思い出のハイドランジア
ボンゴレ☆ビガンゴ
第1話 『新着メールが1件あります』
二日酔いの頭を鈍器で殴りつけるような不快な電子音。
枕元でスマートフォンのアラームがけたたましく鳴った。
布団を頭まで被り無視を決め込むが、最大音量で鳴り響くアラームは容赦がない。
最悪な朝だった。
根負けした僕は布団から手を伸ばしてその長方形の端末を掴み忌々しいアラームを消した。
これで二度寝に入れる、と安堵して寝返りを打った時、二の腕の柔らかく無防備な箇所に何か硬いものがぶつかった。
……なんだ?
鈍い痛みに反射的に目を開ける。
そこには箱があった。
厳重に四隅をガムテープで塞がれたダンボールの小箱が布団の中に紛れ込んでいたのだ。
なんだ、コレ。
痛む二の腕をさすりながら、見知らぬ小箱を凝視する。昨晩、酔っ払ってよくわからないものでも買ってきてしまったのだろうか。
全然記憶にない。買ったのか拾ってきたのか、なんなのかわからない。わかるのはとりあえず寝るのには邪魔だってことくらいだ。
僕はあまり深く考えず、その小箱をぽいっとベッドの外に放り出して、二度寝に入ろうとした。
その時だった。
「
玄関の扉を開けて、誰かが入ってきた。
「起きてますかー。大丈夫ですかー。うわ、もー、玄関にスーツ脱ぎ散らかしてー。昨日もドッタンバッタンうるさかったもんなぁ。ねえ光輔さーん。起きてますかー」
聞き馴染みのある涼やかな声と、華奢な足音がぱたぱたと近づいてくる。目を開けなくてもわかる。隣の部屋に住んでいる
「あー、やっぱり寝てるぅ。もうお昼ですよー。日曜だからってこんな時間まで寝てたらバチが当たりますよー」
ベッドの脇まで来た雫ちゃんは有無を言わさず、バサーっと布団を引っ剥がした。
「……うう、君はいつも勝手に入ってくるね」
幸せを奪われた僕は震えながら薄眼を開ける。
そこには色白な女の子が立っていた。艶のある黒髪のショートカット。眉毛の辺りで切りそろえられた前髪の下、大きな瞳が呆れた眼差しで僕を見下ろしている。
「勝手に入ってくるのが嫌なら、ちゃんと鍵をかけてくださいよ。いっつも泥酔して帰ってきて、玄関の扉も開けっぱなしで寝ちゃうじゃないですか。強盗にでも入られたらどうするんですか。わたし、心配して見に来てあげてるんですよ。感謝されるべきですけど?」
ぱっちりとした瞳を半目にして、雫ちゃんが腕を組む。
心配してくれるのはありがたいのだけど、少々お節介だ。
目を擦りながら僕は身を起こした。全身が怠い。昨晩は泥酔の果てにワイシャツも脱がないで寝てしまったようだ。
「ってか、光輔さん昨日も仕事だったんですか、土曜なのに?」
「ああ、ちょっと案件が立て込んでてね。資料を作りに行ってたんだ」
首をひねりながら大あくび。
「もう、光輔さんも三十路でしょ。そろそろ体のこと考えたほうがいいよ。いつまでも若くないんだからね」
細い腰のくびれに手を当てた雫ちゃんは控えめな胸を張って、ため息をついた。
雫ちゃんは僕が初めて付き合った恋人の妹だ。
出会った頃はランドセルを背負っていたというのに月日が経つのは早い。いつの間にか大学も卒業して今はフリーターだか派遣社員だかとして、頑張って社会人をしている。
もう二十代も半ばだというのに、いまだにお酒を買う時に年齢を確認されるほど幼い顔つきだが、最近は小言が増えて年上の僕のことを子供扱いすることが多くなっている。
「雫ちゃんも出会った頃はもっと素直で可愛かったのになぁ」
ボソッと呟いた言葉を雫ちゃんは聞き逃さなかった。
「今も充分可愛いです。そろそろ加齢臭がしてきた光輔さんとは違ってピチピチですからっ」
ぐさりと胸に突き刺さる。
「うぐぐ。朝から嫌なことを言うね、雫ちゃんは」
