Ep.30 決別
門限を遥かに過ぎた22時。夜会の日でもなければとっくに湯浴みを済ませ自室に居るであろう時刻に帰宅したカナリアに、屋敷の皆は何も尋ねなかった。
ただ普段通りに彼女を出迎え、いつもより少しだけカナリアの好物が割り増しされた食事を出して、カナリアの好きなレモングラスから抽出したオイルを垂らした浴槽で湯浴みをさせる。
「今夜は星が少ないですから、領内一の観光地である“ルアルの泉”の蛍が綺麗に見えるかも知れませんね。私、実は一度も行ったことが無いのです」
湯上がりで水気を帯びた自慢の金糸の髪を優しく拭いていたマーガレットが、なんでもないような口振りでそう言った。帰宅後から一言も発しないカナリアの異様さなんて、何にも気づいていませんよとばかりに。
「ーー……そうね。今の時期なら運が良ければ月花美人が咲いていてより幻想的な景色が見られるかも知れないわ。今度、行ってみましょうか」
“ルアルの泉”は、国教会の崇める初代王妃……つまり聖女の魂が眠るとされる神聖な場だが、景観が非常に美しく夜には蛍が飛び交うその幻想さから今は一種の観光地として名を馳せている。
そんなルアルの泉の水には『一口飲めば邪気に侵されず清らかな生を送る』とされる伝承があること。更に、国民の出生届けは必ず国教会に提出をと言う法律もあることから、大概の者が赤子の際に一度は訪れる場所でもあった。
マーガレットが『行ったことがない』と口にしたのは、彼女の出自の為だろう。気分の良い話ではないだろうに、少しでも主の気晴らしになればと遠出する予定を遠回しに提示した。
専属侍女のその心遣いがわかったからこそ、カナリアもそれに乗ったのだが。
一人寝台に横たわり、今まさに退室しようとしていたマーガレットの背に呟く。
「月花美人の花言葉はね、『儚い恋』なのよ」
身を焦がすような激情では決して無かったけれど、今さらながらに思う。カナリアは、確かにリヒトに惹かれていた。しかしそれが、まさか鏡に写ったような
「私は一体、どうしたいのかしら」
いつも気丈な主の弱音に、マーガレットは何も言葉を返すことが出来なかった。
その晩、カナリアの両親は、愛娘にある誓いを立てた。
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翌日から、リヒトはもちろん、イグニスも、カナリアに一切の接触をしてこなくなった。
イグニスは恐らくカナリアが心を整理する為の気遣いであろうが、リヒトの方はどうだろう?今年は天候が荒れており各領土で何かと問題が多いために公務に駆り出されていると聞くが、カナリアの調べた限りどの問題も王太子が足を運ぶほどのものでは無さそうだが。
実際訪れたところで彼がしているのはその場しのぎの1日ばかりの支援と現状調査のみで、具体的な解決策はカナリアやイグニスが影から手配して解決している。
そんなリヒトに『現地の方々の救済を』とメリアが毎回同伴している辺り、つまりはそう言う事なのだろう。
(そう言えば、ゲームシナリオでは闇落ち後のイグニスとカナリアの仲を暗喩させる描写もあったわね。“
ただでさえ、メリアがあぁなる前からリヒトは攻略されかけていたのだ。唯一の抑止力と言えた外部によるメリアへの反発も、彼女の性格が反転した今はもうほとんどと言って良いほど上がらない。
そして今夜。夏の長期休み前に行われる学期末の夜会。“星祭”とされる、要は七夕に似た伝承に託つけたイベントの一種で、少なくともカナリア達が1~2年生の間は別に学園自体で何か催し物があるわけではないのだが。ゲームのシナリオ上は違う。
一年生のこの日、夜会でヒロインをエスコートして会場入りした男が正式にルート確定になるのだ。後は攻略度次第でハッピーエンドかバッドエンドかが分岐するだけ。
そんな運命の夜会の日、リヒトはカナリアを迎えには、来なかった。
「お嬢様、申し上げにくいのですがその、もうお時間が……」
目を伏せそう告げるマーガレットに、深く一度息を着いて向き直る。
「えぇ、わかっているわ。参りましょう」
「お嬢様、会場入りはどなたか別の方に……」
「いいえ、要らないわ」
艶やかな黒地に星のような真珠を散りばめたドレスを翻し、悪役令嬢は胸を張る。
「私は国内随一の名家、バーナード公爵家が娘カナリア。この様な不遇に負け、 自らの品位を損なうだなんて名折れもいい所だわ」
死ぬ気で努力し築き上げてきた“完璧な淑女”の顔で一人会場へと赴く主を、マーガレットも真剣な面持ちで送り出す。
同伴者無しで現れた未來の王妃に会場がざわめく中、煌びやかな中央階段からリヒトとメリアが揃いの衣装で現れ、会場は更にどよめいた。
(イグニスは……………居ないわね。彼はゲームでも一年目のこの夜会は欠席だったもの)
