第16話

 何でこんなことになったんだ……。

 リコに張られた頬をさすりながら、ため息をつく。ほんの一週間前にはこのベッドでリコと眠っていたというのに。


「信じられない……っ、最っ低! 信じられない!」と憤慨しながらバルコニーから去って行ったリコを呆然と見送った俺は、ベッドでふて寝を決め込んでいた。

 真っ暗な男子部屋で、月明かりだけが俺の惨めな姿を照らし出す。


 リコもまさか俺が本当に華乃とそんなことをしてしまったとは思っていないだろうが……まぁちゃんと誤解を解きに行ったほうがいいよな。

 と考えていると、コンコンとドアをノックされる。


 リコのほうから来てくれた……っ! さすが俺のことをよく――、


「お待たせお兄♪ えっち……するでしょ?」


 しねーよ。しねーんだよ。あと「えっち」とか言うな。実の妹の口からそういう単語聞きたくねーんだよ、せめてカタカナで言え。


 大きく開いた胸元にレースがあしらわれたキャミソール、太ももの九割を露出させたショートパンツ。しみ一つない肌をほのかに上気させ、


「えいっ」


 金髪をさらっと揺らしながら、風呂上がりの華乃がベッドに飛び込んできた。てか俺に抱きついてきた。

 おい、おい、おいっ。お前誰なんだよ。そんな猫なで声で「えいっ」なんて十九年間一度も言ったことねーだろお前!


「なぁ、華乃。お前未成年だろ。停学になっちゃうぞ大学」

「飲んでないから。まぁある意味酔ってるかもだけど。お兄とのいちゃいちゃラブラブえっちに……♪」

「うーん、聞きたくない。語尾に音符付ける感じで話すのとかホントやめてほしい一生」

「じゃあハートにしたげよっか。えっちのときはハートマーク付いてるみたいなえっち声いっぱい出さされちゃったもんね……♪」


 たぶんハートマークを三回聞いたら死ぬと思った俺は、禁じ手をとることにした。


「きゃっ♪」


 てか華乃を抱きしめて二人で掛け布団に潜った。

 先日リコと行ったお布団会議である。頭まですっぽり隠れることで、カメラから逃れて演技なしの本音トークができるのである。密着することで声を拾われずに会話することができるのである。すごいのである。


「お兄のえっち……♪」

「おい、もう撮られてねーから。それやめろ。何が目的なんだ?」


 俺はスマホを取り出し、自分たちの顔を照らす。

 華乃は、ぷっくりとした涙袋に支えられたその双眸を鋭利に濁らせ――要するにいつもの不機嫌そうな童顔で、


「……………………は? 演技でしょ? お兄に恋してお兄に迫る女子の。あんたらがやれって言ったんじゃん。リコとお兄が作った台本を忠実に再現してるだけなんだけど。何か文句ある?」

「華乃……っ、おかえり……っ!」

「なに泣いてんの!? キモっ、童貞お兄キモっ!」


 俺を見下すような気怠げな声、噛みつくように俺を童貞と罵ってくる声。心底安心させられる。ああ、本当に大切なものはこんなに近くにあったんだ……第一部、完。


「――って、そうだろ! 俺童貞じゃん! 何でお前とセックスしてることになってんだよ!?」

「ちょ……っ、やめてよ、お兄とセッ、セックス、とか……最悪! キモっ! 冗談でもそんなこと言わないでよ!」

「お前が言い出したんだろ!?」

「そうだった……いやだからっ! あんたらがやれって言ったんでしょっ!」

「……っ、やっ、そ、そうだけどよ……」

 確かに言った。華乃が俺に積極的に迫るようにリコは指示し、俺もそれを支持した。だけど、だけどよ……、

「ここまでしろとは言ってねーだろ……」

「し、知んないしっ! こんな番組あたし見たことないもんっ! どっからがやり過ぎかとかわかるわけないじゃんっ」


 真っ赤な頬を膨らませてプイッとそっぼを向く華乃。そうそう、そういうのがお前らしいよ。

 つーかよ、お前が恋愛リアリティショーに全く興味ないことぐらい知ってっけど……ならじゃあやっぱり何で、


「なぁ、お前ホント何でメゾテラに応募してきたんだ? 彼氏がーとか生活費がーとか言ってたけど、そんなの何とでもなるだろ。何で俺に隠してまで……てか俺がこの番組のファンなこと知ってただろ? じゃあ隠してたって結局バレるってわかるだろうが」

「……っ、う、うっさいっ! お兄が童貞だから理解できないんでしょ! てか続けるよ! お兄もちゃんとあたしに合わせて演技してよねっ! 一応言っとくけど、全部演技なんだからねっ!」