「だからもうお昼ですって。早く起きてくださいよ」
そう言いながら雫ちゃんは僕が脱ぎ散らかしたスラックスとジャケットを拾い上げ丁寧にハンガーにかけてくれた。
「窓、開けますよ。お酒くさいし」
返事を待たずに雫ちゃんはベランダの扉を開けた。五月の爽やかな風が淀んだ空気を洗い流すように部屋に吹き込み、暖かな日差しが部屋に差し込む。僕はもっと寝てたいのに。
「うう、雫ちゃん。今日は何の用なの?」
「実家から仕送りがあったんで、そのおすそ分けに来たんですよ。けど、相変わらず段ボール箱が大きくて、か弱い乙女には持てないんです。さっさと着替えて、わたしの部屋に来てください」
そういうことか。
雫ちゃんのお母さんに僕は頭が上がらないし、なら起きないわけにはいかないか。
「……わかったよ」
渋々と起き上がって雫ちゃんの後を追った。
布団の中に転がっていた小箱のことなど、もう忘れていた。
☆
僕が暮らしているのは築30年のアパートの三階だ。
建築当初はそれなりにお洒落な洋風の出で立ちだったのだろうが、今となっては外壁もくすんでしまって、なんとなく薄汚れた感じになってしまっている。エレベーターもないし。
リフォームはしているから内装はそれなりに綺麗なのだが、如何せん古い建物なので玄関やトイレの入り口なんかが妙に低い。
小柄な雫ちゃんなんかは、全然気にならないみたいだけど、身長の大きい僕は頭上が気になってしまう。僕が猫背になってしまうのはこの建物のせいでもあると思う。
「ささ、はやく入ってください」
雫ちゃんに急かされて、僕は彼女の部屋に足を踏み入れた。
彼女の部屋は僕の部屋と同じような間取りのはずなのに、なぜか広く見える。かわいい小物が多くて、整理整頓されているからだろうか。
それに家具やカーテンやキッチン道具の色とか形に統一性があって、なんとなく部屋全体が丸っこく温かみのある感じがする。不思議だ。
「はい、この段ボール。カップ麺とか缶詰とか。色々入ってるんで、持ってってください」
雫ちゃんが指差した先に置かれていた段ボールは確かに女の子が持つのは大変そうな大きさだった。
「これ全部? 雫ちゃんの分は?」
「わたしの分もあります。こっちです」
彼女の視線の先には、同じ大きさの段ボールが置かれていた。
「こんなに要らないって毎回言ってるのにねー。光輔くんは男の子だからいっぱい食べるでしょ。なんて言って」
親バカなんだから、と恥ずかしそうに雫ちゃんは呟いた。
「いつも気にかけてもらって申し訳ないね。お母さんにも今度ちゃんと会ってお礼をしないと」
「いいのいいの。お母さんね、光輔さんのこと『うちの長男』って呼んでるんだもん。お母さん、本当は男の子が欲しかったんだって。実家に帰るたび、光輔さんがお姉ちゃんと結婚してれば本当にそうなったのにーって、悔しがってるんですよ」
雫ちゃんは笑って机の上に置かれた写真立てに視線を送る。幼い雫ちゃんと手を繋ぐ真新しい制服を着た髪の長い少女の写真。
「あの事故さえなければ、お姉ちゃんも今ごろは……」
雫ちゃんはそこまで言って、はっとした顔で僕の方を見た。
「す、すみません、思い出させてしまうようなことを……」
「いや、いいんだ。ごめんね。僕のせいで沙織は……」
「そんなことありませんっ! 事故だったんだし、光輔さんのせいじゃありませんよ」
雫ちゃんが大きな目でまっすぐ僕を見て否定した。けど、僕はその目を見つめ返すことができなかった。
「あの、わたしったら……ごめんなさい。そ、そうだ、ごはん食べてってくださいよ。あの、ポトフ作ったんです。昨日の残りなんですけど、二日酔いにちょうどいいんじゃないですかっ」
雫ちゃんは僕の返事も待たずに立ち上がりキッチンのコンロに火をつけた。
