八咫烏
孫六と蛍を先頭にして、頼廉の屋敷に向かう四人は、南町屋から橋を渡り、西町の往来を歩いていた。
陽はまだ高く、寺内町はのどかな昼の空気を漂わせていて、町の門徒達の表情も穏やかであった。長島や越前の、門徒衆の凄惨な結末を考えれば、彼らにとってはここは安住の地であり、まさに極楽浄土そのものであったが、いつまでもそれが続く保証はない。
和議がなっても、寺を破却してこの地を手に入れたい信長と、それを阻止したい石山本願寺の根本的な溝は、未だに埋まっていないのである。
後ろから孫六を観察していた三郎と二助の隣を、数台の荷駄が通過した。
ここ数日、三郎の疑問の一つが、この物資を積んだ荷駄がどこから来ているのかということであった。
すでに摂津は、この石山本願寺とその周辺を除けば、信長の勢力圏内に入っており、和議が成立したとはいえ、おおっぴらに物資を送る外部勢力は存在しないはずであった。それは、信長の心証を損ねる行為だからである。
一益らと三郎が、摂津の目前にある関所を通った時も、大きな荷駄に関しては、厳しく詮議をされていた。旅芸人の一座や、小規模な行商人が入るのとはわけが違う。
「あの荷駄は、どこから来ているのだろう?」
「さあ……私は、存じませんが……」
二助は、そういって首を振った。
「あれはな、堺から来ておる」
いきなりのその言葉に、三郎は声を上げそうになった。いつの間にやら、孫六が隣にいる。蛍は振り向いて、三郎と孫六を見ながら歩いていた。
「しかし……堺の会合衆は、信長に協力しているのでは?」
三郎は、信長の名を多少の後ろめたさを感じながら発した。
「商いとは、敵も味方もないらしいぞ。それが、堺の商人のやることよ」
孫六は、そういって憮然とした表情を浮かべた。
この国最大の自由都市、堺は、長年時の権力者の介入を許さず、会合衆と呼ばれる豪商たちの合議制で成り立っていた。商人による政治は、当然商人が優遇される仕組みになっており、それが、巨万の富を築く豪商たちを作り上げていた。
彼らは、堺の港からマカオを通じて、明やポルトガルなどの海外とも交易をして、莫大な利益をあげていた。
かつては、同じく独自の勢力を築いていた石山本願寺との関係も良好で、堺に御坊があるだけでなく、石山御坊建設の際には、この堺の莫大な資金と人的協力があった。
その自治都市、堺に変化があらわれたのは、戦国の革命児、織田信長の台頭によるものであった。
永禄十一年(1568年)、将軍足利義昭を奉じて上洛した信長は、石山本願寺に五千貫、堺に二万貫の矢銭(軍資金)を要求した。
のちに石山本願寺の破却まで要求され、徹底抗戦に舵をきった顕如であったが、この時は信長の要求に応じて、五千貫の矢銭を支払っている。これは、もともと浄土真宗には、世俗では時の王の統治に従い、秩序を乱さないという、王法為本ノ教えがあったからである。
それに対して、堺の会合衆たちは浪人を雇い入れ、防御をかためて徹底抗戦の構えを見せていたが、最終的には信長の要求を受け入れ、二万貫を支払っている。それ以来、堺は信長の支配下におかれ、表向きは石山本願寺との交易はないはずであった。
「しかし……いくら商いとはいえ、我ら石山への支援は信長が許しますまい」
「そりゃあ、信長は許さんだろうよ。しかし、信長の家臣が、すべて真面目にやっておるとも限るまい」
「……それは、誰のことでございますか?」
「さてね……それは、伯父上殿に聞いてみればよろしかろう。俺もくわしいことは知らんよ」
(……荒木様のことだろうか?)
