第40話

 ジンジンから金属バットを受け取り、右のバッターボックスに立つ。


「久しぶりだな、久吾。お前と真剣勝負するのは」

「まぁ、そうですね。でも、ホントに真剣勝負でいいんですね? 本気で投げていいんですね?」

「当たり前だ。全力で来い。お前の全てをぶつけてこい。だが、今のお前ではまだ無理だ。まだまだあんときの、昔のお前の顔になってない」


 結局、久吾の気持ちを動かすには俺が本気になるしかないのだ。

 だってあの頃のこいつは俺の思いつきの馬鹿げた行動に、いつだって心の底から笑いながら付き合ってくれたのだから。そして何より、こいつは元々俺に憧れて野球を始めたのだから。


「久吾、お前は甲子園行くために野球始めたのかよ!? プロ行くために野球やってんのかよ!?」

「違う……」

「そうだろ、お前は俺に憧れて野球を始めて、ただ楽しいから野球をやってんだろ!」

「違います! 全然違います!」

「えー……」


 全然違った。なぜ俺はこんなにもかっこつけてしまったのだろうか。


「ていうかむしろ、俺のことを追いかけてたのはお兄のほうだったと思いますよ」

「……まぁ、確かにそうだったな」


 お前はすぐに俺を追い抜いていったもんな。俺にとって最大のライバルだった。最高の目標だった。

 だからこそやっぱりあのときみたいに野球をしてほしいんだよ、お前には。


「……みんなへのお返しに、オレも面白い冗談を言ってあげますね」


 久吾はマウンド上で不敵な笑みを浮かべ、


「オレはただ、野球をするお兄を華乃がキラキラとした目で見ていたから、自分のことも見てもらいたかっただけです! 華乃にかっこいいと言ってもらえたから、トルネードなんてめちゃくちゃコントールも付けにくいような投げ方続けてただけです!」


 あーあ、久吾、バカだな。そういうのは冗談だとか演技だとかいう前置きすると却ってマジっぽくなっちまうんだぞ? 大人の男はもっと俺みたいにさり気なくスマートにやんだよ。

 まぁ、そういうとこ、昔のお前みたいで好きだけどな。


「はぁ……」華乃は呆れたようにため息をつき、「あんたが優勝。あんたが一番面白いこと言ったよ」

「でしょ。まぁそこで見ててくださいよ。あなたの大好きなお兄をオレがボコボコにするとこ」

「だから全然大好きじゃないからっ!」


 にかっと破顔して、久吾が右足をピッチャーズプレートに置く。


「行きますよ、お兄! もちろんストレート勝負です!」

「おう! かかってこいよ! 俺は今でもバッセンで150キロを打ちまくってんだぞ! お前の140キロなんて雲の向こうまでふっ飛ばしてやるよ!」

「頑張れ久ちゃん! いい顔しているぞ!」「バッターびびってるよー!」


 守備についていたヤエちゃんとジンジンが声を張り上げる。


「お兄……」「…………」


 リコと華乃は三塁側のベンチ前で固唾を呑んで俺たちを見守っている。


 ああ、懐かしいな、この感じ。


 俺も昔からの、何百万回も素振りをして染みつけた構えで、久吾の右手だけに集中する。


 ずっとずっと野球をやりたかった。正直に言えば未練はある。めちゃくちゃある。


 俺が入るはずだった野球部の俺の学年は、最後の夏、県予選の決勝まで勝ち残った。しかし決勝では、何度もチャンスを作りながらあと一本が出ず、一点差で敗退した。

 もし俺がいたら、このバットでヒットを打って、ホームランを打って、甲子園に行けてたんじゃないか? そんな思いを胸に隠し持っていなかったと言えば、それは大嘘になってしまう。

 だって、俺は世界中の誰よりもバットを振ってきたんだ。両手の皮が何度ズリ剥けようと一日も欠かさず努力し続けたんだ。


 だからこそ、そんな俺をずっと応援し続けてくれたリコへの嫉妬心が許せねぇんだ。このモヤモヤとした嫉みをぶち殺してぇんだ。


 悪ぃな、久吾。お前との勝負、利用させてもらうぜ。お前の全力のストレートを打ち返して、俺の夢への未練に終止符を打たせてもらうぞ。俺の努力は無駄じゃなかったと、ここで証明してやる!


