第17話 「なんかメモとか残ってないんですか?」
「あ、あれー!? 雨宮先輩!? トイレに行ってたんじゃないんすか!? 今、突然『ぱっ』って現れましたよね!? 『ぱっ』って!」
それまで、アホ面で固まっていた月形くんが素っ頓狂な声をあげた。
「な、何言ってるんだよ。普通にトイレから戻ってきただけだよ。酔っ払ってんのか」
そそくさと席について残っているジョッキを一気にあおる。
「そ、そうですか? おかしいなぁ……見間違いかなぁ」
月形くんは目を擦って不思議そうに僕を見ている。
「夢でも見てんのかー? おら、もっと飲んでシャキッとしろ!」
月形くんの細い肩を抱き寄せて赤ら顔の井岡さんがジョッキを押し付ける。
「もー、井岡さん。そういうの新卒の前で言うとパワハラっすからね、オレみたいにできた後輩の前だけにしてくださいよー」
「なーんだよぉ。ったく、本当面倒くせえ世の中だよな。お前みたいに出来は悪くても飲みに付き合ってくれる奴の方がよっぽど良いよ。今年の新卒の奴らときたら、いくら飲みに誘っても全然来ねーの。あいつら人間か? 機械かよ。親睦を深めようと趣味とか聞いても、特にありませんとか、つまんねえんだよ」
「井岡さんもう早速、愚痴モードに入ってるじゃないすかー。まあ新人たちは仕方ないっすよ。仕事とプライベートを完全に分けてますからねー。ってそんなことより力が強いんすよー、痛い痛い!」
グワングワンと肩を揺すられて月形くんが悲鳴を上げる。
「ちょっと雨宮先輩もなにを微笑ましく眺めてるんすかー。このゴリラどうにかしてくださいよーっ!」
ははは、と笑顔でいなしつつ、二人の絡みは長引きそうなので、その隙にスマホを開いた。
LINEの画面を開いて雫ちゃんに沙織の様子を尋ねる。既読のマークは出ない。女子会は盛り上がっているのだろうか。時間はすでに0時を過ぎている。まだ寝るには早いか。
「雨宮先輩ぃ。スマホいじってないで、ゴリラの相手してくださいよー。これだから体育会系は嫌なんすよー」
「じゃあ宴もたけなわですけど。そろそろお開きにしますか。」
二人には悪いが、沙織のことが気に掛かる。
「ええ!? もう終わりっすか!?」
「もう0時すぎてるよ。電車なくなっちゃうだろう」
「いけね。早く帰らないと」
僕たちはお会計をして店を出たのだが、すでに終電は過ぎてしまっていた。
「仕方ない。タクシーで帰るか」
井岡さんはジャケットを肩にかけてタクシーを探す。
「俺はガールバーで飲み直しますっ! 雨宮先輩もどーっすか?」
「いや、僕も井岡さんと帰るよ」
「ちぇー。まあ良いっす、また来週! お疲れっすー」
夜の町に消えていく月形くんを見送って僕と井岡さんはタクシーを停めた。
「かー。飲んだ飲んだ。たまには月形に付き合って朝までいきたいところだがなー。家族がいると中々なー」
車内で顔は赤いが正気に戻った井岡さんがため息を吐いた。
「奥さん、怖いんですか」
「ん? 嫁は全然。家に帰って子供が寝てる顔を見るのがすげー幸せなんだよな。俺がこうやって仕事を頑張れるのも、あいつらの笑顔のためだからな」
「なんだ。また惚気ですか」
「ガハハ。最近の若者は結婚なんかメリットがないって言う奴も多いけどさ。大好きな奴らと一緒に暮らせるんだから幸せに決まってんだろと思うけどな。まー、時代遅れなんだろな。俺は」
井岡さんは頼りになる先輩で、僕も月形くんも慕っている。だけど、新人たちからは煙たがられている。
井岡さんは打ち解けようと努力しているのだが、貝のように若い子たちは井岡さんに心を開かない。
僕は若い子たちの職場にはプライベートを持ち込みたくないという気持ちもわかるけれど、井岡さんたち昭和の世代の意見もわかる。せっかく同じ会社にいるのだからもっと深く関われば良いのにとも思う。
どっちが良いとか悪いとかはわからないけれど、歩み寄ろうとしている井岡さんを頭から否定して理解しようとしない若者たちは少し嫌だ。
そんなことを考えていると、街並みは静かになって僕のアパートについた。
「じゃあまた月曜にな。今日はありがとな」
ここまでの代金を支払おうとする僕を手で制して井岡さんは手を振った。
頭を下げて、タクシーが角を曲がるまで見送って、僕はアパートの玄関を潜った。
こうやって井岡さんたちと飲むのは久しぶりだった。少し飲み過ぎたかもしれないが、いつもみたいに泥酔はしていない。
明日、沙織が雫ちゃんの部屋から帰ってきたら、これまで隠していた彼女の未来について話をして、隠していたことを謝罪して、この世界で一緒に生きてほしいと伝えよう。
きっと、沙織は理解してくれる。ここは彼女にとって見知らぬ未来の街だけれど、雫ちゃんだっているし、なんとかなる。
なんとかなるさ。
僕は酔っていたからか、全てがうまくいくと安易な考えを浮かべながら眠りについた。
だけど、次の日。
