5

 あの時以来、私のアキに対する不信感は、募るばかりだった。


 しかし、それ以上に私を打ちのめしたのは、「彼女」に裏切られたのではないか、という絶望感だった。


 人間に裏切られるのはまだいい。そもそも私も信用すらしていないのだから。だけど……「彼女」だけは、私は心から信頼していた。この五十年あまり、「彼女」は一度だって私を裏切ったことはなかったのだ。


 それなのに……


 お前まで、私を裏切るのか。


 もうお前の顔も見たくない。私ははっきりと「彼女」にそう告げた。


「わかりました。ですが、わたしはあなたを裏切ってはいません。信じてください」


 相変わらず、「彼女」は無表情に応えた。


「信じられるものか! だったらお前があの薬で私に何をしたのか、言ってみろよ!」


「それは言えません」


「だったら、私の前から消えてくれ」


「わかりました」


---


 それ以来、同じ家に住んでいるにもかかわらず、「彼女」は本当に私と顔を合わせなくなった。もちろん必要最小限の世話は焼くのだが。


 気落ちしたせいだろうか、私は体調が優れなくなっていった。ベッドから起き上がるのが困難になり、寝たきりの生活が続いた。「彼女」はそれでも私の世話をしてくれた。


 ひょっとして……あの薬を飲んでいないためか?


 私は「彼女」に、またあの薬を飲ませて欲しい、と頼んだ。もちろんそれまでのことは全て謝罪した上での話だ。そして「彼女」はその通りにしてくれた。


 だが……


 私の体調は戻らなかった。どんどん悪くなっているのが自分でも分かった。そして……


 とうとう、私は自分の死期を悟った。


 しかし、考えてみれば、果たしてこの世に未練があるか、というと、特にないような気がする。コレクションの本はめぼしい物は全部読み終えた。家族は皆とっくの昔に亡くなっている。かつての教え子たちももう、私のことなど忘れているだろう。社会との接点を絶って五十年以上。私は、既に社会的には死んだも同然の存在だったのだ。


 人は死んでも、その人のことを覚えている人がいる限り、その人はまだこの世に存在し続ける、という話がある。だが、私のことを覚えている人間など、おそらくいない。だから私が死ねば、それはそのまま完全にこの世から消え去ることになる。


 でも、それも悪くない。私みたいなひねくれ者のことを覚えている人間なんか、いない方がいい。


「……そんな悲しいこと、言わないでください。わたしはあなたのことを、ずっと覚えていますから……」


 ……え?


 私は耳を疑った。それはアキの声だった。なぜか感情がこもったような、声。


 目を開ける。もはやよく見えない。だが、目の前に「彼女」の顔があった。そこには泣いているような表情が浮かんでいた。


 そして。


 水滴のようなものが、私の顔に落ちる。


 まさか……アキが泣いている? 表情機能は無効にしたはずなのに……そんな、バカな……


 ああ……


 私は納得する。これは、死にゆく私の脳が見せている、幻覚だ。そうでなければ、こんなことがあるはずがない。


 厭人家を気取っていたくせに、結局のところは私も愛情を求めていたのだ。これが私の本音なんだ。なんてことだ。最後の最後でそれに気づくなんて。私の目にも涙がにじむ。


 でも、幻覚でもいい。こんな風に「妻」に看取ってもらえて、こんな気持ちで死んでいけるなら、悪くない。


 思えば、随分辛く当たったこともあった。だけど……「彼女」は常に私のそばにいて、私を支えてくれた。多分私は「彼女」を心から愛していたのだろう。最後にそれを「彼女」に伝えたい。


 だが。


「アキ、ありがとう……」


 かすれ声でそれだけを言うのが、私にはやっとだった。次の瞬間、私の意識は途切れた。


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