下間刑部卿

 天正三年(1575年)秋、越前の街道で苑也を撃ち、その苑也になりすましている三郎は、山城と摂津の国境で一益らと分かれ、一人で石山本願寺の寺内町に入った。

 石山本願寺の寺内町は、堀で区切られた町が、石山本願寺の本山を取り囲むように配置されており、さらにそれを強固な塀と外周の堀が囲って、一塊の巨大な城になっていた。

 道行く町の人々の表情は穏やかで、笑顔も見られた。織田方との間に一応の和議がなり、戦時下の緊張から解放されたのか、町家や民家は、束の間の活気と賑わいを取り戻しているようだった。

 もっとも、以前の主戦場は長島や越前であり、そういう意味では、まだ戦は対岸の火事であっただろう。



 この寺内町の人々は、そのほとんどが一向宗門徒であった。

 一向宗は、浄土真宗の教えを母体に互いに混じりあい、全国に急速に広まった宗派である。

 その浄土真宗は、肉食妻帯を許された数少ない宗派であり、出家を重視せず、戒律もほとんどないことから、門徒数は拡大の一途をたどっていた。

 そういった背景もあってか、石山本願寺の寺内町は、宗教都市特有の戒律を至上とする厳しさは感じられない。


 三郎は、そんな賑わいのある寺内町の通りを歩きながら、懐にしまっていた十字架を取り出し、先日の街道での狙撃のことを思い出していた。

 どうやらこの十字架は、苑也の母の形見の品であるらしい。

 下間頼廉と苑也の書状は、この形見のことに触れており、石山本願寺に来る際には、この形見を必ず持参するようにと書かれていた。どうやら頼廉は、この形見でもって、苑也が自分の妹の子で間違いないかを確認しようとしているようであった。

 石山本願寺の坊官である頼廉の妹の遺品が、キリシタンの持つ十字架であるとは以外ではある。しかし苑也は他に、それらしきものを持ってはいなかった。

 三郎は、国境で別れるときの一益の言葉を思い出した。


「苑也がこの十字架しか持っていないからには、これがその形見の品と思う他ない。よいか、三郎。下間頼廉に形見を見せろと言われたら、迷わずこの十字架を差し出せ。石山本願寺に入ったら、誰になんと言われようともおぬしが苑也じゃ。何があっても、それを押し通せ。三郎に戻るようなことは、あってはならぬぞ」


 一益は、三郎の肩に片手を置いて語りかけた。


「よいか三郎、間者にとってもっとも重要なことは、引き際を見極めることじゃ。決して死んではならぬ。これより後、こちらからおぬしに接触することはない。役目の終わりはおぬしで判断してよい。もし危険を感じたらば、おぬしの判断で脱出せよ。石山本願寺のこと、孫市のこと、僅かでも見聞きしたことあらば、それを無事持ち帰ることに意味がある。役目を終えて帰ってきた暁には、おぬしの元服を執り行うてやる。烏帽子親は儂じゃ。さすれば、おぬしも一端の武士として認められよう。かならず、帰ってくるのだぞ」


「はっ、有難きしあわせに存じます。かならずや戻って参ります」


 二親に死なれ、みなしごのように一益に引き取られた三郎にとって、一益に武士として認められることは、何よりの喜びであった。

 一益は、三郎に絶好の機会を与えたのである。


(石山本願寺に入ったら、絶対に苑也になりきること、決して死んではならぬこと。そして無事に帰りさえすれば……武士となれること。帰りさえすれば……)


 三郎は、一益の言葉を思い出しながら、はやる気持ちを抑えきれず、早足で寺内町を急いだ。

 照りつける太陽はまだ暑く、じりじりと三郎のかぶる笠を焼き、坊主頭を熱くする。いくつかの角を曲がり、地図を見返そうと、民家の軒下の影に滑り込んだその額には、じんわりと汗が滲んだ。