「スープっていいですよねっ。何でもかんでも放り込んで煮込んじゃえば、なんとなく一緒の色になって、一つの味になって。いいですよねっ」
わたわたと、おたまでスープをかき混ぜながら雫ちゃんが言う。僕に気を使っているのがバレバレだ。
でも、そんな風にあからさまに気を使われるほど、僕は恋人の死から立ち直れていなかった。
恋人が……。沙織が死んでからもう10年。
それだけの時間が過ぎたのに、僕はあの日から一歩も前に進めていない。
あれから何回季節を過ごしても、死んだ沙織のことが忘れられない。
もう二度と会えない恋人のことを僕はずっと想い、後悔をしつづけている。
目の前の雫ちゃんだって、仲の良かった姉を失ったのだから、僕なんかよりもっと悲しかったはずなのに。
僕は自分が情けなくて仕方がなかった。
段ボール箱を抱えて部屋に戻り、スーツをクリーニング屋に持って行き、スーパーで日用品を買って家に帰る。起きた時間が遅いから、それだけでもうすっかりあたりは暗くなっていた。
味気のない休日の終わりを味気のないコンビニ弁当と缶ビールで締めくくる。
そして、寝て起きたら、また灰色の一週間が始まるのだ。
シャワーを浴びて無駄にスマホで暇を潰し、そろそろ寝ようかとベッドに潜り込んだ時、ふと今朝、布団に紛れ込んでいた小箱のことを思い出した。
そういえば、あの身に覚えのない小箱はいったいなんだったんだろう。
身を起こして辺りを探すと小箱は朝に放り投げたままの状態で転がっていた。手を伸ばしてつかみ、軽く振ってみると重みのあるものが中でカタカタと鳴った。
なにが入っているのだろう。
ぐるぐる巻きにされた外側のガムテープを剥がしていく。それにしても、やけに頑丈に包まれている。開ける人の気持ちも考えて包装してほしい。若干いらつきながら、バリバリとテープを剥がして、分厚い柑橘類の皮を剥くように爪を立てて外箱を破った。
すると中から出てきたのは携帯電話だった。スマホではなく、ガラケーという名前すらなかった時代の携帯電話だ。
「うわっ。懐かしい」
思わず声が漏れた。手に馴染むその端末には見覚えがあった。赤い塗装が施された丸みを帯びたボディは手のひらに収まる折りたたみ式。2.0MEGA PIXELSとロゴの入ったカメラレンズが背面上部に搭載されている。
昔、僕が初めて父親に買ってもらった機種だ。
僕は幼い頃に母を亡くしていて父子家庭だった。親父は僕といつでも連絡を取れるように、親父が使っていた中古の携帯電話を持たせてくれていた。
けれど、中学に入り、周りの友達も携帯電話を持つと、親父のお古の携帯は恥ずかしかった。新しいものが欲しかった。
この端末は僕の頼みを聞いてくれた親父が、初めて買ってくれた最初の携帯電話で、ずいぶんと長い間、機種変更もしないで使っていたから思い入れがあるのだ。
折りたたみ部分に親指を滑り込ませ端末の画面を開く。すると記憶よりもずっと小さい液晶画面が現れた。昔の携帯はこんなに画面が小さかったんだな。
発売当初はこれでも大型のタイプだったのに今のスマホに比べたらおもちゃみたいだ。
現れた液晶画面は真っ暗で電源は入っていなかった。
なんとなく、電源ボタンを長押ししてみた。すると、ぶるる、と本体が揺れて液晶にメーカーのロゴが浮かび上がった。まさか電池が残っていたとは。
メーカーロゴのあとに表示された待受画面も懐かしいものだった。画像は高校の近くに流れる川を土手から撮った写真。
たしか、付き合いたてだった沙織が撮った写真だ。
でも、なにかおかしい。
なにか引っかかる。
この違和感はなんだろうと頭を捻る。
あ。そうだ。
そうだよ、この携帯がこんなに綺麗なわけがないんだ。
