第39話
「いったい何のつもりですか? LINEで言われたとおり、道具一式持ってきましたけど……」
久吾が戸惑いながらヤエちゃんとジンジンに言う。
二人が出て行ってから十五分間、蔵で無言の時を過ごし、これまた無言で十五分かけて、この校庭まで俺たち四人は歩いてきた。
「何言ってるの。昔から僕達が外で集まったらすることなんて一つでしょ」
「うむ。その通りだ。よし、野球するぞ皆!」
「「「「は……?」」」」
なぜか爽やかな汗をかきながら満面の笑みで言うジンジンとヤエちゃん。
どういうことだよ……と思ったが、その足下の綺麗に整備されたマウンドを見て、二人の意図するところを全員で悟る。
ああ、そういうことか……二人なりに俺たちのことを考えてくれたんだな……本当に昔から、いつもいつも年上の二人には甘えてばかりだ。でも、
「すまん、二人とも。そういう気分にはなれねぇよ」
その気遣いに乗ることが今の俺たちにはとてもできない。
本当にすまん。本当にありがとう、今まで。もう二人に迷惑かけちまうこともねーと思うから……。
リコは俯いたまま、華乃も懐かしい校舎を眺めるばかりで、何も答えようとはしない。
「わかり……ました。オレはやります。これを最後にしたいと思います。最後に野球をする相手は、最初に野球をしてくれた皆さんがいいんです。それでオレは、野球を辞めようと思います。今日で、引退すると決めました」
「久吾……」
もはや、止めることもできない。久吾の人生だ。これ以上、辛い思いをさせてまで野球を続けさせることが久吾のためになるとは思えない。
「……そっか。わかった。今までごめんね久吾。あんたはよく頑張ったよ。お疲れさま。胸張って生きてきなよ?」
久吾を一瞥することもなく華乃がポツリと言う。
そのごめんねが、お疲れさまが、さよならにしか聞こえなくて、俺までもがきつくきつく胸を締めつけられてしまう。
ああ、本当に本当にここまでなんだな。全部、終わっちまうんだな。
「だってさ、お兄君。久ちゃんがここまで言うんだから、君も付き合ってくれるんだよね? まぁ明日も仕事あるんだろうし、君の大好きなバッティングだけでいいよ。久ちゃんが投げて、守備は僕と綾恵でやるから。リコちゃんと華乃ちゃんも気が向いたら参加してね」
「……まぁ、そういうことならしょうがねーよな」
どうせ明日は会社行って退職届出してくるだけだしな。
久吾がマウンドに上がり、ジンジンとキャッチボールをして肩を作り始める。
「おいおい、少し待てよ久ちゃん。そんなつまらなそうな顔で野球をするつもりか? 十年前の私達は野球を楽しむためにこの球場を作ったのだろう?」
「……やっぱりそういうつもりでしたか。オレとお兄を本気でぶつかり合わせて野球の楽しさを思い出させるって。すみません、無理ですよ。もう、野球で笑うことなんてできません。どうしても笑わせたいっていうなら、何か面白いことでも言ってくださいよ」
「そうか。そうだな、じゃあ――五年前、ジンジンが私との初体験の際、散々格好つけてリードしてくれると言った挙げ句、私と裸で抱き合っただけで果ててしまって本気で落ち込んでいた話でもするか」
「ちょっと綾恵。今全部言っちゃったよね君?」
「「「「え」」」」
まるで何でもないことのようにヤエちゃんの口から出た言葉に、俺も久吾もリコも華乃も固まってしまう。
いま、何て……五年前? 初体験?