「しかし、あれだねえ、また戦になるのかねえ?」


 その声に、地図に目を落としていた三郎は、顔を上げた。

 その少し先の民家の軒下に、数人の町人がたむろしている。三郎は何気なく、その会話に耳を傾けた。


「そりゃあ、織田信長が生きているかぎり攻めてくるんだろうさ、何せあれは、天魔じゃて」


 中年の男が、そう言って顔をしかめた。天魔とは、魔とか魔王とも呼ばれる存在で、門徒達にとって忌むべき存在であり、彼ら一向宗門徒は、信長をそう言って罵っていた。


「ふん、信長が攻めてきて何ほどのことがあるのだ。ここは、難攻不落の御仏の城じゃ。信長ごときに御仏の加護が敗れるものか」


 中年の男の後ろにいた浅黒い髭面の男が、威勢のいい声を上げる。


「しかしなあ、長島の門徒衆も、越前の門徒衆も敗れたというではないか。御仏の加護はどうしたのだ?」


「信心が足りんのだ、信心が」


 戦になることを心配している若者の言葉に、髭面の男はそう吐き捨てるように言った。


「……信心だけで天魔が倒せるもんかね。俺は長島の戦場を見たことがあるが、ありゃあ酷いもんだったよ、皆焼け死んだんだからよう……」


 中年の男は、そう言って肩を落とした。長島の一向一揆では、徹底した根切、つまり皆殺しが行われ、凄惨を極めていた。その場を見た者にとっては、仏の加護は幻想と映ったに違いない。


「……長島とここでは大きさが違うぞ。御法主様もおられるし、雑賀衆もおる、とにかく落ちんのだ、この石山本願寺は……それに……」


「それに……?」


「……長島の衆は、南無阿弥陀仏を唱えて一足先に御浄土に旅立ったのだ。何を恐れることがあるか」


「ううむ……確かに極楽浄土へは行きたいが……死にたくもないのう……」


 戦を心配する若者の言葉を最後に、三郎は再び早足で歩き出す。彼らの会話は、程なく聞こえなくなった。


(……長島の門徒達は、本当に極楽浄土とやらに行ったのだろうか……)


 長島の門徒達のことが、三郎の頭をよぎった。何となく、剃髪した自分の頭を撫でる。

 先日、三郎は初めて人を鉄砲で撃ち、初めて殺めた。ここ数日そのことが頭を離れず、死んだ苑也の後生のことまでが頭に浮かび、役目の緊張も相まってか、眠れぬ日々が続いていた。

 しかし、いくら考えたところで、三郎にはそれを解決できるほどの一向宗の知識はなく、長島の門徒衆の行く末にしても同じであった。

 三郎が知っているのは、どんな悪事を働いた人間も、南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土に行けるという教えが、一向宗の根幹になっているという話だけである。

 その話に従えば、長島の門徒衆は念仏を唱えて極楽浄土へ行ったのかもしれない。

 では、三郎が殺した苑也も、極楽浄土へ行けたのだろうか?


(……苑也のことは忘れねばならぬ……殿もそうおっしゃっていたではないか)


 三郎は何度か頭を振り、地図に従って歩き出した。めざす下間頼廉の屋敷は、もうすぐそこまで来ており、もう引き返すことはできない。

 三郎の行く末は一益が決める。ただそれだけのことだった。



 目指していた下間頼廉の屋敷は、寺内町と堀を挟んで隣り合うの屋敷群の中にあった。

 その屋敷群は、石山本願寺とも堀を挟んで配置されており、これもまた、寺内町や他の堀と同じく本山のための防御施設の一翼を担っているようであった。

 頼廉の屋敷は、その中でも大きな屋敷ではあったが、周りの屋敷に比べると、屋根も壁も華美なところはなく、随分と質素なものに見えた。

 三郎が門の前で来訪を告げると、中から剃髪した僧童らしき少年が現れた。三郎が越前から来た苑也と名乗ると、少年はそれだけで納得して、三郎を中に招き入れた。


「どうぞこちらへ。お待ちしておりました。旦那様から伺っております、こちらで少々お待ち下さい」


 少年は笑顔でそう言って、三郎を玄関まで案内した。三郎も、笑顔で迎えられると悪い気はせず、心の中の緊張と不安が幾分か和らいだ。

 しばらくして、堂々たる体躯の僧体の男が姿を現す。この男が頼廉ならば、年の頃は四十前であろうか。


「おお……来たか、来たか。待っておったぞ」


「初めて御意を得ます、苑也と申します」


「ハハハ、堅苦しい挨拶はよい、さあ上がるがよい」


 屋敷の広間に通された三郎は、上段の間に座った下間頼廉の正面に、少し離れて座した。広間には、頼廉と三郎の他に先程の僧童のみがおり、下座で座っていた。


「……長旅、疲れたであろう。関所は難儀ではなかったか?」


「私は、若狭から山城の西側の街道を通って参りましたが、あまり関所をみることがありませんでした。残りの関所は、行商人の集団に交じって通ることができました。商人に門徒が多数おり、石山本願寺に参りたいと申しましたら、協力してくれたのです」


