第10話 「……ねえ、光輔くんはマトモなんだよね?」
僕がいない昼間は外に出ないでくれと沙織に念を押すと、口では従っていたが、声色や表情を伺えば不満げにしているのはわかる。
「気持ちはわかるけどさ。仕方ないだろ。昼間は雑誌とかテレビを見て時間を潰してくれ。iPadも置いてくからさ。ほら、これでインターネットもYouTubeでも見れる。……え? YouTubeって知らない? そうか13年前はまだなかったっけ。ともかく、できるだけ早く帰るから、夕食は一緒に外に食べにいくってことで、昼間は外出は我慢してくれ」
頼みこんでなんとか了解を得たのだが。どうなっていることか。
午後五時半。終業時間になると僕は誰よりも早く会社を出た。こんなこと入社以来初めてかもしれない。
沙織が暇に耐えかねてどこかに行ってしまっていないか心配だった。こんな時に携帯電話で状況を掴めないのはストレスだ。沙織は学生鞄を持ってこの世界に現れたが、自分の携帯電話は持っていなかった。
機嫌をよくしてもらうためにちょっと奮発してレストランにでも連れて行こうか、それともマクドナルドとかの方が喜ぶのかな、なんて考えながら帰ったのに。
家に帰ると沙織はごろごろしながら面倒くさそうにいった。
「えー。今日は適当に家でなんか食べようよー」
肩透かしとはこのことだ。
「出かけたいんじゃなかったの?」
「だって、家にいろっていったじゃーん」
「そうだけど、外に行きたいってあんなに駄々を捏ねていたじゃん?」
「うんー。まーねー」
急いで帰ったのに。慌てていたのが馬鹿みたいだ。僕は少し荒くなった息を整えながらジャケットを脱ぐ。
沙織はベッドの上でiPadを両手に持って画面を見ていた。ニヤニヤして時折、声を出して笑っている。チラリと覗けば、どうやらYouTubeを見ているようだった。
「何見てんの?」
「にゃんこー」
「……猫?」
ネクタイを緩めながら近づいて、彼女の手の内を見る。子猫がコロコロと転がったり、猫じゃらしに飛びついて転んだりしている映像が穏やかなBGMに乗せて流れていた。
「え。もしかして、一日中それ見てたのか?」
「うん」
沙織は動画から目を逸らさずに頷いた。YouTubeがお気に入りになったようだ。
まあ確かに休みの日とか深夜とかに動画を見始めたら時間を溶かす勢いで延々と見てしまう時もあるが。
「可愛いなぁ、にゃんこ。ずっと飼いたかったんだけど、お父さんが猫アレルギーでさ。ダメって言われてたんだよね」
「それで動画を?」
「うん。だって、いっぱいあるんだもん。もー、超幸せ! フニフニでモフモフで、ああ癒されるぅ」
ごろんごろんとベッドの上で身悶えして喜んでいる。一日中猫の動画を見ているなんてどうかと思うけれど、それで気を紛らわせてくれているなら咎める必要もないか。タイタンに気を付けろと言われた『刺激』には一番ほど遠いものな。
「じゃあ、ご飯は君が買ってきた野菜のあまりとかレトルトとかで適当になんか作るけど、それでいいか?」
「わーい。ありがとー。わたしも何か手伝おうか」
「そうだな。テーブル綺麗にしといてくれたらそれでいいよ」
「はーい」
取り越し苦労でよかった。けど、この世界にいる一ヶ月をずっとYouTubeを見て何事もなく終わるなんてことはないだろうし、他にも何か暇つぶしになりそうなものを考えた方がいいかなあ、と僕は考えながら料理をこしらえた。
ご飯を食べ終えると、沙織は僕に甘えてくる。お前が猫みたいだぞ。
「ねーねー、大学入学したら光輔くん一人暮らしするんでしょ。泊まりに行っていい?」
「今の僕に言うなよ。もう過去の話なんだから」