「ああ、すまない。皆には黙っていたのだが、私とジンジンは中一の三月から高一の三月まで付き合っていてな。まさに五年前、あの事件の最中に初体験を済ましていて、二人で睦み合っていたかったがために、皆からのSOSを無視してしまったんだ。本当にすまなかった」
「ごめんね、皆。綾恵は動けるような身体じゃなかったし、一番悪いのは僕なんだ。今まで隠していたことも含めて、本当にごめん」
二人が揃って深々と頭を下げてくる。
マジか……マジかよ……全く気づかなかったぞ、そんなこと……。何で、何で……っ。
頭を下げたまま微かに震えているヤエちゃんとジンジン。そんな二人をまじまじと見つめることしかできない俺たち四人。
「本当にすまなかった……頼む、許してくれ! 私はっ、君達との関係を終わらせたくないっ!」
「おこがましいのは分かってる。でも、取り返しがつかない、なんて思いたくないんだ。君達とまだずっと一緒にいさせてくれないかな……?」
いや……いやいやいやいやいやいや、
「許すも許さねぇもねーよ! 何でそんなことで俺たちが怒るんだよ!? え? 嘘、もしかして二人ともそんなことで五年間も悩んでたのか……? おいおいおい、むしろそこに気づいてやれなかったことが申し訳ねーよ……いやていうかそもそも三年間も付き合ってたって何!? そこを隠されてたことが一番ショックなんだが!?」
「「え」」
二人が目を丸くして顔を上げる。
「本当に怒っていないのか……? 他の三人は……」
「あのね、ヤエちゃん……そんな状況でわたし達に呼び出されたって駆け付けられるわけがないでしょう。私が同じ立場でも絶対無視していたわよ。大事な初体験の余韻をじっくり味わっていたいもの……」
「だいたいSOSって、リコも久吾もどうせ具体的な内容なんて送ってなかったんでしょ? それまで散々くだらないことで二人を呼び出したりしてたんだから、またたいしたことじゃないって思われるのは当たり前でしょ。てか三年間付き合ってたってなに。そこをちゃんと説明してほしいんだけど」
「いやいやいややめてください説明しないでください二人のそういう話聞くのとかキツいです……えー……いや……えー……ダメですオレ、あまりの衝撃にちょっと……地球が回ってることに気づいたときの人たちってたぶんこんな感じだったんですね……」
よろよろとマウンド上で座り込んでしまう久吾。その気持ちもわかる。
冷静に考えれば、同級生の男女が中高時代に付き合っていただけという、傍から見たら他愛もない話でしかないのだろう。それでも俺たちにとっては、本当にこれまでの常識が覆ったような衝撃のカミングアウトだったのである。
そうか、俺たちって何でも知ってるつもりになってたけど、近すぎるせいで逆に気づけなかったことがあるんだな……。
「まさかこんなにあっさりと許してもらえるとはな……。いやしかしそう驚かれてしまうのは困るのだが。久ちゃんには笑ってもらわないと」
「そうだよ、久ちゃん。投球フォームを昔に戻したのは間違ってないと思うんだ。でも気持ちが戻っていないから、ちぐはぐになってしまってるんじゃないかな」
「……そんなに甘い話じゃないですよ……もちろん二人がそう言ってくれるなら、オレだって最後にもう一度、ダメ元で試してみたい気持ちはあります。でも、どうやったってこんな状況で、笑える気なんてしません」
ヤエちゃんに手を取ってもらい立ち上がる久吾。俺・リコ・華乃の顔を見回した後、自信なさげにまた俯いてしまう。
「そうだな、じゃあ……ジンジンが乳首舐められるの好きな話でもするか?」
「やーめーろーよー! 何で僕ばかりいつも無駄に損するの!? 大体それ五年前の話でしょ! 綾恵が僕の何を知ってるっていうのさ!?」
「え……? じゃあ今は違うのかい……? 私はこの五年間毎晩ベッドで君の乳首を責めるための脳内シミュレーションを繰り返していたのだぞ……?」
「きもいっ! いや好きだけど! 今も乳首責められるの!」
「いやちょっ、やめっ、フフ、やめてください二人とも……フッ、普通に二人ともキモいですから。なに美男美女で乳首漫才繰り広げてんですか、ふっ、ふふ」
笑いを漏らす久吾だが、いや、そういうことじゃないだろう。こいつが本気で野球を楽しめるようになるには結局……もちろんヤエちゃんもジンジンもそれがわかった上でやってるんだろうが……。
「私の胸がアレな話も聞くかい?」
「いやそれはちょっとマジでちょっと聞きたくないです」
「何やってんの綾恵!? また久ちゃん真顔に戻っちゃっただろ!」
自分から胸の話まで持ち出して……。
少なくともこうやってヤエちゃんとジンジンはもがいている。俺とは違って、最後まで足掻こうとしている。
「……華乃。あれ、やってあげて。わたしのやつ」
「は? ……何であたしが」
俺の隣でリコがおもむろに提案する。
「いいじゃない。最後ぐらい、久吾のために何かしてあげられることがあるなら。わたし達が終わるからって、何も久吾の人生まで道連れにすることはないでしょう」
「はぁ……わかったわかった。別に、何の意味もないと思うけど」
渋々ながらも華乃はマウンドの方へ歩いて行き、
「はぁ……いきまーす、『マネージャーさんからの電話に出たときのリコ』。あっ、あっ、もっももも、もしもしっ、こちらリコでございますっ、お久しっ、ごぶたさっ、ごたぶさっ、あれ? ごとぅばさっ、ごとっ、ごぶっ……ごっ、ごぶさたっ! ご無沙汰してまちゅっ! やったっ、言えたっ! ねぇお兄わたし言えたっ! 褒めてっ! あっ、もっ、もももしもしっ、え? い、いやっ、間違いじゃないですよっ、合ってますっ、えびっ、えびぬっ、海老沼でございますっ、は? 呪いの電話じゃないですっ、幽霊じゃないっ、リコっ、あなたから掛けてきたんじゃないですかっ、半年ぶりの連絡っ、あっ、やっ、きっききき切らないでっ……」
「アハハハハっ! あなたいったいっ、どんだけ練習したんですか……っ、ふっ、ふははっ、目の動きまでコピーしてるじゃないですか……っ、リコっちゃんのこと観察しすぎですっ、ふはっ、アハハハっ!」
腹を抱えて爆笑する久吾。
ああ、何かこんな久吾を見るのは久しぶりな気がするな。しかも、野球と関係ないこととはいえ、マウンドの上でだ。
何か……涙が込み上げてきてしまう。
あとはもう、俺次第なのかもしれない。でも、一歩が踏み出せない。だって、どうせやったところでダメなんだ。
結局俺は何一つ成し遂げたことがない。
華乃を甲子園に連れて行くことができなかった。リコと付き合うという約束を果たせなかった。そしてまたリコに悲しい思いをさせてしまっている。
こんな俺にできることなんてあんのか?