ふと霞めた心細さを振り払うように、小さく頭を振って。
螺旋階段の上に立つリヒトを見上げ、カナリアが優雅に一礼する。
「ご機嫌麗しく存じますわ、リヒト様。星祭の夜に相応しい素敵な夜ですわね」
「あぁ、そうだねカナリア。だが君の放つ輝きには数多の星々も霞んでしまうだろうけれど」
「まぁ、お上手ですこと」
リヒトの甘言に、カナリアは扇で口元を隠して微笑む。会話だけ聞けばただの仲睦まじい恋人同士であろうに、リヒトに並び立ち彼の腕に寄り添っているメリアの存在が、二人の関係の歪さを際立たせていた。
(あれは国内随一の工房であるリュバンのオートクチュール品ね、ヒロインが自力で手に入れられる代物じゃないわ)
横目にメリアを観察してカナリアがリヒトに視線を戻したときには、彼はもうこちらを見ていなかった。
思えば、あんな感情を露にした彼の瞳を、自分は見たことがあっただろうか。
小さく何かが、ひび割れていく音がする。
「ところでリヒト様、我が学園の規則では婚約者のある者は原則婚約者と共に行事へ出席するべきと言う記述がございますの。優秀な王太子であられるリヒト様なら、当然ご存知ですわよね」
「あぁ、もちろんだとも。だが“原則”であり、絶対ではない。やむを得ない場合に柔軟な対応をすることも上に立つ者の責務だよ」
にこやかに淀みなく返してくる辺り、この場で正式にカナリアを切り捨てる……つまり、婚約を破棄するつもりはないようだ。流石に時期尚早と判断したのが、それともまだ情があるのか。あの完璧な微笑みの前ではもう、全てが信じられないけれど。
「そうですわね、頭でっかちでは有事の際に対応に遅れが出ますもの。ですが、わたくし本日の件に関してはその“事情”について何一つ伺っておりませんわ。何かあったのではと心配しましたのよ?」
「あぁ、そうだったのか。すまないねカナリア、どうやら伝達が上手く行かなかったようだ」
さも申し訳なさそうな顔を作り、リヒトが『何分手続きに手間取ってしまってね、急に決まった事だから』と言いながら隣のメリアを皆に見えるよう前に踏み出させる。
「皆、聞いてほしい。メリア嬢は先日の魔物討伐で出た負傷者への治癒と、最近の各地への援助の功績が認められ、王家並びに国教会から正式に“聖女”の称号が与えられた」
そうリヒトが掲げた羊皮紙の認可証は間違いなく本物で、固唾を飲んで見守っていた周囲が狼狽えながらカナリアを見る。その衆目の中、カナリアはいかにも明るく声を上げた。
「まぁ!それは建国以来の偉業ですわね。おめでとうございますメリア様!」
カナリアが怒りもせず祝辞を述べたので、まばらながら皆から拍手が送られる。それが止むのを待ち、カナリアが本題に踏み込んだ。
「お話はわかりましたわ、リヒト様。メリア様も。お二人からわたくしに直接は言いづらいでしょう。なのでわたくしからお尋ねしますわ」
シン……と一瞬で静まり返った会場に、カナリアの鈴を転がすような声音だけが響く。
「未來の国王たるリヒト様が、正式に初代王妃と同じ聖女となったメリア様を連れて夜会にいらっしゃった。それはつまり、そう言う事だと認識させて頂いて宜しいですわね?」
「何か誤解をしているね?カナリア。僕が……いや、我が国が優秀な君を離す筈がないだろう?君の杞憂だよ」
あぁ、この期に及んで彼らはまだ、自分達にのみ相手を切り捨てる権利があると思っているのだ。
ずっとずっと、メリアが現れてから少しずつひび割れてきたそれに、決定的な亀裂が入ったのがわかる。
潔くここでメリアを愛してしまったからカナリアとは終わりだと手離すならば、まだ許してやったものを。この男はこれだけカナリアを虚仮にしておきながら、手駒としては手離したくないようだ。あまりに彼女が、優秀だから。
(所詮私は彼にとって、“所有物”にすぎなかったのだわ)
カナリアが閉じた扇の鋭い音が、静寂を切り裂く。
「いいえ、どうかお気遣いなくリヒト様。わたくし、悋気にまみれた哀れな女に成り下がる気は微塵も御座いませんの」
にこりと笑ったカナリアに、リヒトの眉が上がる。
「聖女たるメリア様と有望な国王があれば、国の未來は安泰で御座いましょう。我がバーナード公爵家は、いかなる事があろうと未来永劫ロワゾーブルー王国の繁栄に尽くすことを誓いますのでご安心くださいませ。では……」
『ごきげんよう、王太子殿下』
そんなリヒトの様子には微塵も気づかなかったふりをして、完璧な淑女の微笑みで。
リヒトを切り捨てる決別の言葉と共に、カナリアの初恋は完全に砕け散った。
そのまま気丈に退場したカナリアの意識が、人気のない廊下に来た途端に遠退く。
背後から抱き止められ相手を確かめるより前に、完全に気を失った。
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