 ギラギラとした目で久吾が投球モーションに入る。大きく振りかぶった後、左足を高々と上げ、上体をこれでもかと捻り、自信に満ちあふれた表情で足を踏み出し――勢いよく腕を振り切った!

 指先を離れたボールに対して、俺は構えたバットを――


「――は?」


 ――静まり返った校庭に金属音だけが響き渡る――俺の手から離れ落ちたバットが、地面とぶつかり合った音だ。


「どうしました、お兄。――ど真ん中ですよ?」


 バックネットに直撃した硬球が、跳ね返って手元まで転がってきた。いつの間にか尻餅をついていた、俺の右手元に。


 ――見えなかった。


「お兄っ! 大丈夫っ!?」


 駆け寄ってきてくれたリコが、心配そうに俺の顔を覗き込んでくる。


「…………ジンジン……今の……何キロくらい出てた……?」


 目を見開いて固まっていたジンジンに問いかける。


「たぶん……140後半は……少なくとも145は……すごい……凄いよ久ちゃん! これなら……っ、もっと練習してトルネードの精度を上げていけばドラフトも……っ!」


 嘘だ。140後半? 嘘つけ、バッセンの150なんかとは比べものにならない速さだったぞ?

 そうか……打者からしたら、今のこいつの球は球速表示以上のとんでもない剛速球に見えちまうんだ……!


「どうですか、華乃! これでもオレのピッチングなんて見る価値ないですか!? ハラハラしないですか!?」

「……しないし、別に。ばーかっ、なにキラキラした目してんのっ、子どもんときのまんまじゃんっ」


 ホントだよ、野球始めたばかりのガキみてーな顔しやがって。いや、表情だけじゃねーな、きっと残された伸びしろもガキの頃のまんまだ。

 なぁ、誰だよこいつに将来性ないなんて言ったやつ。どこ見てんだよ、プロのスカウトどもは。そんで俺たちは、お前自身は。お前になんか、将来性しかねぇじゃねーか。

 こんなやつが、プロに行けねぇわけねーだろ。


 そして俺は、そんなこいつのストレートを打つどころか、目で追うこともできなかった。バットを振ることすらかなわなかった。


「ふ……っ、ふふふ、ふはっ、フハハハハっ!」


 あーあ、なんだよ、そういうことかよ。


 初めから俺に才能なんてなかったんじゃねーか。甲子園なんて、プロなんて、元から全然無理だったんじゃねーか。

 本当に才能があって、何度挫折しても立ち上がって努力し続けてきて、そして野球を心から楽しんでるようなやつに、勝ち目なんてなかったんだ。


 ――野球やっててよかった。


 すげぇ清々しい気分だ。これまでずっと胸の奥に燻ってたもんが全部吹き飛んだ。きっと、甲子園のスタンドにホームラン叩き込むよりもずっとずっと、今のほうが気持ちいい。

 だって、こいつらと夢を追いかけてた十年間は本当に楽しかったから。やっと素直にそれを認められるようになった気がするから。


「お兄……」

「リコ、ありがとな。ずっと俺の練習に付き合ってくれて。めっっっちゃ! 楽しかった!」

「――――」


 リコはなぜかハッとしたように目を見開き――憑きものが落ちたかのようなぽかーんとした顔をして、地面にぺたんと座り込んでしまった。

 ん? どうしたんだ?