三郎の脳裏に一番に浮かんだ荒木とは、信長の家臣、荒木村重のことである。村重は信長にその才を見込まれ、重用されて、摂津一帯を治めていた。
地理的にみて、現在石山本願寺を監視しているのは、この荒木村重の可能性が高いのだが、三郎の立場では詳細はわからず、孫六が匂わす人物が村重かどうかもわからなかった。
とは言え、この話は中々興味深い情報であろう。持ち帰るべき価値のあるものと言っていい。
「しかし孫六殿、貴方はいつも、こんな町中でもそうやって火縄銃を担いで歩いているのですか?」
三郎は、そういって銃の話題を切り出した。流石に往来で火縄銃を担いで歩いているのは、穏便ではない。
「苑也殿、おぬしも男ならわかるだろう。こうやって歩いているとな、何かこう、いちもつを晒しながら歩いているような、そんなえも言われぬ気分にならんか?」
「お坊様、この人の言うことは真面目に聞かなくていいですよ」
三郎が呆れるまえに、蛍が間髪入れずにそう言った。
「おなごには、この気持ちはわかるまい。こんな立派なものは他にはないぞ」
孫六はそう言って、肩に担いだ火縄銃を愛おしそうになでる。その指の腹がなぞるのは、南無阿弥陀仏と書かれている台座であった。
「……その立派な銃は、雑賀孫市という御人の銃より凄いのですか?」
その三郎の言葉に、孫六は一瞬足を止め、蛍と目を見合わせる。
「……苑也殿、尋ねたいのだが……おぬしのように、最近やってきた者も孫市の名を知っておるのか?」
孫六はそう言いながら、再び歩きはじめた。
「私は越前におりましたが、ここに来るまでも様々な土地で、雑賀孫市の名は有名でございました。雑賀衆の雑賀孫市は、天下一の鉄砲撃ちにて、かつて野田城から信長の本陣を撃ち、心胆を寒からしめた、と」
三郎は、慎重に言葉をつなぎながら答えた。実際、孫市の評判が各地で噂されているのは事実であり、孫市の名はあたかも伝説のように語られていた。
「その話は、俺も聞いたことがあるぞ。なにやら、二百間やら三百間やらから撃ったとか」
「……孫六殿は、雑賀孫市を御存知ありませんか?」
「知らんな」
孫六は即答して、話を続ける。
「聞くところによると、朝廷の公家や京の人々は、信長を成り上りものとみて、毛嫌いしているそうだ。大方、孫市とかいう眉唾話は、そういった連中の願望から出たのではないか」
孫六は、そう言って以降、もう孫市のことは話さなかった。
(孫市と孫六か……どうにも、無関係ではなさそうなのだが)
三郎はその疑念から、再び孫市のことを尋ねようとしたが、そればかり尋ねるのはいかにも不自然である。そうやってどうするか思案しながら、適当な話をするうちに、いつの間にか頼廉の屋敷に着いてしまっていた。
二助が先に入って、孫六らの来訪を告げると、一行はそのまま広間に通された。
孫六らに続いて三郎が広間に入ると、ちょうど奥から頼廉が現れた。
「鈴木殿というから、どの鈴木殿かと思えば……やはりおぬしか、孫市殿」
「我ら鈴木一党の中でも、刑部卿殿の御説法を受けようなどという物好きは、俺しかおりますまい」
「……言うたな、今度じっくりと説法してやるぞ」
頼廉はそう言って破顔した。その二人の目の前で、やり取りを見ていた苑也と二助は目を丸くした。
「……どうした、苑也、二助も……二人して」
唖然とする二人をみて、頼廉は訝しげな表情を浮かべる。
「いや……刑部卿殿、この二人は、雑賀の孫市の鉄砲を食らったのだ」
頼廉に孫市と呼ばれた男は、そう言って大笑いした。何かを言いかけようとする三郎を手で制しながら、言葉を続ける。
「いや苑也殿、俺はたしかに孫六というのだ。しかし、世人は俺のことを孫市という。それだけのことだ」
そう言って孫市はまた大笑いする。そんな孫市を見ながら、三郎は不満げな表情をみせたが、もちろん内心は違っていた。この地に来てから、まだ十日あまりで目的の人物を見つけたのである。三郎からすれば、仏の加護ならぬ、天魔の加護というべきだろうか。