沙織は僕に何も言わず、姿を消してしまったのだった。
☆
「え? さやかちゃん帰ってないんですか?」
扉の向こうから顔を出した雫ちゃんが眠たげな目を擦りながら言った。
「帰ってない……。てっきり雫ちゃんの家にいるものだと思ってた……」
僕が朝方、目を覚ました時に部屋の中に沙織がいなかったので、雫ちゃんの部屋にまだいるものだと思っていた。
そのまま二度寝してしまい再び起きたのは正午過ぎだった。それでも部屋に沙織の姿がなくて、僕は慌てて雫ちゃんの部屋に様子を見に来たのだ。
雫ちゃんは僕が鳴らしたチャイムで起きたみたいで、寝癖まじりの髪で玄関先にやってきたのだった。
「深夜までお喋りしてましたけど、朝には帰ったんで光輔さんの部屋に戻っていると思ってたんですけど」
雫ちゃんは青ざめている僕の表情に気づかず、眠たげに目を擦る。
「昨日、あいつとは何をしてたの?」
「普通にテレビ見たりゲームしたり、動画みたり、恋バナしたり。わたしはお酒も入ってたんで、三時か四時くらいには寝落ちしちゃいましたけど、さやかちゃんは朝、ちゃんと起きて帰りましたけど……」
「朝って何時くらい?」
「七時か八時くらいですね。光輔さんは部屋にいたんじゃないんですか?」
「いたけど……。昨日は会社の同僚と飲んでたから。さっき起きたらいなかったんだよ」
痛恨のミスだった。悔やんでも悔みきれない。
「変わった様子はなかった? 沙織のこととか話をしたりは?」
「うーん、お姉ちゃんの話はしてないと思いますけど。それに、いつも通りの元気なさやかちゃんでしたけどね」
タイタンは沙織が自分の未来について知ってショックを受けているはずと言っていた。それでも沙織は普段通りの姿だったのか。それとも、いつも通りを演じていたのか。
「特にさやかちゃんからお姉ちゃんのことを聞かれることもなかったですし」
雫ちゃんがそう言うなら、そのことに関しては間違いはないのだろう。沙織はどのタイミングで自分の未来を知ったのか。そして、どこに行ってしまったのか。
「どこか、あいつが行きそうな場所に心当たりないかな」
「申し訳ないですけど、思い浮かばないですねぇ。昨日はほんと、だらだらしてただけですし……」
僕の声音が切迫していたからか、雫ちゃんは真剣な顔で考えてくれた。
「あっ、そうですよ。もしかして、さやかちゃん彼氏に会いに行ったとかじゃないですか? なんかさやかちゃんの彼氏って遠い所にいるとかって言ってましたもん。いろいろ話をしているうちに会いたくなっちゃったりしたんじゃないでしょうか」
そんなわけはないけれど、本当に雫ちゃんは沙織の居場所に検討はついていない様子だった。
「ちなみにだけど、遠いところって、どこか聞いた?」
「場所は聞かなかったですね。でも、あと数日で会えるって言ってましたね。あっ、でもそうなると、わざわざ彼氏に会いに行ったってのも違うかなぁ。ごめんなさい、お役に立てなくて」
これ以上、聞いても雫ちゃんから情報は得られなさそうだ。
「なんかメモとか残ってないんですか? 光輔さんを心配させちゃダメだよって話はしましたから、無断でどこかに行っちゃうってことはしないと思うんですけどね……」
そうか、朝起きて沙織がいなくて、急いで雫ちゃんの部屋に来たので、自分の部屋の様子を見ていなかった。
僕はお礼を言って、慌てて自分の部屋に戻った。
急いで自分の部屋に戻った僕はキッチンのテーブルの上に置き手紙があることに気がついた。
高校の授業で使うようなA四サイズのルーズリーフ。
綺麗な文字が綴られていた。
『自分なりに色々と考えたいことができたので出かけてきます。
きっと夜には帰ると思うけど、もし帰らなかったとしても心配しないでください。』
感情の読み取れない文字を見つめて僕は立ち尽くした。
たった二行の曖昧な置き手紙が、僕の頭を混乱させた。このまま帰ってこないつもりなのか。
自分の未来を知って悲観して、永遠の別れを告げているつもりなのだろうか。冗談じゃない。
僕は慌てて着替えると部屋を飛び出した。
沙織の行き先に思い当たりがあるわけじゃない。けれど、このまま部屋でじっとしている気にはなれなかった。
アパートを出ると、ポツポツと雨が降り始めていた。傘を取りに帰ろうかとも思ったが、構わず駆け出した。
一緒に行ったコンビニ、夜に歩いた緑道、食材を買いに行ったスーパー。駅前のドラッグストア、
この数週間で二人で行った場所を手当たり次第に行ってみる。だけど、どこに行ってみても彼女の姿は見当たらなかった。
焦ってもダメだ。落ち着いて考えなければ。
立ち止まり深呼吸をする。
自分の未来を知ってしまったらどこに行こうと考えるか。
沙織だったら、きっと、まずはその未来が事実かを確かめに行くのではないか。
どこに行けば確かめられるのか。実家に行って両親に問いただすわけにも行かないし、ならばどこだ。
区役所で戸籍を見るか?