「は? なーに勝手に満足してんですか!? まだワンストライクですよ、お兄! 勝負はこれからです! 次こそちゃんとスイングしてくださいね!? あーっ、疲れるーっ! ほんとアホですね、こんなバカな投げ方し続けなきゃいけないなんて!」


 クソ生意気でクソ可愛い笑顔で、久吾がマウンドから叫んでくる。


「ほんっとお前ってやつは……いいぜ、もちろんだ! 何度だって豪快に空振りしてやるよ!」





 あー……めっちゃ疲れた……。


 グラウンドに仰向けで大の字になり、荒れた呼吸を整える。

 久々にフルスイングしまくったせいで、もう立ち上がるのも辛い。

 明日は筋肉痛だな……まぁ別に退職届出してくるだけだしいっか。明日は求人探しに集中して、明後日から本格的に就活に動きだそう。


「ああぁぁ……くそっ、何でホントこう僕ばかり損するんだ……」

「自業自得だろう。大体こんな夜にそんな狭量なことを言うな」


 ベンチで頭を抱えるジンジンにヤエちゃんが投げやりに言う。

 車のバッテリーが上がってしまったのだ。ホントかわいそう……まぁでも、もうヘッドライトなんていらねーけどな。

 あんなに分厚かった雲も消え去り、夜空にはこの村らしい綺麗な星が瞬いていた。

 十年前、ここに忍び込んで球場作りの作業を終えた後も、みんなでこうやって星を眺めてたよな。


「なぁ、リコ。お前も寝っ転がってみろよ。ほら、俺の隣に――あれ?」


 いつの間にかリコの姿が見えなくなっていた。

 悲鳴を上げる身体を何とか起こし、四人が座るベンチへと向かう。


「リコっちゃんならとっくに蔵帰りましたよ」

「えー……」


 ひでぇな、あいつ。情緒ってもんがねーのか……。


「そんなんでドラマの演技なんてできんのかよ……。せっかくフォロワーだって十万超えしたってのにファンが離れるぞ……ん?」


 数分前にリコが妙なツイートを投稿していた。

 今からライブ配信アプリで生放送? ファンのみんなに言いたいことがある?

 何だこれ……?

 リプ欄には、『絶対見に行く』という多数の声。そして、未だに俺を叩く声の勢いも全く衰えていない。


 あ――おい、まさか――。


「おい、みんな! これ見たか!? あいつ、まさか」

「見たも何も全部直接オレたちに説明していきましたよ。もちろんオレたちもオーケーしました。てかそんなのリコっちゃんがやりたいなら勝手にやればいいですし」

「おま……っ! 何でだよ!? ヤエちゃんとジンジンは!? 何で止めねーんだよ!?」

「いいじゃないか、リコちゃんらしくて。フフ、本当に滅茶苦茶だよな、昔から君達は」

「まぁ、別に僕達には大して影響もないしね」


 何だよ……っ、何でだよ、みんな……っ!


「華乃!」

「……あたしは、まだあいつのこと許してない。だから止めなかった。これを見て、どうするのか決めるから」

「なん……っだよ、くそっ!」


 四人をおいて、俺は走り出す。


 ちくしょうっ、ふざけんなっ、何考えてんだよあいつ……! ぜってーさせねぇからな、そんなこと!

 乱れる呼吸も体の痛みも無視して走り続ける。ここで死んでもいいから、動け俺の足! 走れ! 走れ!!

 大丈夫だ、配信が始まっちまっても、決定的な言葉が出る前に止めに入ればまだ誤魔化せる! 走れ!! とにかく一秒でも早くあいつの元に!


「リコ……っ!」


 リコ……リコ、リコ、リコ! お前のことが大事なんだよ、世界で一番! 俺のことなんて全部お前にやるから、だから早まるな!


「丈……? 何だ、あんた帰って、」

「うるせぇ! 邪魔すんな! リコが待ってんだよ!」


 庭で声をかけてきた母さんを振り切り、蔵まで一気に突っ走る。

 古びた入り口に飛び込み、きしむ階段を駆け上がる。リコの声が聞こえてくる。あの扉の向こうにリコがいる。

 間に合え……っ、間に合え!!

 俺は扉を跳ね開け、部屋の中へダイブし、


「リコっ!!」

「だから、この番組は全て、やらせでした」


 ――おい……おい、おい、おい…………嘘だろ……?

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