「何やらよくわからんが・・・おぬしらは気が合うようじゃな。まあよい、皆お座りなされ」
頼廉にうながされて、孫市と三郎が着座する。それを見て、少し後ろで二助と蛍も座った。
「刑部卿殿、これは・・・まあ手土産でござる。つまらんものですが、お納め下され」
孫市はそう言って、蛍から先程の茶碗を入れた木箱を受け取り、さも大事そうに頼廉の前に押し運んだ。頼廉は木箱を開けて、両手で茶碗を取り出す。
「これは……茶碗か。孫市殿が茶器とは、お珍しいの」
「はあ、まあ、それでですなぁ……その茶碗、俺は随分よいものだと思うのだが、刑部卿殿はどう見ますかな?」
孫市は、先程までとは打って変わり、自信なさげに小声で尋ねる。それをみた頼廉は、嬉しげに微笑を浮かべた。
「孫市殿、儂には茶碗の良し悪しはわからぬよ。しかし、そうやってわざわざ土産を持ってきてくれる貴殿の気持ちが、なによりの宝じゃ。いや、ありがたい……これは、大切にしまっておこう」
頼廉は、そう言って茶碗を少しかかげ、頭を下げた。それを聞いた孫市は、振り向いて蛍をみる。
「聞いたか蛍、これが人間の懐の深さというものだ。ようは、気持ちなのだ」
孫市にそう言われた蛍は、ははーっと声をだして平伏した。
「して、孫市殿。本日はいかがされたかな?」
頼廉は、茶碗を箱にしまいながら尋ねる。
「本日参ったのは、前々からお頼み申し上げていた、御法主の雑賀御来訪の件でござる。雑賀五緘の意見もまとまり、あらためて、雑賀御坊での御説法をお願い奉ると。まあとにかく、皆賛成ですから、御心配なさらず、雑賀御坊で御静養いただきたいと、こういうことです」
「ならば、三緘の賛意も取りつけたと、考えてよろしいか?」
「御意」
雑賀衆は、紀の川流域を中心に五つの地域に分かれている。
その五つの地域、五緘の内、一向宗門徒の多い鈴木氏が中心の十ヶ郷と、浄土宗を信仰する者が多いが、反信長で共闘する土橋氏中心の雑賀荘は、石山本願寺の意向に従い行動していたが、残りの中郷、南郷、宮郷の三緘は、内部の意見が分かれており、一枚岩ではなかった。
もちろんその背後には、宗派間の対立だけでなく、織田方による調略の気配があった。
「十ヶ郷の隠居と孫市は、雑賀御坊に三緘の主たちを集め、御法主の説法を聞かせれば、かならずやその心をつなぎとめることができる、と申しております」
孫市はその孫市という名を、あたかも他人のように言葉にした。三郎は、その孫市の口ぶりに違和感をおぼえた。
「土橋殿は、いかがかな?」
「それも御懸念無用、土橋の反信長は筋金入りでござる。それに、土橋と我ら鈴木との絆を深める手だても、隠居と孫市が何やら考えておるようです。此度は、雑賀五緘の御法主への忠誠を高めるよい機会と存ずる」
「ふむ……なるほどのう……」
頼廉は、孫市を見ながらそう言って、腕を組んでしばらく考えていたが、やがて再び口を開いた。
「あいわかった、明日にでも坊官の評定で言上いたそう。五緘の総意とあらば、問題はあるまい」
「ありがたき幸せ」
孫市は、軽く礼をした。
「なに、これは石山本願寺のためでもある。雑賀御坊で御説法は、御法主様のご希望でもあるしのう」
「あの……」
三郎は、たまらずに口をはさんだ。頼廉と孫市の視線が、三郎に注がれる。
「御法主様は、雑賀に参られるのですか?」
頼廉と孫市二人の会話は、かなり重要なもののようであった。三郎としてはもちろん、聞き流すことはできない。
「明日の評定次第じゃが……まあ、そうなるであろうな」
頼廉はそう言って、自らの顎をなでた。
「苑也殿、情けない話だが、雑賀衆は一枚岩ではない。一向宗門徒である、我ら鈴木一党が主導して、石山本願寺と連携してやってきたが、随分ほころびも見えてきた。そこでな、ここらあたりで御法主の御説法でもって、今一度、雑賀衆を一つにまとめていただこうと、まあそういうわけだ」