 三郎は、摂津の国境までは一益らと共に、織田方の勢力圏の西端を南下してきていた。商人の件は、事前に決められていた作り話である。

 信長は、商人の経済活動を活発にするために、自らの分国の関所を次々に廃止させており、また道を整備して関銭諸役を免除して、往来の人々の利便性をよくしようとしていた。


「信長はのう、商いのために関所を次々に廃しておるらしい。おかげで、織田領に間者を忍ばせるのは容易いが……しかし、信長もたいした自信よな」


 頼廉の間者という言葉に、三郎は一瞬ひやりとしたが、もちろん表情にはおくびにも出さなかった。しかし徐々にこういった感情の動揺も、うまく抑え込んでいかなければならないだろう。事は、何から露見するかわからないのだ。


「しかし、少し以外じゃったな。おぬしは幼き頃から、諸国を転々としていたと申しておったからのう、どういう育ちをしたものであろうかと……しかし今のおぬしは、まるで武家の子のようじゃな」


 不意に発せられた頼廉の疑問に、三郎は表情を見られぬように素早く顔を伏せた。苑也の育ちから考えられる作法など、考えもしなかったのだ。

 しかし顔を伏せたのは、全くもって迂闊と言わねばならない。とにかくここは、早く取り繕うほかない。


「は、母上は、そういった作法には厳しい御人でした。仏様のことはよくわかりませんが、学問だけは、色々な寺で学ばせてくれたのです」


 三郎は、平伏したまま体中から冷や汗が出るのを感じて、顔を上げられなかった。

 しかし、頼廉は三郎に言葉を返さず、しばし沈黙が流れる。やむを得ず、三郎は恐る恐る面を上げた。


「……形見は持っておるか?」


「は、はい、持っております」


 三郎は、奥歯を噛みしめて体の震えを抑え、懐から十字架を取り出した。


「……近う、もそっと近う寄れ」


 頼廉にそう言われた三郎は、僅かに腰を上げ、僅かに近づく。


「それでは届かぬ。遠慮いたすな、近う」


 さらにそう言われ、三郎は這うようにして頼廉に近づいた。再び奥歯を噛みしめて決して震えぬようにして手を伸ばし、十字架を手渡した。

 頼廉は、何も言わず、その十字架をじっと見つめていた。


(もしこの形見が違ったら……)


 平伏した三郎は、もう生きた心地がせず、ただ時を待つしかなかった。


「やはりこれを……捨てずにおったか……」


 やがて、頼廉がゆっくりとそう呟いた。その言葉を聞いて、三郎は急速に全身が脱力するのを感じた。どうやら、当たりを引いたらしい。


「……おぬしにも話しておかねばなるまいな……儂の妹、つまりおぬしの母が、何故この石山本願寺を追われることになったのかをな……」


 頼廉はそう言って、十字架を眺めながら語り始めた。

 話はこうである。

 石山本願寺の南に位置する堺は、この国最大の貿易都市であり、石山本願寺にとっても、最も重要な交易相手であった。

 堺は、会合衆と呼ばれる豪商達の合議によって自治運営されている自由都市であり、時の権力者の介入も許さなかった。この当時、堺で手に入らない商品はないと言われており、石山本願寺に住む者達にとっても、必要かつ魅力的な品物がそろっていた。

 その当時、門徒衆は連れ立って堺に物資の調達に行くことも多く、その時は、頼廉の妹ら女子衆も、その集団に交じって堺見物に行っていた。

 女達は、商屋に並ぶ色々な品物に瞳を輝かせていたが、その内の一人が見慣れないものを見つけた。

 綺麗な装飾が施された黄金のそれは、十字架であった。

 その当時の堺は、南蛮貿易の規模が拡大し始めたころであったが、キリスト教の存在は、まだ大きく広まっていなかった。豊後の大友氏や周防の大内氏など、領内での布教を許していた大名もいたが、それは西国の一部の為政者であり、畿内の権力者達は、正式な布教の許可を出してはいなかった。

 ただし石山本願寺の高僧達は、西国からの情報でキリスト教のあらましを伝え聞いており、その存在が仏教の敵になることを理解していた。しかしそれを知っていたのは、一部の高僧だけであり、多くの門徒には伝わっていなかった。

