第35話

「そんな……ねぇ、何とかなるのよね? 今までだって隠し通してきたのでしょう? 今回だって会社にバレない方法ぐらい……」

「いやーもう手遅れだろ。既に会社に問い合わせバンバン来てると思うぞ。俺はもう観念してる。明日にでもちゃんと経歴詐称のことも含めて説明してくるよ」

「そんなことしたらお兄の昇進の話はどうなるのよ!? せっかく上手くいっていたというのに……っ」

「まぁ全部なくなるだろうな。てか最悪懲戒解雇だろ。そうじゃなくても会社にはもういられねーよ。社名背負って有名人になった末にこんなことになっちまってんだから。空気的に無理だ。居場所なんてねー。形はどうあれ辞めるしかねーよ。ま、一から十まで全部俺が自分で蒔いた種だしな」


 当たり前だがお前が気にする必要なんて一ミリもねーからな?


「なんで……なんでまたお兄の夢がこうなって……っ」

「ああ、華乃。心配すんな。次の仕事ぐらいすぐ見つけっからよ。十六から肉体労働のバイトならいろいろやってきたし、体力だけは自信ある。仕事選ばなきゃお前の学費や生活費稼ぐくらい余裕だろ」

「そんな話してないっ! なんでお兄が不幸にならなきゃいけないのっ!? 全部リコのせいじゃん!」

「おい、だからリコは何も悪くないってずっと言ってんだろ。リコは一番の被害者で、あのプロデューサーだってもちろん被害者で、悪いのは俺だけなんだから。その報いを受けてるだけだ。別にたいしたことなんてねー」

「何でいっつもそんな風に……我慢しなくていいんだよ? あたしは、あたしだけは、お兄の辛い気持ちわかってあげれるんだから……っ」

「いやいやいや、ちょ、やめろ」


 華乃が優しく俺を抱きしめるようにしがみついてくる。引き離そうとも思ったが、その大きな涙袋に水滴がたまっているのが見えて、どうにもできなくなってしまう。


「お兄、わたしも何とかしてみるから……心配しないで、」

「何とかってなに!? どうせ何もできないくせに軽々しく言わないでよ! あんたなんかがお兄に何をしてあげれるっていうの!?」

「……っ、そ、それは、その……っ」


 俺の手を握ってこようとするリコを、華乃が吠えるように拒絶する。


「昔からずっとずっとずっとあんたはお兄に守ってもらうだけっ! 何も返さないっ! ううん、違うっ、災厄ばかりを返すっ! あんたと関わってるとお兄が不幸になるっ! あんたのくだらない夢のために何度お兄の夢を壊したら気が済むの!?」

「――ご、ごめんなさ、」

「やめろ。華乃も。もうやめろ」


 虚ろな目で項垂れてしまいそうになるリコの顔を抱き寄せて、言葉の続きを制する。絶対にお前に謝らせたりなんてさせねぇ。


「またそうやって……っ! お願いだからもう関わらないでよお兄に! 近づかないでよあたしたちにっ!! あたしたちの幸せな世界に異物が入ってこないでっ!!」

「落ち着け華乃。お前おかしいぞ」

「お兄は黙ってて! てかそもそもとっくに、五年前にあんたとの縁なんて切れてるはずでしょ! あんたはうちの敷地に足を踏み入れちゃいけないはずだった! なに当たり前のようにこの部屋に入ってきてんの!?」