「ありゃ。聞き方を間違えたよ。大学時代のわたしはよく光輔くんの家に泊まりに来た?」
どこまで答えていいのだろうか。
「ま、まあそれなりには」
曖昧な答えでお茶を濁す。
「なによ、そこらへんも答えられないの?」
「未来のことは教えるなって言われてんだよ」
「言われてるって誰によ。そういえば、その携帯にメール送ってきてる人はなんなの?」
「僕だってよくわかんないよ。『大いなる意志の忠実なる僕』とか名乗ってたけど、なんなんだろうな。宇宙人か未来人か異世界人か。ともかくずいぶんと文明は進んでいる所の生命体っぽいな」
「ふーん。そいつらのせいでわたしは未来に飛ばされたわけね。ひとこと文句でも言ってやりたい気分ね」
正確に言えば、別にそいつらのせいではないのだろうけど。文句を言いたい気持ちはわかる。
「言う? この携帯のメールでなら言えるけど」
鞄の中から赤い携帯電話を取り出して訊く。すると沙織は僕の手をじっと見た。
「……ねえ、光輔くんはマトモなんだよね?」
「はあ? 何を言ってんのさ」
「昨日もそうだったけど、光輔くんが持ってるその携帯って。わたしには見えてないんだけど」
「え、どういうこと?」
「だから。携帯を持ってるっていうパントマイムをやってるようにしか見えないってこと」
「これが?」
手に持った携帯電話を画面を開いて、タイタンのメールを出して沙織に向ける。
「だから、わたしにはなにも見えてないの。ほら」
沙織が指を伸ばした。僕の手のなかにある携帯電話の画面を指で突くように。
しかし、その指はあろうことか、携帯電話をすり抜けて僕の目の前に差し出された。
「うお!? びっくりした」
飛び退く。
「本当に見えてないのか……っていうか、これ。僕にしか見えてないのか?」
「そうなんじゃないかな。きっとそれが重要アイテムなんだろね」
「これが……」
手のなかにある携帯電話を見つめる。固いし、ひんやり冷たい。爪でつつけば鈍い振動が指を通じて伝わってくる。
「……こんなにはっきり重みもあるのに。なんか信じらんないなぁ」
「でも、なんも見えてないよ」
なにか腑に落ちた気がした。だって、そもそも、この携帯電話は壊れて捨てたもののはずだし会社で取り出そうとしたら鞄の中からなくなっていたり、不思議なことばかりだったから。
沙織の言うように僕にしか見えてないと言う方が現実的だ。
「ともかく、なにか不満があるんならさ、君には見えないけど、この携帯で文句は言ってあげるからさ。昼間のうちは部屋から出ないでくれよ。なんか欲しいものがあったら買ってきてやるから」
「はーい」
沙織は素直に返事をした。
どこか大学時代に戻ったみたいな不思議な感覚だった。
あの頃も僕がバイトから帰ると部屋に沙織がいて、ダラダラごろごろしていて、他愛のないことを喋って一緒に寝て、そんな生活だった。
あの頃がまた戻ってきたみたいだった。違うのは、彼女の肌に触れていないことくらいだ。
次の日は金曜日で、さすがに定時で会社を出るようなことはできなかった。
今日が締め切りの雑務を終えるころには、すっかり日は落ちていた。
帰り支度をしていると、井岡さんに声をかけられた。
「どうだ。花の金曜日、一杯いかねえか」
飛び付いたのは月形くんだ。
「いいっすねぇ! じゃあ焼き鳥の吉兆に行きましょうよ」
「吉兆かぁ、この前もあそこだったじゃねえか」
「いいじゃないですか。ね、雨宮先輩も行きますよね?」
いつもだったら僕も一緒に行くのだが、沙織のことが心配だった。
「すみません。今日はちょっと予定があって」
僕が答えると二人とも驚いた。
「珍しいなぁ。雨宮に予定があるなんて」
「も、もしかして女ですか!?」