それに何より、こいつが、リコがもう、諦めてしまっているのだ。
「ヤエちゃんとジンジン、お似合いね。あの二人はきっとこれからも上手くやってくれるわ。お互い正面から向き合って、いつかまた恋人同士になれるわよきっと」
「そうだな……。俺たちは……」
どうなるんだろうなとは、怖くて継げなかった。でも、伝わってしまっただろう。
そもそも俺に、こいつといっしょにいる資格なんてあったのだろうか。
自分の夢が叶わなかったからってこいつを応援できずに妬んでばかりのような俺なんかが、こいつといられたのはたまたま幼いころに出会ったからという、ただそれだけの話なんじゃねーのか?
そんなものに本当に意味があんのか?
「……わたし達は、そうね……分からない……ふふ、本当に初対面になれたら良かったのにね」
「――――」
「大人になってから出会えてたのならこんなことにはならなかった。何であんなに近いところであんなに近い日に生まれてしまったんでしょうね。本当にメゾテラで出会えていたのなら、きっとわたし達、いい恋人になれていたはずよ? だって、二人の相性は抜群なんだもの。なのに、生まれた時からずっとずっと一緒にいたせいで、こんなに拗れてしまって……」
リコはそう言って自嘲めいた微笑みを浮かべる。
リコらしくもないこんな顔を何度も何度もさせてしまって、もう俺がこいつに言ってやれることといえば――、
「ふざけんなよ」
「え」
リコの両肩を掴み、強引に引き寄せる。額を突き合わせるように顔を近づけ、
「初対面になれたらよかった? ふざけんな。相性は抜群? そんなわけねーだろ。俺とお前の相性なんて最悪だ。大人になってから出会ってたんなら、そもそもこんなに関わってもいねーよ。たぶん出会ってそれっきりだ。二度と会わなかった」
「何、で……っ、そんなこと……っ」
「最悪でもずっといっしょにいるしかねーんだよ、ずっといっしょにいちまったんだから。違ぇのかよ、お前は。しょうがねぇだろ、ガキのころに出会っちまったんだから。何の得なんかなくても、どんなに面倒くせぇ関係になっても、いっしょにいなきゃいけねぇんだよ、いてぇんだよ、俺は。どんなにぐちゃぐちゃに拗れたって、やり直そうなんて絶対思わねー。お前とのこれからと同じくらい、お前とのこれまでも大事なんだよ。大事っていうかしょうがねーんだよ、もうそういう身体にされちまってんだから」
「――――」
論理も理屈も何もないような放言をただ勢いのままに、ただ感じたままに言い聞かせる。
めちゃくちゃかもしれない。デタラメかもしれない。でも俺たちはずっとこうして、出たとこ勝負でやってきた。
「いい加減ヨレヨレだな」
俺が引っ張ったことでずり落ちてしまったはんてんを着せ直してやる。
「今度新しいの買ってやるよ。ほら、何かホワイトデーとかあるだろ。まぁ別にバレンタインに何ももらってねーけど」
ホントはいろんなもんもらってんだけどな。
リコはその赤い頬を隠すように、はんてんの襟をかき合わせ、俯き加減に、
「いいの。これがいいの。ずっと着てきたんだもの。大丈夫、ボロボロになっても、お裁縫は得意だから」
「そうか」
確かに新しいものより、モコモコの服より、そのヨレヨレのはんてんのほうが似合うと思う。お前らしいしな。
俺はリコの頭を手のひらでポンとして、
「見とけ。お前にガキのころから何千回もデッドボールぶつけられながら鍛えた、俺のバッティングをな」
精一杯かっこつけた声で言ってやった。
「うん……」
あ、くそ、笑うと思ったのに普通に潤んだ目で見上げてきやがった。なんだよ、キスする言い訳がなくなっちゃっただろ。まぁいいや、しとこ。
俺は何の意味もなくリコにキスをしてから、バッターボックスへと向かう。
「なにやってんの、あんたら。話はなにも済んでないんだからね。何の問題も解決してないし、あたしはリコのことを絶対に許さない。みんなとは、もう終わり」
マウンドから戻ってくる華乃がすれ違いざまにそう呟く。
「まぁ待てよ。お前の大好きなお兄ちゃんが生き生きと野球やってるとこを見てってくれ。そうすりゃリコが俺を不幸にしただなんて思えねーはずだ」
「べ、別に大好きじゃないしっ! なに言ってんの、このシスコンっ! 童貞っ!」
やっぱりそうやって俺を罵ってくれる華乃のほうがいいな。実際俺はシスコンで童貞だし。
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