Ep.22 君は大切な好敵手
小一時間程泣きじゃくったカナリアは、イグニスの手にすがり付いたまま今は小さな寝息を立てている。
「あーあ、濡れたままにしたら肌が荒れるぞ。全く……」
「んっ、んぅ……」
「……っ!」
無防備なその寝顔を邪魔しないように、涙で濡れた白い頬をそっと拭ってやれば、カナリアが小さく身動ぎして吐息をこぼした。その輪郭の細さと艶っぽい声に、不覚にも心臓が跳ね上がる。
……が、その瞬間背後から思い切り肩を掴まれる。驚いて振り向くと、ジト目で自分を睨み付けているカナリアの
「それ以上お嬢様にいやらしい真似をしたら、王子だろうが何だろうがその左手容赦なく切り落としますよ」
「痛たたたたっ!ちょっと待て!ただ涙を拭いただけだろうが!」
「行動自体は些細でもそこに下心が混じれば同じことです」
「だぁぁぁっ!だから下心なんか無いって!誤解だ!」
「じゃあ何故頬が赤いのですか?」
「ーっ!!」
淡々とした声で指摘され、思わずマーガレットを振りほどいたイグニスがバッと視線を逸らし自身の腕で顔を隠す。痛みと驚きのせいか、バクバクとうるさい心臓を押さえながら。
一度小さく深呼吸をして、熱の引いた顔でマーガレットに向き直る。
「珍しくしおらしい好敵手の姿にカナリアも女らしい面があるんだなと意外だっただけだよ。第一、弟の婚約者に懸想する訳がないだろ」
いつもは感情的なイグニスの口から淡々と紡がれたその言葉が、却って周りには言い訳めいて聞こえている事に彼自身は気づいているのだろうか。
「……まぁ、イグニス様にはご恩がありますし、お嬢様も“友人”として、貴方様を信頼していらっしゃいます。ですから、まぁ今夜の事だけは大目に見ましょう」
「……っ。さっきから下手に出てりゃ、辛辣な事だな。いい加減不敬罪だぞ?全く、出会った頃のお前の
「あら、お褒めに預かり光栄ですわ」
「褒めてねーよ!」
わざとらしく強調された“友人”のキーワードに一瞬眉を潜めたイグニスが呆れたとばかりにため息をつく。
「まぁいい。それで?ノックもなく部屋に入ってきてまで何の用だ、異常があったか?」
「えぇ、イグニス様に、お客様がお見えでございます」
「……客?」
カナリアにではなく俺にか、と怪訝な顔になるイグニスの正面からマーガレットが一歩右によければ、イグニスの疑問はすぐに解決した。
薄暗い廊下でも煌めく銀髪と碧眼の美少年が、神妙な顔でイグニスに膝をつく。
「ルンバー伯爵家三男・ジェイド、イグニス第二王子殿下へご報告したいことが有り参上致しました」
それを聞いたマーガレットが気を利かせ部屋を出る。カナリアもまだ寝入っていることを確かめ、イグニスが指をひと鳴らしすると防音結界が部屋を包んだ。以前リヒトと決闘した際に張った結界の応用だ。
「調査ご苦労。それで、結果は?」
「ご指示を受けてすぐにカナリア様が本番直前で飲まれたと言う薬湯を探しに控え室に忍び込みましたが、水筒も使用したグラスも跡形もなく消えておりました。恐らく、先回って処分されてしまったものと思われます」
予想はしていたと言え思わしくない報告にイグニスは落胆した。
カナリアが倒れた経緯を聞いてすぐ、イグニスはジェイドに薬湯の回収を命じた。リヒトがカナリアに届け、彼女が口にしたと言うその薬湯を、イグニスは『リヒトに渡した記憶がなかった』から。
今朝まで体調も万全だった彼女が急に倒れたのだとすれば、真っ先に疑うべきは人為的要因である。誰かに薬を盛られたのならば、倒れたのは彼女の責任ではない。その為にも、証拠となり得そうなそれの回収を、密かに国の諜報を担うルンバー家の子息であるジェイドに頼んだのだが。
「半刻と経たずに何の形跡もなく証拠が消えたか……。隠蔽されたと見て間違い無さそうだな」
「はい。ですが、リヒト殿下にイグニス様からだと薬湯を預けた薬師は夕刻に仕事を終え帰宅する途中で行方知れずになっていました。調合室も見て参りましたが、既に掃除が施された後でしたし異質な薬草も見当たら無かった次第です」
「手詰まりか……。証拠もない以上、今はそちらの調査は公には出来ない。とりあえず薬師の行方だけもう少し探ってくれ」
「かしこまりました。……それから、もうひとつ気になる話がございまして」