目の色を変えて詰め寄ってくる月形くん。君はそれしかないのか。
苦笑いしながら首をふる。
「違うよ。ちょっと親戚と食事の予定があって」
ごまかすと、月形くんは急激に興味を失った。
「なーんだ。じゃあいいっす。井岡さん。吉兆ね。いきましょう!」
「おまえ、そんなにあの店が気に入ったのか。吉兆でもいいけど。雨宮はまた月曜な」
「はい。お疲れさまです」
挨拶をして二人と別れ、家路を急いだ。
早足で家に帰ると、沙織はまたしてもiPadを抱えごろごろしていた。
「おーい。また猫動画かよ」
「ううんー。今日はわんこだよぉ」
寝返りをうってこちらを見て、無邪気な笑顔で言う。そういう問題でもない。
急いで帰るのがバカらしくなるくらい沙織はまったりしていた。これなら井岡さんたちと飲みに行ってもよかったよ。
「家にいて欲しいとは言ったけどさ。ずっとゴロゴロしてるとバカになるぞ」
「んー。でも、わたしの時代にはこんな
「なんか寝巻きのまんまって感じだな」
「あ、そういえばそうだねー」
これじゃニートだよ。僕は彼女が見ているiPadを取り上げた。
「あ、いいところだったのにー!ひどいー」
「うるさい。ずっとYouTubeばっか見てるとバカになるぞ」
「ぷぷぷ。やだ光輔くんお母さんみたーい」
「やかましい。今日は外食にいくぞ。さっさと準備しろ」
僕は沙織を引きずり出すようにして、夜の街に連れ出した。
「わあ、気持ちいい風。そうだよね、こっちは五月なんだもんね。暖かいわけだ」
細い腕を天に伸ばして沙織はストレッチをした。日に日に暖かくなっている。朝晩が寒い日もあるが、今日は南風が吹いていて暖かかった。
「そっか、沙織は高三の三月からこの世界に飛んだわけか。三月ってまだ寒い日もあるよな」
「うん。桜だってまだ咲いてなかったし、この前なんかちょっと雪が降ったし」
「そりゃ寒いよなぁ」
四季ってのがあるんだから、たった二ヶ月の間でも、やっぱり季節が変わっていくんだ。
「で、ごはん何食べたい? 金ならあるぞ。今、君が付き合ってる奴よりもね」
「ふふ。そうなんだろうね。でも、ファミレスとかで全然いいよ」
「いいの?」
「うん。サイゼとか、デニーズとかでいいよ」
駅前にサイゼリヤはあった気がする。
「よし、じゃサイゼにしようか」
二人で駅前の商店街まで歩き、緑色の看板のイタリアンレストランに行く。
リーズナブルな値段のサイゼリアは高校生の時から僕たちの味方だった。文化祭実行委員会の集まりなどではドリンクバーだけで何時間もいた。
「サイゼに来るのも久しぶりだなぁ」
「うっそー。光輔くんいつも何かっていうとサイゼに行きたがってるのに」
「そりゃ高校生にはミラノ風ドリアの値段は神がかっていたからなぁ」
ミラノ風ドリア299円。あの頃はバカみたいに食べたものだ。
店内に入ると昔の僕たちみたいな若者や、家族で賑わっていた。
店員に案内され席につくと、沙織はメニューも見ずにまずドリンクバーを注文した。
「あ、ドリンクバーはひとつでいいよ」
「え? 光輔くん、お水でいいの?」
「いやそうじゃなくて、すいません。生ビールください」
かしこまりました、とお辞儀をして去っていく店員さんを見送った沙織はじとっとした目で僕を見つめた。
「なんだよその目は」
「なーんか、おっさんくさーい」
「何がだよ」
「とりあえず生みたいなの。パパみたい」
「もう31歳だからな。中年だよ。ほら、さっさとメニュー決めなよ」
沙織はスパゲッティ、僕はプロシュートとかポップコーンシュリンプとか、つまみを頼んだ。
「うわあ。光輔くんらしくないチョイス」
「何がだよ」