いや、それは手間がかかりすぎる。
手っ取り早く確認するためには……まさか、自分の墓か?
沙織が眠る墓地は僕たちが通っていた高校の最寄駅の近くの寺にある。流川家の墓なのだから、沙織が場所を知らないわけはない。
僕の部屋からだって電車に乗れば、二時間はかからない。
一縷の望みにかける。僕は駅に向かって駆け出した。
休日の騒がしい電車をいくつか乗り継いで目的の駅に向かう。電車の車窓から鈍色の空を眺める。雨はだんだんと強くなっていた。
駅について電車をおり、売店で傘と墓に供えるための花を買い、通っていた高校や沙織が現れた公園がある方とは反対側の改札から出る。
駅前の商店街を抜けてしばらく歩くと住宅街の一角に大きな瓦屋根が見えてきた。流川家の墓がある寺の本堂だ。石塀をぐるりと周り正面門に向かう。今日も葬儀が行われているのか、喪服の人達が出てくるを横目に正面の門を潜る。
境内に入り、左手の墓地へ向かう。
僕は沙織の墓参りだけは毎年欠かさずに来るようにしていた。
命日は六月で梅雨時だから、毎年今日みたいに雨か曇り空で、晴れていた記憶はない。
いつもどんよりした空の下、彼女が眠るお墓の前で少し黙って目を閉じて、そして花を供えて帰る。
何も語りかけたりはしない。これはただの儀式だから。僕の声は彼女には届かないから。勝手に後悔の言葉を述べて、懺悔して勝手に僕の想像の彼女に言葉を語らせて、許されたような気持ちになるのは独りよがりだと思うから。
並ぶ墓石の間を縫うよう歩き、彼女の墓へ向かう。
曇り空、冷たい雨、色のない墓石。そんなモノクロ世界の中、通路の石畳の合間に咲いた紫陽花だけが彩りを添えていた。
墓地に人気はなかった。本堂から風に乗って微かに聞こえてくるお経の声と荘厳な鐘の音だけが、雨の中に響いていた。沙織の墓の前にも、誰もいなかった。だけど、墓石の前に白い花が供えられていた。僕が売店で買ったものと同じ種類の真新しい花が。
沙織はきっとここにきたのだ。そして、墓石に刻まれた自分の名前と命日を見たのだ。沙織はどんな気持ちでここにきたのだろう。
僕は墓石の前にしゃがみ、買ってきた花を供えた。じっと彼女の名前が刻まれた墓石を見る。
少し目を瞑って、息を吐いて、吸って。
そして、立ち上がり、墓地を後にした。
ここから沙織がどこへ向かったのか想像もできなかったけど、彼女にとって馴染みのある場所はこの周辺にはいくつかある。僕が告白をして、高校生の沙織が現れた公園もその一つだ。二人にとって重要な場所ではあったが、今の状況で沙織がいくとは考えられない。だけど、行くあてもない僕は馬鹿の一つ覚えみたいに公園に向かった。あの噴水の公園に。
冷たく雨の降る公園には誰もいなくて、先月咲いていたツツジの花ももう終わっていた。人のいない公園は寂しい。噴水のある広場まで歩いたけれど、やはり沙織はいなかった。
もう、この駅周辺にはいないのかもしれないと思いながらも、足を伸ばし、藁を掴む思いで僕たちが通っていた高校まで歩いてみた。
懐かしい通学路をしばらく歩く。グラウンドのボールよけのネットが見えてきて、高校が近づいてきた。
道から見える雨のグラウンドには誰もいなかったけど、体育館の方からはバスケ部の声やボールのバウンドする音が聞こえてきた。
敷地をぐるりと回って正門まで進む。
やはり、ここにもいないか、と諦めかけたその時だった。
角を曲がると、正門の前に傘をさした少女が立っているのが見えた。
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