Ep.29 究極の選択

「リヒト様が、別人……?」


 茫然自失に呟いたカナリアの声はひどく弱々しく、掠れていた。それに神妙に頷いたイグニスが語り出すのは、彼が半分しか血の繋がらぬ弟と出会った麗らかな春の昼下がりの思い出。丁度カナリアがリヒトから求婚される、一年前の話であった。













 イグニスが生を受けて4年11ヵ月と29日が過ぎたその日、町医者として貧富層に無償の治療に出向いていた母は、金になる薬品を狙った賊に襲われ他界した。町の教会で他の子供達と学問を学んでいたイグニスは、母の訃報を報せに来た騎士達に連れられ、その日から唐突に“第一王子”の枠に宛がわれてしまったのである。


「父上は元より母と俺を宮廷へと望んでいたようだが、母がそれを拒んでいたんだ。元々民の治療に身を捧ぐべく医師となった人だったし、王妃に睨まれようものならこの国で生きてはいられないと……わかっていたのだろうな」


 リヒトの母君、この国の王妃は、元は公爵家の令嬢であった。国一の美人、社交界の気高き薔薇と吟われたその方は、かなり苛烈な性格の方であったと、カナリアも自分の母から聞いている。


『リヒト殿下からの求婚が王妃様が亡くなられる前であったなら、私は娘を王家には差し出せなかったわ』と。まだカナリアが幼かった頃、暖炉が揺れる冬の夜にワイングラスを手にした母は、父にそう溢していたのだ。


「俺の存在を父上は隠していなかった。が、宮廷で俺たちの話題は完全に禁忌だったそうだ。王妃の逆鱗に触れるからと。恐らくあの時点で陛下の心は王妃から完全に離れていたのだろう。それを察していた彼女は当時、王の生き写しだ、神童だと評判になり始めていた我が子に依存しきりだったと聞いている」


 イグニスが宮廷へと入ったその日は、彼の心中には似つかわしくない憎らしいほどの青空で。少しでも威圧感を減らすべく庭に設けられた顔合わせの場で、イグニスは初めてリヒトと対面した。


「り、リヒト・ロワゾーブルーです。はじめまして……」




 富、地位、才覚、全てに恵まれた筈のその子はひどく顔が蒼白く、視線は虚ろで、弱々しかった。周りから聞かされていた前評判からのあまりの違いに、イグニスは母から生前言い聞かされていた言葉を思い出す。


『もしこれから先、母の身に“何か”が起きてやむ終えない事情で貴方が宮廷へと入ることがあったその時は、弟君であるリヒト様とわかりあい、貴方が兄としてあの子を助けてあげるのですよ』


 その言い付けがあったからこそ、イグニスはリヒトの置かれている立場が自分より余程異常なのだと、幼いながらに察することが出来たのだ。


「王妃は俺の宮廷入りを怒り狂うかと思ったが、以外にもおとなしかった。ただ、代わりにことあるごとに俺とリヒトに勝負をさせたがってな……」


 まだ幼子であったから、使える種目なんか限られている。その上イグニスは王子教育を受け始めたばかりの素人だ。当然生まれながらに英才教育を受けてきたリヒトに敵うわけがなく、イグニスが負ける度王妃は耳障りなほどの高笑いでリヒトを褒め称えていたと言う。


「言い方は悪いが、調子に乗ったのだろうな。それまで学問、あるいは芸術関連の勝負だけだったに、ある日王妃が持ち出した勝負演目は、剣術だった」


 無論子供であるため、柔らかな素材の模擬剣を使ったほんの、お遊び程度の試合。しかし。


「あの頃のリヒトは、母の異常な執着に憔悴しきっており、かなり身体が弱っていた」


 病弱な王子と、下町で育ったわんぱく盛りの子供。特定のルールも指定していなかった野良試合同然のその勝負の日、実はイグニスは、リヒトに初めて勝利した。


「えっ?でも……」


 思わず話に割って入るカナリアに、イグニスも頷く。

 カナリアが初めて彼と対峙した日、イグニスは言った。『俺は生まれてこの方リヒトに勝利したことがない』と。


「あの日の試合はな、表向きには行われなかったことにされたんだ」


 それは何故か。理由は簡単だ。息子の敗北に激怒した王妃が、皆の面前でリヒトを殴り倒したからだ。


 扇で張り倒し、ヒールで踏みつけ、殴って蹴って……。すぐ我に返った周りが王妃を押さえつけ、イグニスは咄嗟にリヒトを王妃から引き離した。だが。


「時は既に遅く。リヒトの瞳からは、僅かに残っていた光すら完全に失われていた」


 その後リヒトは怪我の療養、王妃は病の治療の為と表舞台から引き下げられ、程なくして王妃は亡くなった。“病死”と聞いているが、真相のほどは、イグニスにはわからない。



「俺がリヒトに再会したのは、王妃の葬儀の席だった。前日に遺品整理と最後の母子の対面として王妃の部屋にリヒトだけは入ったそうだが、俺はそこには呼ばれなかったからな。ただ、きっとまた傷ついているから、何かあれば庇ってやらねばと考えていた。しかし」


 現れたリヒトは、まるで別人が如く美しく、自信に満ち溢れていた。

 実母の葬儀の場とは思えないほど生気に溢れたリヒトは堂々と大人達に挨拶を述べ、その日から、社交界の天使だ、天才王子だと、今の“リヒト・ロワゾーブルー”へと変貌を遂げたのだと言う。














「あの頃は、異常な母親から解放されたお陰で枷が無くなった反動だと思っていた。数年後、父上からこの部屋の存在を聞き“鏡像”の話を知るまではな」


「ーー……」


 そこで一息いれたイグニスに気遣わしげに見つめられ、カナリアは俯いた。カナリアの記憶にあるリヒトはすでに、“今”のリヒトだった。自分は理解している気になっていただけで、彼のことなど何も知らなかったのだと。


 だが、今は落ち込んでいる場合ではない。顔を上げたカナリアの眼差しは、力強かった。


「……もし本当にリヒト様とメリア様が取り憑かれているのならば、一刻も早く助けなければいけないわね」


 これまでは、自身の破滅を防ぐために努力してきた。ならば次は、他の誰かを救うために頑張ればいい。そう決意したカナリアにイグニスは微笑んだが、同時にどこか憂いを帯びた表情になる。そして、『ひとつ、問題があるんだ』と、呟いた。


「鏡像は人の精神に入り込み、支配してしまう悪魔。取り憑かれた者の元の人格は内側に閉じ込められている為、解放された後……取り憑かれていた期間の記憶が全く残っていない者も珍しくないらしい」


「……っ!?」


 カナリアがリヒトに出会ったのは、恐らく既に彼が既に乗っ取られた後。つまり。


「リヒトが本当に取り憑かれていた場合。あいつを救えたとしても……」


 これまで婚約者として過ごしてきた思い出はすべて、彼の中から消えてしまうかもしれない。


 

「すぐに答えを出せとは言わない。今の事実を踏まえた上でどうするか、選んでほしい」


 『答えを、待ってる』と、妙に大人びた声音で呟いたイグニスに導かれ、帰路につく。

 馬車から見上げた夜空は星ひとつなく、深い闇がどこまでも続いていた。






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