孫市はそういってにやりと笑った。その言いようと表情は、情けない話をしているようにはみえない。
「そうだ、苑也殿。その折には、おぬしも雑賀に来てはいかがかな。何やら、雑賀衆や雑賀孫市に、興味があるのであろう?」
「あ……いや、別に興味があるわけではありませんが」
苑也は慌てて否定した。妙なところから、疑いの目を向けられるようになってはかなわない。
しかし、これは千載一遇の機会でもあった。もし法主顕如の雑賀訪問があるのならば、なんとか一行に加わりたいところである。
「まあ、雑賀には門徒も多いと聞きますから、様々な土地の門徒たちの生活も見てみとうございます。港も大きく異国との交易も盛んとか……そういったものを見れる機会があるならば、嬉しく思いますが」
「……どうでしょうな、刑部卿殿。苑也殿の後学のためにも、御法主の雑賀御来訪の折には一行にお加えになっては?」
孫市はそう言って口添えする。三郎が雑賀に潜入したい一番の目的が、孫市であることを考えれば、最大の敵からの助け船であり、三郎は心の中で苦笑した。
孫市に提案された頼廉は、しばらく考えて、三郎と孫市を交互に見ながら口を開く。
「……苑也よ、おぬしがここに来てから、今後のおぬしの身の振り方をどうするかは、儂も色々考えていた。平和な世の中ならば、仏の道に入り修行させるのがいいと思っていたが、今の状況では中々そうもいかん。おぬしは、幼き頃から諸国を歩き、此度も越前からあっという間にやって来た。その健脚を買って、いずれは、諸国への渡りに走ってもらおうとは思っていたのだ、もちろん雑賀へもじゃ」
「ならば、此度御法主様の御一行に……」
「いや、此度はな……儂の一存では決められぬ。御法主様が行かれる以上、その周りは信頼のおける者達でなければならぬが、おぬしは、まだここに来て日が浅い。おそらく随行は認められまいが……まあ、いずれ機会もあろう、そのときまで待つがよい」
「……心得ました、またの機会をお待ちいたしております」
三郎は平静を装って、頭を下げた。焦るあまり、少し強引に聞こえたのではないかと懸念したが、頼廉はそんな三郎を微笑して見るのみで、疑いをもった様子はない。
三郎は、今後はさらに慎重を期す必要があると感じながらも、疑いなく三郎を信じる頼廉の姿に、わずかながら後ろめたさを覚えた。
「では、刑部卿殿……我々は、このあたりで失礼いたそう」
そう言って孫市が立ち上がる。その孫市を見て、蛍も立ち上がった。
「……随分慌ただしいのう」
「御法主が雑賀に来訪されるとなれば、急ぎ支度を始めねばならんでしょう。日が高い今のうちならば、今日中には十ヶ郷に戻れまする」
「ほう、さすが孫市殿も健脚じゃの」
頼廉は感心しながら立ち上がった。三郎と二助も慌てて立ち上がる。
一行が見送りに屋敷の門ところまで来ると、門の外に二つの人影があった。
「無二、鶴、待たせたな」
孫市がそう言うと、蛍が二人のもとへ笑顔で駆け寄った。無二といわれた痩せた男と、鶴といわれた美しい女は、頼廉たちに深々と頭を下げた。
「苑也殿、今日は中々愉快な日だった……また、近いうちに会おうぞ。では刑部卿殿、失礼つかまつる」
孫市はそう言って、頭を下げ、背中を向けて歩きだした。雑賀衆の三人も、その後を追い歩き出したが、蛍は一人後ろを振り向きながら歩き、三郎に手を振った。
三郎もなんとなく手を振り返したが、三郎の目は蛍ではなく、孫市の着物の背中に浮かび上がる烏の姿をとらえていた。
(そうか、あれが八咫烏か……)
三郎は、そのとき初めて、神話に登場するその烏を思い出し、眩しい太陽の下、その去り行く後ろ姿をいつまでも眺めていた。
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