だって長期間使っていたし、地面に落としたこともあった。
最終的に画面が割れて使えなくなったから仕方なく機種変更したのだ。
だから、こんな新品みたいな状態で存在するわけがない。
だけど、いくら疑ってみても、実際に目の前にあるわけで、何か思い違いをしているのかもしれない。
僕は深く考えず、せっかくだから、ちょっといじってみることにした。
メニューを開けば、アプリ。カメラ。ワンセグテレビ。EZWEB。着うた。懐かしいアイコンが並んでいる。
なんとなく真ん中のデータフォルダを開いてみた。
すると昔の写真や保存した壁紙が一覧になって表示された。
その中に、制服姿の沙織がこちらを向いている写真も含まれていた。
そうか。この中には高校時代に沙織と交わしたメールや一緒に撮った写真が残っているのか。
そう思った瞬間、懐かしいという気持ちは一気に消えてしまった。
息が苦しくなる。携帯電話を持つ手がじんわりと汗をかく。
生前の沙織の姿。付き合いたての頃のメール。僕はそれらを見る勇気がなかった。
大学四年の六月。突然だった彼女の死を受け入れられず、直視せず、曖昧にはぐらかすことで、なんとか呼吸をやめなかった僕の弱い心は、高校時代のこんな古い携帯電話に残された恋人の面影すら直視できないのだった。
逃げるように閉じた携帯電話をベッド脇のサイドテーブルの上におく。
沙織の画像があるのなら、きっともう開くことはない。
とはいえ、捨てる勇気もないから、いつものように段ボール箱にしまって、そのまま記憶の底に埋もれさせてしまうしかない。
捨てられないけれど見ることもできない思い出の品が保管されている段ボール箱が、僕のベッドの下の引き出しの中にある。
沙織と一緒に撮ったプリクラとか、ペアリングとか、彼女のお母さんに渡された沙織の日記帳とか。
「もし、わたしに何かあったら光輔くんに渡してって、沙織に言われていたの。鍵がかかってるから中身は見れないんだけど……」
日記を渡してくれた時の沙織のお母さんの言葉を思い出す。
沙織の日記帳は鍵がついているタイプの日記帳だった。
鍵は見つからなかったようで、中が見れないことをお母さんは残念がったが、僕にとっては幸運だった。
彼女の日々の心情なんか、今の僕には見ることはできない。表紙を見るだけで辛くなる。
きっと一生見ることはない。……けれど、捨てることもできない。
そこに、この携帯電話も入れてしまおうと、そう思った瞬間だった。
携帯電話から着信メロディが流れた。
GReeeeNの「キセキ」。
僕は驚きのあまり硬直してしまった。
このメロディは沙織が好きで、彼女からメールが来た時だけ鳴るように設定されたものだったからだ。
……まさか。
自分の耳を疑った。
気のせいだと思いながらも手を伸ばし、恐る恐る画面を開いてみた。
『新着メールが1件あります』
信じられなかった。
小さい画面のその中央にはメールが届いていることを通知するポップアップが現れていた。
驚いて視線を画面上部に向けた。画面の隅には「圏外」を示すアイコンがはっきりと表示されている。
嘘だろ。
携帯電話を握りしめたまま、しばらく呆然とした。なにかの誤作動だろうと、自分に言い聞かせながらも液晶画面から目を離せなかった。
メールを開く。
受信欄には確かに一通、新着のメールがある。受信日時は『2019年5月12日』
……今日だ。
そして、画面には送信者の名前もはっきりと表示されていた。
「流川沙織」
その名前を見た瞬間、息がつまった。気を失いかけた。
メールの送信者は、10年前に死んだ恋人だったのだ。
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