「――――ご、ごめ、でも、わたし……っ」


 なぁマジで。何でそんな話まで蒸し返すんだよ。




 家族ぐるみで、いや先祖ぐるみで深い付き合いを続けてきたうちとリコの家の関係はあの日を境に壊れた。

 俺が高校を退学になったことに関して、うちの家族はリコを責めたのだ。リコの家族は当然リコを庇ったし、バカな行いで事態を大きくした俺のことを非難した。


 あんなにも良かった両家の仲が、子どものこと一つであれほど簡単に崩れ去るなんて、あのころの俺たちは思いもしなかった。


 それでも、幼なじみ同士で特に仲の良かった俺の母親とリコの父親は、互いの家のためにこの件を手打ちにしようとした。

 親バカが故にそれに納得がいかなかった親父は母さんと争った末、家を出て行った。


 その後、離婚が成立し、母さんと俺と華乃の苗字が昔からこの家が受け継いできた鈴木になっても、両家の関係は決して元には戻らなかった。




「あんたさぁ、こんなにうちから嫌われてんのに何年も何年もここに入り浸って、なにが目的なの? どうせお兄とエロいことでもしてんでしょ」

「おい、そろそろ」


 怯えるリコと鼻先同士がくっつくんじゃないかと思うほどに顔を近づけ、獲物を追い詰める猫のように開いた瞳孔で、華乃が続ける。


「あんたらアホだからさ、どうせ勢いだけでそういうことすんでしょ、何の準備もなしに。ねぇ、赤ちゃんでも出来ちゃったらどうすんの? 最悪な関係の家同士で子ども作って、お兄の子まで不幸にすんの? ホントはとっくにわかってんでしょ? あんたがお兄と結ばれるのは、あたしがお兄と結ばれること以上のタブーだって」

「ホント何言ってんだお前」


 華乃の肩を掴んでやめさせようとするが、華乃は俺の手を払い、凄みの中にもどこか哀愁を感じさせるような声音で、


「いいかげん気づいて――自分が、世界一お兄と恋愛することがありえない人間だってこと」

「おい! いい加減にすんのはお前だ。それ以上リコのこと責めんならお前を――」

「なに? あたしのことも殴るの?」


 強引に振り向かせた華乃のそんな言葉に胸を抉られて、目の前が真っ白になってしまう。


「なん……っ、で、そんなこと……っ、そんなわけ、ねーだろ……っ」

「ごめん。そんなつもりじゃなかった。……ごめんね、お兄……」


 俺も華乃も力なくか細い声を絞り出すことしかできない。リコももう完全に項垂れてしまっている。


 何でこんなことになっちまったんだよ。別に俺が会社を辞めればそれで済む話なのに。


「……結局、元はと言えば悪いのはオレじゃないですか。五年前のあのとき、オレが考えもなしにリコっちゃんの背中を押したから……」

「だから久吾は関係ないって言ってるでしょ。あんたが気にするようなことじゃない。悪いのは全部リコ」


 おもむろに語り出した久吾に華乃が言う。久吾を庇うためというより、周知の事実を述べているだけとでもいうような淡々とした物言い。


「華乃、もうやめてください、リコっちゃんを責めるのは。何度も言ってきたじゃないですか、元々リコっちゃんは迷ってたんです、アイドルオーディションなんて。それをただの興味本位で、面白そうだからとかいうアホな理由で、勢いに任せて後先も考えずに参加させたのは全部オレです」

「いいえ、久吾、それは違うわ。華乃の言う通り、悪いのは全てわたしよ。あなたが責任を感じる必要なんて全くないわ。あの頃のあなたはいつもわたしとお兄の思いつきの行動に付き合ってくれた。いつもキラキラした目でわたし達に付いてきてくれた。それが嬉しかったの。楽しかったの。嬉し過ぎて楽し過ぎて、勘違いしてしまったのよね。うん、勝手に勘違いしてしまったのはわたし。何も知らない弟みたいな子に王様みたいに持ち上げてもらって、勝手に舞い上がって勝手に失敗したのは全部わたし」


 あの日以来、久吾は変わってしまった。いつだって俺とリコの悪戯に悪ノリしてきてくれた久吾は、事件を境に慎重で堅実な男になった。

 表面上は変わらず俺たちに付いてきてくれているように見えるが、実際は危険な行為にストップをかけるため、見張ってくれているだけだ。

 大人になっただけだと言えるのかもしれない。喜ばしい成長なのかもしれない。

 でも、あの心から楽しそうに、ただただ自分がかっこいいと思うフォームで、自分のやりたいようにのびのびとボールを投げていた野球少年の姿は、あの日、マウンド上から消え去ってしまった。


「ほら、リコもそう言ってんじゃん。悪いのは全部リコ。久吾、あんたがやるべきことは一つ。野球に集中して。余計なこと考えんな。責任感じるっていうなら、そこじゃなくて甲子園行けなかったことでしょ」


 華乃がもう一度ヒートアップしてきてしまう。今度は久吾の胸ぐらを掴んで、その語気を強めていく。


「あんたはもう、一回失敗してるんだ。お兄を甲子園に連れて行けなかった。だったらせめてプロに行きなよ! リコが潰したお兄の夢を、お兄が叶えられるはずだった夢を、あんたが実現させなよ!」

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