「だって、ドリアとスパゲッティとか、スパゲッティのダブルサイズにハンバーグとか、いつもはそんなんばっか食べてるのに」
「なんかバカな高校生みたいな取り合わせだな」
苦笑する。
「やっぱり、光輔くんとは言え、年を取ると変わっちゃうもんなんだねぇ」
「……良い意味で? 悪い意味で?」
訊くと、ふふふと微笑んで、
「ノーコメント」と沙織は言った。
そうだよな。人間は歳を取れば変わってしまうものだ。生きていれば。
沙織が僕と同い年になることはなかった。でもきっと彼女だって僕と同い年まで生きれば、きっとサイゼリヤにきたらグラスワインかなんかを飲んで、エスカルゴでも摘むだろう。そんな時が来て欲しかった。同じ歳のカップルとして、レストランに行きたかった。
「やだ。なに辛気臭い顔になってんの?」
「ふっ。酸いも甘いも知り尽くした大人の顔と言ってくれ」
肩をすくめておどけて見せる。
「それにしても、サイゼはわたしの時代と何にも変わってなくて、ちょっとほっとしたよ」
ぐるりと店内を見渡して沙織は言った。確かにメニューも大幅には変わってはいないし、店内の雰囲気もずっと変わらない。こういうところで気が休まるのはわからないでもない。変わらない良さってあるものな。
「あっ! ねねね、光輔くん。ちょっと見てあれ。ほら、あそこの席にいるの雫じゃない?」
沙織が指し示す方を見ればテーブル席に若い男女が四人がいた。男の子二人と女の子二人。そのうちの一人が雫ちゃんだった。
「彼氏かな? 雫も隅におけないねー。んー、でもなんかあんまりパッとする男じゃないなぁ」
「おいおい、そういうこと言うなって」
失礼なことを言う沙織を嗜めながらプロシュートをつつく。
「だって、義理の弟になる可能性だってゼロじゃないんだよ。やっぱ、カッコいい人と付き合ってもらいたいじゃん。あれはダメだね。出世しなさそう」
沙織が悪どい笑みを浮かべる。
「お互いが好きならいいじゃんか。ほら、あんまり身を乗り出すなよ。あんまり遊んでるところを身内に見られるのって気分良くないだろ」
「もー。なにを大人ぶってんのさ」
沙織はつり目がちな瞳をさらに吊り上げて頬を膨らませる。
「だから大人だって……」
毎度のやりとりに苦笑いしつつも、雫ちゃんの友達がどんなものなのかも気になって、ちらりと雫ちゃんたちのテーブルを見る。テーブルの上には空いた皿。食事自体は済んでいてドリンクバーでダラダラ過ごすシーンに突入しているようだ。男の子たちの染めた髪型を見るに堅い職業ではなさそうだけど、職場の仲間だろうか。
「そういえば、雫って何の仕事してんの?」
「えっと……。ごめん、何度か聞いたけど覚えてない。派遣社員だかフリーターだか。ともかく正社員ではないって言ってたけど」
「何系の?」
「なんだっけな。アパレル? 関連の? 事務? あ、でも店舗にも行くとか? あれ。それは前の仕事だっけな」
「何よ。全然わかってないじゃん」
「いやぁ……ははは」
「まったく。まあいいわ。それは後でわたしが聞き出しとく。でも、どっちが雫の彼氏かな」
「んー。どうだろ。ただの友達なんじゃない?」
「そうかなー。……あ、やば」
パッと沙織が顔を伏せた。どうやら雫ちゃんに気づかれたみたいだ。
「ほら、言わんこっちゃない」
「光輔くんがでかい図体してるからよ」
首を縮こまらせて口を尖らせる沙織の向こうで、雫ちゃんがパッと表情を明るくして手を振った。
「あの人、誰?」みたいな反応をする仲間たちに一言二言なにかを言って、雫ちゃんは席を立った。そしてこちらに歩いてきた。
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