 堺に行った頼廉の妹達にとって不幸だったことは、彼女らが、十字架の意味を知らなかったことであろう。彼女達は、十字架をただの美しい装飾品だと思い、珍しい南蛮品として買って、石山本願寺に持ち帰った。

 これが、問題になった。高僧達は仰天して、十字架を持っている者たちを詰問したが、話はあっという間に本山や寺内町に広まってしまった。

 詰問の結果、この者たちは決してキリスト教に感化されたわけではなく、無知からくる過ちであることははっきりしたが、結果として、門徒たちにキリスト教の存在と、十字架の意味を広く伝えることとなった。

 高僧達は、この者たちを不問に付すことにしようとしたが、十字架を持っていたことは事実であり、これを他の門徒に問題視されてしまう恐れがあった。

 そこで高僧達は、この者達の安全も考え、一時的に石山本願寺の外に預けることを思案し、顕如の裁可を仰いだ。

 当時、顕如はまだ若く、祖母の鎮永尼の補佐を受けていたが、その鎮永尼が裁断を下して、この者達を石山本願寺から一時退去させることが決定したのである。

 頼廉兄妹の父、下間頼康もこの決定に従い、娘をゆかりのあった堺の商人の家へ預けることにした。娘は泣きじゃくって抵抗したが、頼康は激昂して有無を言わせなかった。

 しかし、結果的にこれがよくなかった。傷心の娘は、自らを陥れることになった十字架に興味を持ち、店を訪れる南蛮商人にそのことを尋ねるうちに、彼らの神デウスに心を奪われてしまったらしく、その洗礼を受けることを手紙に残して、姿を消してしまった。

 そこには、父への反抗心もあったのかもしれない。

 驚いた頼廉は、妹を探して連れ戻そうと考えたが、父、頼康の怒りは凄まじく、娘を勘当して、頼廉にも探索を許さなかった。それ以来十数年、その行方は杳として知れなかったのである。


「儂も当時、よくその堺の商人の家にいって、おぬしの母の様子を見に行っておったのだが、その心の変化に気づけなかった。それがずっと心残りでな……」


 頼廉はその頃を思い出したのか、しみじみとそう言った。


「この十字架、妹が持っていたものに間違いない。儂は、これを隠し持っていたことを知ってはいたが、涙を流すあれが不憫で、取り上げることはできなんだ。行方知れずになった時は、無理にでも取り上げておけばよかったとも思ったが……」


「私にとっては、大切な形見でございます」


 三郎は、頼廉の話をひとつたりとも忘れぬように心に刻みながら、そう言った。


「そうじゃな……もう、儂にとっても大切なものじゃ……それは、おぬしが肌身離さず持っておくがよい。ただし、この石山本願寺では、けっして人に見せてはならぬぞ」


「……心得ました」


 三郎は頼廉から受け取った十字架を握りしめ、懐にしまった。


「よいか、苑也よ……今日からここは、おぬしの家も同然じゃ。何も遠することはない。おぬしは間違いなくこの、下間頼廉の甥じゃ。おぬしの母が死んでしまったことは、この上なく残念なことだが、おぬしは母の分まで、より良く生きねばならぬぞ。儂も妹にできなかった分、おぬしの助けになろう。」


「はい……御心遣い、感謝いたします」


 三郎はそう言って、再び頭を下げた。疲れと緊張が解けたせいであろうか、無意識に声が小さくなった。


「……うむ、ここまでの長旅、さぞ疲れたであろう、今日はもう休むがよい。これからの話は、また明日にしよう……二助、苑也を部屋へ案内いたせ」


 三郎の様子に気が付いたのか、頼廉は広間にいた僧童にそう言い付けた。

 二助と呼ばれた僧童は元気よく返事をして、三郎を部屋へ案内した。三郎が部屋へ入ると、


「御用がありましたら、いつでもお申し付けください」


 と言って、戸を閉めた。

 三郎はへとへとになって倒れこんだ。長旅の疲れと緊張の連続で、一気に睡魔が襲ってくる。


(下間頼廉は、俺を間違いなく苑也だと思っている……)


 そこを欺けたことは、三郎にとって喜ばしいことのはずであったが、三郎を苑也と思って喜ぶ頼廉の姿を思い出すと、何かが少し胸につかえる気がしていた。

 しかし、その理由を考えようにも睡魔には敵わず、三郎はあっという間に深い眠りに落ちていった。

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