することであり、顕如に会うことではない。信長を脅かす孫市と、その銃の存在を探ることが、最も重要な役目であった。

 こうして三郎は、思いもかけない幸運によって、雑賀におもむくことになったのである。

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