5.子の心親しらず

 アハトナーダの王宮、その王の広間にて二人の人物が相対あいたいしていた。


 ひとりは王座に座るアハトナーダ国王、もうひとりは王の御前に控えるザルクヴァリス伯爵である。


「そうか。リュシアーナは出奔しゅっぽんしたか」


 国王は哀愁の籠もった声で呟いた。


「はい。神誓を盾にされては、どうにもなりませんでした」


 一方で、娘を手放したというのに、ザルクヴァリス卿の顔はむしろ晴れやかだった。


「すまんかったのう。ザルクヴァリス卿。愚鈍な王で、苦労をかける」


「めっそうもない」


 ザルクヴァリス卿は王に微笑む。

 彼は目の前の王を愚鈍などとは微塵も思っていない。


 確かに、現国王は世間では凡庸な王と見なされている。

 しかし、自分が凡庸であることを自覚している凡人は、愚鈍とはかけ離れた存在だ。


「ストルンドも大馬鹿者よのう。そういうところは儂に似んでよいのに。あのリュシアーナが王妃に害されると本気で思うたか。あの娘をあなどりすぎじゃ。嫁いだ暁には、三日もせんと王妃の方が逃げ出すじゃろうて」


「さすがにそれは……なんとも、否定し難いのが、我が娘ながら」


 二人は声を上げて笑った。


 王がリュシアーナを息子の后に望んだのは、ザルクヴァリス家の恩義に報いんがため、と多くの者は見ている。

 しかし、現実は違う。


 王はザルクヴァリス家の令嬢ではなく、誰でもないリュシアーナ本人を次期王妃にと望んだのだ。


 むしろ、リュシアーナ以外の誰が、王妃によって魔窟まくつと化した後宮を内側から壊せるというのだろうか、と王は問いたい気分だ。


「ストルンドめ。リュシアーナに己が理想を重ねたか。あの強き娘に頼られる自分を夢想して、その夢に酔うたか」


 王の目から見ても、ストルンドが焦がれたのは、紛れもなくリュシアーナの強さであったはずだ。


 それが何処をどう間違えたのか。

 ストルンドはリュシアーナの強さを信じることができなかった。

 いや、己の理想におぼれ、信じる心を捨てたのだ。


 いずれにしろ、稀有けうな娘は失われてしまった。

 王が見たかった、喜々としてこの国の腐った伝統を打ち砕く女傑じょけつの姿を見ることは叶わなくなった。


「それで、リュシアーナはいずこへ?」


「さて。シャラスフェリア様がこの国を出る際に、馬車に同乗したようですが」


「中央神殿も、とんでもないのを送り込んで来たものじゃて」


 王が辟易へきえきした顔で言った。


「聖女候補……と聞きましたが?」


「どうだかな。儂はただ、恩寵が紛れもない神の御業であることを証明できる人材をよこしてくれと頼んだだけじゃ。リュシアーナが残した報告書で、国内の貴族は黙らせられるじゃろう。神殿が賜る恩寵は神の御業なり。神は御わす。それがこの中つ界の理じゃ」


「それでも、神殿の存在が王家の威信の妨げになる事実は覆せませんが」


 ザルクヴァリス卿が政治家の顔で言った。


 しかし、神殿の影響を排除すべきとの理想論が、巡り巡って神そのものへの不信心を生み、【魁たる光の神】への信仰心にも影を落とす結果となった。


 内容はまるで違うのに、王にはそれが、リュシアーナに対してストルンドが犯した過ちと根源的な部分で重なるように感じられてならない。


 己の愚鈍を自覚する王は、その構造的な類似性を理解し得ない。

 ただ、目の前の事実のみを見詰める。


「はっ。神殿と王家を並べて考えるからややこしくなる。神の前では、いずれもただのか弱き人間よ。神の加護なくして、人は、この国は、永らえん。もとより王家など、神のご機嫌伺いを生業とする程度の存在よ。くわばらくわばら」


 王座の上で、おどけて首をすくめてみせる王に、ザルクヴァリス卿は苦笑する。


 ふと、窓の外に目をやったザルクヴァリス卿は、そこに輝く明星を見つけた。


「リュシアーナが出奔したことも、神のご意思でしょうか?」


「分からん。【魁たる光の神】か。かの神を真に奉ずるは、王家でなく、ザルクヴァリス家であろう? お主にわからぬものが、愚鈍な儂にわかろうはずもない」


 王も、ザルクヴァリス卿の視線の先に気づく。


「私は、娘の心ひとつ理解し得なかった父ですから。まさか、あれほどまでに貴族の暮らしをうとんでいたとは、つゆ知らず」


「お前がそれを言うか。鏡を見てみろ。この国で一番の貴族嫌いの顔が見られるぞ。まあ、儂もストルンドの心をはかり損ねた。お互い様じゃ」


「子の心親知らず、ですかな」


「まったくな」


 二人はしばし無言で、明星の輝きを見つめ続けた。

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