『気になること?』と聞き返すと、ジェイドが頷く。『あくまで少し気にかかっただけで些細なことかもしれないのですが』とジェイドは言うが、その表情からしてこちらも良くない話だと察した。
「お前が気にかかったと言うことは、些細でも確かな違和がある話なんだろう。話してみろ」
「はい。……本日カナリア様の代理として舞台に出演したメリア・シルフィードの事なのですが」
「何だ、また何かやらかしたのか?舞台自体は特に問題無く終了したと聞いているが?」
あれほど努力を重ねていた主演への敬意もなくあっさりと切り捨てた薄情者達の演じる物語等、反吐が出る。だからイグニスは、今日の舞台を見なかった。そしてそれは、公演時間に王宮へ調査の為赴いていたジェイドも同じの筈なのだが。
「えぇ。ただ体調不良を理由に客席を抜け調査を行った後、怪しまれぬよう一度学友達の元に顔を出したのですが。舞台を見た彼等の感想がどうにも府に落ちなかったのです」
「舞台を見た生徒達は何と言っていたんだ?」
「素晴らしい舞台だったと皆称賛していました。唐突に代役に選ばれたにも関わらずメリア嬢は緊張することもなく、実に堂々と主役を演じきったそうです。まるで、初めからこうなることがわかっていたかのようだったと」
「それは……、妙な話だな」
本来、選抜で敗北したメリアが台本を暗記していただけでも不自然だし、そもそも舞台で歌われた聖歌の楽譜はカナリアとリヒトしか持っていなかった筈。それなのに、何故メリアはあの歌を初めから知っていたのか。
(カナリアが情報を漏らす訳がない。ならば、出どころはリヒトの方だと考えざるを得ない。それに、学園で噂になっていた礼拝堂の天使の話は……)
「メリア嬢は現在学内で数十人の男子生徒から好意を向けられており、常に不特定多数の男に囲まれていると聞きます。その中には、婚約者を持つ男性も多いとか……。大変申し上げにくいのですが今回の件、リヒト殿下も無関係だとは……「それ以上言うな!」ーっ!!」
ジェイドの苦言を思わず遮ってしまった。彼の主張の正しさは、自分だってわかっている。けれど、どんなに嫌われていようが、向き合ってもらえなかろうがリヒトはイグニスの弟だ。今はまだ、信じたい気持ちの方が大きい。
「今回の件、どうにも不可解な点が多い。憶測で下手に結論を出すべきではないだろう。薬湯の件だってリヒトが単に利用されただけとも考えられる。妙な疑惑を向けて、カナリアとリヒトの関係が拗れたらどうする?」
「……そうですね、失言でした。申し訳ございません」
ですが、とジェイドがベッドでまだ寝入っているカナリアの濡れた頬から、少し濡れているイグニスの袖に視線を移した。
「私には、今の時点でもリヒト殿下がカナリア様を大切にされているとは、どうにも思えません。カナリア様ばかりがあの方の背を追いかけ、涙を流しているのに。……っイグニス様は、それをただ見ているだけで良いのですか!貴方は本当はカナリア様を……っ!」
声を荒げたジェイドの口を咄嗟に片手で塞いだ。その先を、聞いてはいけないと感じたから。
「馬鹿な事を言うな。お前が俺達の仲をどう誤解したかは知らないが、カナリアは大切な友人であり、未来の
『彼女はただの友達』。何かを圧し殺したように笑って、そっとジェイドから手を話す。でも、もうジェイドは口を開かなかった。
「手荒な真似して悪かったな。調査ありがとう。今夜はもう、帰って休むといい」
「……はい、失礼致します」
ジェイドが立ち去るのと同時に防音結界が消えたが、外はすっかり静かになっていた。花火の音も、もうしない。月明かりだけが、カナリアの寝顔を優しく照らしている。その頬にもう一度触れようとしたイグニスの指先は、寸手の所で静止した。
『貴方は、カナリア様のことを……っ』
「ーー……まさかな、そんな訳ない」
彼女は世界で初めてイグニスをただの同い年の青年として張り合って喧嘩をしてくれた好敵手で、努力家な性格が馬が合うと思った。だから協力した。
彼女への今回の仕打ちに腹が立つのは、人としてあまりにモラルに欠けた仕打ちだったから。それだけなのだ。
だから、きっと。
(俺なら、泣かせないのに)
なんて、この気持ちも。全部全部、同情故の気の迷い。
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