第8話 書を読むことの功罪
古来、人は自らの名を他人に知られる事を恐れた。
もし知られると、それを
歴史上の女性の名が伝わっていないのは、こういった理由もあった。
名前を呼ばれ、それに返事をすることは自分の名を相手に渡すことになる。相手がそういう能力を持つと知っていれば、絶対に行ってはいけない行為だ。
斎原は唇をかみしめ、意識の中に侵入しようとするものを必死で排除しようとしていた。
「さすが、『図書寮の姫』。わたしの操作を受け付けないとは。驚きです」
「そしてあなたは、ヴァネッサ・ブラムストーカー。『図書館の女王』と呼ばれる世界最強の文妖使い」
凍り付くような視線がヴァネッサに向けられた。
「ふふ。世界最強は言い過ぎだぞ。そなたのように口がうまい男は信用ならないが、悪い気はせぬのう。それで、どうする。わしも支配下に置くつもりか」
「残念ながら、あなたの
「なるほど、面白い冗談だ」
ヴァネッサは薄く笑った。その身体が陽炎のように揺らぎ始める。召喚された文妖が、戦闘モードに入ったヴァネッサの身体を覆っていくのだ。
「そんな貴様には、制裁という名の座布団を進呈するぞ」
対峙する二人の間に間に、深町先生が割り込んだ。
「じゃあ、そろそろ校長室へご案内しますね」
まるで何事もなかったかのように声をかける。戌飼に見蕩れているだけとは思えない。彼女も精神を操られているのは間違いなかった。
気組みを挫かれたヴァネッサは、文妖を書架の本に戻した。
「早ければ来週から電子化の作業に入りますので、よろしくお願いします。斎原図書委員長」
男は冷酷な表情を消し、柔らかな笑顔をみせて言った。
☆
「人と文妖は共存してきたんです。一方的に排除するというのは自然の摂理に反することです。まして本を焼くなんて絶対に許せません」
苦り切った顔の校長の前で、斎原は声を荒げている。
「斎原くん。君の意見ももっともなんだけどね。最近ちょっと、その、発生件数が多くてね。生徒の安全を守るのが校長としての務めなんだよ」
「ですから、最近の文妖は何者かが外部から持ち込んだものなんです」
「まあ、その証拠も無いわけだし。それにあの図書館の維持費用もバカにできないんだよ」
だから電子化して紙の本を一掃する。
「これはもう決定しているんだよ」
「文妖には危険がないと証明すればいいんですよね。それとも校長先生には、どうしても本を電子化して、その本をS・B・Hに渡さなければいけない理由がお有りなんですか」
「ま、まさか。私は利益供与なんて受けていないぞ。失礼な事を言うと、いくら斎原家のお嬢さんといえど許さないからね」
校長は目に見えて狼狽え始めた。
斎原はため息をついた。問うに落ちず、語るに落ちるとはこの事だ。
「では、わたしは個人的に調査させてもらいます。言っておきますが、この図書館も蔵書も、もとは斎原家のものでした。口を出す権利は十分あると思いますが?」
江戸時代の初め頃、藩士教育のために、斎原家がその邸宅の一部を蔵書ごと寄贈したものだ。それがこの東雲高校の由来である。
ぐぐぐ、と校長は唸った。
「す、好きなようにしたまえ」
ふん、と斎原は鼻を鳴らすと丁寧に一礼して校長室を出た。
☆
「こうなったら、最終兵器の投入もやむを得ないと思うんだよ、君依くん」
斎原は思い詰めた表情で僕に言った。
文妖に対する最終兵器。つまり……。
「折木戸さんを図書館に放り込む!」
折木戸しずく、それは僕の幼なじみだ。我が家の隣に住み、深夜、下着同然の姿で部屋の窓から入って来るような変態女だ。誤解の無いように言っておくと、陸上部の練習で疲れたと言っては、足腰を僕にマッサージさせに来るのである。
この女の特性として、まったく文妖の影響を受けないのだ。そしてこいつが触れた文妖は強制的に消滅させられてしまう。
まさに最終兵器の名にふさわしい。……のだが。
「ああ、折木戸はなぁ……」
「どうしたの。死んじゃった、折木戸さん?」
勝手に殺すな。それに、殺したって死ぬような女じゃない。
「あいつは、もう最終兵器たり得ないぞ。斎原」
あいつが文妖からの影響を受けないのには理由があった。あいつはまったく読書というものをしないのだ。
「まさか、折木戸さんは」
そのまさか、だった。
「あの馬鹿、こんな時に読書を始めやがった」
僕は、斎原が茫然とした顔を久しぶりに見た気がする。
「な、何を読んでいるの。あの折木戸さんが」
それは……、言っていいのかな。
「えーと。『半裸執事』シリーズだけど。斎原、知ってるか?」
うぐ、と斎原が言葉に詰まった。
「最新刊は『半裸執事はじめました』っていうんだ」
「し、知る訳ないでしょ。そんなBL小説なんか」
「いや誰もBLとは言っていないが」
「そうか。折木戸さんがそんな状態じゃ、戦線投入は無理みたいね」
斎原が強引に話を終わらせようとしている。
「ここは、わたし達だけでやるしかない」
僕とヴァネッサの顔を見渡し、斎原は宣言した。
「今週中に、図書館内の新型文妖を殲滅します」
ポケットの中で『ストームブリンガー』がぶるっと震えた。
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