「お、おいっ」


 華乃が掛け布団をめくって、俺たちの胸から上を外に出してしまう。

 お布団会議終了、カメラに囲まれたリアリティショー再開である。


「お兄のえっち……♪ お布団の中であんなことして……っ♪ てか、早すぎだってば♪ そんなにあたしの気持ちかった? ふふ、あたしらってホント相性いいよね……♪」


 お前もう俳優とかやったら? リコより向いてると思うぞ。ホント何でそんなにうっとり蕩けた目できんの? 恋する乙女みたいに顔を火照らせられんの? 幸せに溺れてるような声出せんの? お前にそんな演技力があったなんて十九年間一緒に暮らしてて初めて知ったぞ。


「あんなことなんてしてねーしそんなに早くねーし」

「もうっ、そんな見栄張らないでよっ。いっしょにイけて嬉しかったのにっ」

「おーいやめろって。お前ホントにイッちゃってる顔してっからリアルなんだって」


 電灯はついていなくても、月明かりと高性能カメラがばっちりその表情まで写し出してしまうだろう。


「えいっ」

「お前それ絶対久吾の前で言うなよ。あいつ血反吐吐いて死ぬからな?」


 これまで以上に、限界まで身体を密着させるように、むぎゅうっと抱きついてくる華乃。俺の胸に頬を押し付け、


「お兄……好きだよ、お兄……」


 おいおいおーい。そういうときこそ音符付けてね? ポップな感じでお願いね? そんな切なそうな声で言われると重い感じ出ちゃうから。リアル感出てきちゃうから。大女優の本領を発揮しないでくれ。


「華乃さん、もうさすがにちょっと」

「や。ん……っ、いい匂い……すごく落ち着く……幸せ」


 押しのけようとする俺の手を拒み、俺に鼻をうずめるようにしてスーハー深呼吸する華乃。


「えっちの後にこうやってお兄の胸板の厚み感じるのが幸せなのっ。…………ねぇ、スポーツとかやってたでしょ。すごく頑張ってたんだな、ってわかる」

「……さぁな。仕事でめっちゃ重い荷物運んでっからじゃねーの。人手不足でな」

「……そっか。だいじょぶ、仕事頑張ってるお兄も好きだよ」


 何がだいじょぶなんだか。


「頑張ってるお兄も好きだし、ダラダラしてるお兄も好き。あたしと一緒に笑ってくれるお兄が好き、あたしのために怒ってくれるお兄が好き。あたし以外と一緒に笑ってるお兄が嫌い、あたし以外のために怒ってしまうお兄が嫌い。あたしに優しいお兄が好き、あたしに厳しいお兄が好き。あたし以外に優しいお兄が嫌い、自分に厳しすぎるお兄が嫌い。そんな嫌いも全部ひっくるめてお兄が好き……好きなの。だってだって好きなんだもんっ、仕方ないんだもんっ、どうしようもないんだもん……っ。ねぇ、好きだよ……ずっと大好きだったよお兄」


 大女優、初めてのミス。涙を浮かべて声を震わせるその迫真の演技はさすがだが、ここへ来て台詞を間違えるという凡ミス。「ずっと」って、俺たちが出会ったのは一週間前だぞ。


 ――なんて、斜に構えることで、俺は言い訳を探しているだけだ。何に関する弁解なのか、誰に対する釈明なのかもわからぬまま、それでも俺は冷静沈着なふりをし続けるしかない。


 華乃の背中をぽんぽんと優しく叩く。

 視聴者からは、気持ちが昂ぶる華乃を落ち着かせようとしているように見えるだろうが、本当は俺が俺の動揺を沈めるために華乃の懐かしい温もりを利用させてもらっているだけだ。

 だって、華乃の気持ちが昂ぶっているなんていうのは嘘でしかないはずだから。俺の心が揺れてしまったことは真実でしかないから。


「…………ねぇお兄、背中だけじゃ、や。頭撫でて、昔みたいに」

「昔みたいに……?」

「む、昔見たイニ……シエーション・ラブ? って映画でそういうシーンがあって憧れてたって言いたかったのっ! あたまっ、撫でてっ!」


 ほら、ボロが出始めてきてんじゃねーか、もうあんま喋らんほうがいいぞ。まぁ頭は撫でるけども。


 ああ、懐かしいな。

 華乃が日向ぼっこする猫みたいに目を細める。気持ちよさそうな声を出して俺の胸に顔をうずめてくる。

 手のひらに感じる柔らかくてサラサラな感触。色はだいぶ明るくなったけど、この肌触りは昔から全く変わっていない。華乃以上にたぶん撫でてる俺のほうが気持ちいい。


「……出てっちゃヤだよ、いつまでもいっしょに暮らすんだから」


 視聴者は、メゾテラでの生活のことだと思うんだろうか。

 これが俺の妹である華乃の言葉なのか、『メゾン・ヌ・テラス』の出演者である鈴木華乃の言葉なのか、俺にはわからない。顔を上げてその表情を見せてくれたなら、少しはわかりやすいのに。

 なんて俺の気持ちが通じたのか、本当に華乃は顎をクイッと上げて、


「ん」

「ん?」

「ん、ちゅう」

「ちゅう……?」

「あたしが『ん』って言ったらお兄はあたしにチューしなきゃダメなのっ!」


 いやあったけどよ、昔そんな決まり。

 でもあれだってお前からやらなくなったんだからな。幼い妹とチューすることぐらい、ガキのころの俺は別に嫌じゃなかったんだ。お前の反抗期は早すぎて、そんで長すぎんだよ。


「バカ、できるわけねーだろ」

「なんで? リコとはしてるじゃん。何でお兄のことを好きじゃないリコとは何度も何度もキスして、お兄のことこんなに好きなあたしとはキスできないの?」

「そりゃだって俺はリコのことが好きだけど、お前のことは……」

「……妹みたいにしか見れない?」


 妹だからな。


「……じゃあ、わかった。『好き』のキスじゃなくていいや、『治療』のキスして」

「ち、治療?」

「お兄とリコがキスしてるの見るたびに、あたしの心は傷つけられたんだよ? 苦しかったんだよ? 責任とって、治療してよ……ん」


 華乃が俺を見上げる両目をゆっくりと閉じていく。


 ああ、もう限界だ。緊急避難だ。


 俺は再度、掛け布団を頭の上まで被り、華乃と共にカメラからその身を隠す。

 はぁ……これでいつもの華乃に戻る。

 スマホの光で暗闇を照らすと、そこには普段通りの華乃が――両目を潤ませ、顔を耳まで真っ赤にして、


「うん……いいよ、あたし、本当にしてるとこはお兄以外になんて見られたくないから……布団被ってしよ……?」


 おい早く戻ってこーい! 本当の華乃さんカムバックプリーズ!

 それとも、それとも……これが本当の、「いつもの」華乃なのか……?


「華乃、俺もうギブ。あれか、あれだろ、十三歳のとき冷蔵庫にあったわらび餅を勝手に食ったのを怒ってんだろ。そうだ、あれは確かに俺だ。謝る。すまん。今度もっとおいしいやつをたくさん買ってきてやるからもう許してくれ」

「わらび粉を買ってきて。あたしが作ったげるから一緒に食べよ。……ねぇ、リコには言わないから。誰にも言わないから。てか、誰にも言えるわけなんてないじゃん。今日はベッドに潜って二人で眠ってただけってことにする」


 ――ああ、ダメだ。おい、頼むからそんなサバサバとした話し方をしないでくれ。頼むから語尾に音符を付けてくれ。ハートマークを付けてくれ。


「ヤエちゃんほどじゃないけど、あたしだって結構大きいんだよ? ま、お兄はそんなこと気にしないか……キモキモ童貞のくせに女の子に優しいんだから……ホントキモっ」


 そうやって素のお前を出される度に俺は追い込まれていくんだ。なぁ頼む、どんなに気色悪くても、どんなにお前らしくなくても、どんな方法でもいいから、演技中であることを俺に示してくれ。

 俺に、逃げ道をくれ。


「ねぇ、お兄……固くなってるのは……演技、だよね?」


 演技じゃねーよ、間違えた、固くなってねーよ!


 華乃の細い指が俺の太ももを撫で上げてくる。


 ああ、クソっ。やろうと思えば、力づくでこいつを突き放しちまえば、こんな状況からは逃れられるはずなのに。どうしてやらない?

 華乃に乱暴なことなんてしたくないから? まだこれがこいつの悪戯だと信じているから? あと一秒もすれば、こいつが「ドッキリでしたーっ、キモっ、童貞お兄キモっ」と蔑んでくるに違いないから?

 きっとそれは全部正解で、全部合わせても不十分だ。

 俺は、俺はたぶん、


「お兄、大丈夫だよ。あたしも同じだから……ね、さわってみて――」


「うらぁあぁああああぁっぁっ!!」


 ドアが跳ね開けられる音がした次の瞬間、ハンマー投げ選手のような雄叫びとともに、タッチダウンを決めるアメフト選手の如く布団に潜り込んできたのは――、


「リコ……っ!」「…………っ」


 ジェラートピケが全然似合わないその人、ツイッターフォロワー数7149人を擁する未来の人気タレント、演技なんてまるでできない俺の幼なじみ、海老沼紫子――リコだった。

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